現実、フィクション、オルタナファクト、洗脳
なぜ私が洗脳を考えるにおいて具象の土地とテリトリー、抽象の文化民族思想風俗を合わせた国家という市街劇。と言ったか。つまりはこの具象と抽象二つの間で発生する磁力、エネルギーこそ、空間の意識、人格の発生源だと見たからだ。その生々しさ、演劇性という観点から国家、空間を見る際に演技とはおそらく身体という具象とイメージ、台詞、脚本、感情という抽象この両方の乖離か融合によって成り立つ。演技演劇は空間に広がるオーラ、意識、人格である。
しかしなぜ高名な社会学者や歴史学者が星の数ほどいて、優れた国家論を展開している中で、こんなせん妄そのものの国家像を私は言うのか? それを私は公共領域、ポリスの忘却にあると考える。社会学者のハナー・アレントは私的領域、労働のための国民国家によって公的領域、ポリスが消失したと言ったそうな。アレントの当時も公的領域は無かったし、それは今までも続いていたのかもしれないが、今まさにもっと深刻かと考える。いや、アレント当時戦争によって失われた公共領域と同等な状態で我々は生きているのかもしれない。それに人は抗うことができるか否か、そのための思考を私はしているのだし、それが洗脳"自己洗脳と精神分裂活動演技"でありたいと思う。そういった、私の目の前で今うねりをあげ押し寄せてくる凶悪な現実に対して、私はちっぽけな、葦のような存在である。しかしその中であっても私の生存圏、私の生きたことを示さなければならない。その地道の結晶鍛練こそが公共領域であろうし、そのために私は自己を洗脳し、世界を歪め続けるだろう。それがちっぽけな私が現実の中で生きようとする姿である。
この話のタイトルは「現実、フィクション、オルタナファクト、洗脳」と決めた。私はこの文章で自己内部の空間と自己の空間領域が重要だと言ったが、ではそれに対しての現実とは何であるか? ここで行われているのは、現実と自己メカニズム空間との主権の奪い合いである。無論、今まで述べた国家という市街劇も後者に含まれる。だが待て。自己メカニズムと空間は"ジーン・シャープ猿の寓話〜"における洗脳を解くためのアクションだとも言った。この辺りの関係性は? つまりは、それらと洗脳も市街劇という国家も一括りにでき、その中で領土争いを起こし、そしてその争いの目前にのっしと巨悪の現実がある。そして言葉を使ってしまった上で悪しく言う気など無いのだが、ハンセン病患者は現実の側である。しかし何も彼らだけが現実ではない。我々人間皆生き物も生身の肉体を持つ以上、巨悪の現実に根を下ろしている。つまり、自己メカニズムと空間とは、その生身の肉体という具象に対しての抽象、それすなわち自己内部のメカニズムと自己の空間面積として、市街劇として演じてゆく。それが、自己洗脳と精神分裂活動演技である。
その洗脳について私がもう一つの懸念がある。それはオルタナファクトだ、現実とは異なる裏の事実、とでも言えばいいか。これは、現実とも、フィクションとも言い難いような。一体なんであるというのか。ここで私が述べるのは、仮に自己メカニズムと空間がフィクションであったとしても、オルタナファクトではあり得ない、ということだ。つまりはオルタナファクトは市街劇でも自己洗脳精神分裂活動演技でもない、もしそれらを混同する人がいるなら。
この際オルタナファクトがフィクションか否かはわからないが、私にとっては明確な違いがある。それは、洗脳とはフィクション以上のものに成り得るはずはなく、決して現実足り得ない、ということだ。それに対しオルタナファクトとは、現実そのものに作用しそれを変えようとする。関係を見るならば、
現実、オルタナファクト⇔フィクション、洗脳
である。現実、オルタナファクトとは
攻撃、侵略であり、サディズムであり自己の膨張化であり自己中心である。
対してフィクション、洗脳は
防御、想像でありマゾヒズムであり自己の矮小化そこには他者がいる。
オルタナファクトは現実を侵略しようとするが洗脳はそれができないことを知っており、だから他者操ってつながり、生存圏を作ろうとする。
オルタナファクトは現実に対し王のように君臨しようとする。
洗脳は現実に対し逃避、異なる道を行こうとする。
オルタナファクトが市街劇たれないのはそのサディズムと侵略ゆえである。しかし、洗脳においてもカルト集団がテロリズムに走ることはあるし、寺山修司の市街劇も現実に対する芸術的テロリズムと言えはしないか? これは洗脳された集団が主語、であり、洗脳そのものが主語ではない。
空間の意識、人格。
自己内部のメカニズムと自己の空間面積。
自己洗脳と精神分裂的活動演技。
洗脳。
これは抽象であり、
洗脳された集団という肉体の群れ。
という具象との、関係において調整される。良い洗脳と悪い洗脳があるとまでは言わないが、私は国家などの空間そのものもある意味での洗脳の産物、市街劇であると捉えている。そこに立ち帰える。それが寺山修司の市街劇であり祭儀性であり民間芸能であり、奇跡が、ある。他者と手を取り合うということ。
次でまとめようかと考えていましたが、何とかして文庫本一冊に引き延ばしたいので、考えます。