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自己洗脳と精神分裂的活動演技  作者: ヴォルタア・黒とら/ガニミズム・わいばーん
3/4

ハンセン病と優生保護隔離

できそこねぇのアルトー気取りか?

めちゃくちゃだゃ


※これはおもちゃです。意味のある文では無い気がします。


 私は前話"ジーン・シャープ、猿の寓話〜"で、


【自己内部のメカニズムと自己の空間領域】


 が重要だと言った。そしてこの文章の主要テーマが洗脳、である。それら重要と洗脳というものが、一体どう関係するというのか? それを鮮明にすることが、今回の"洗脳とハンセン病優生保護隔離"を掴む手がかりとなると考える。ではそれら重要と洗脳の関係を一言で言えば、国家である。前もって言っておくが、私は国家についての学術的な考察はできないと断っておく。

 ではその国家とは、人間社会の場合においてそこに居住する土地との関係は切っても切り離せないであろうし、文化・民族・思想・風俗のような塊で形作られる国家も、人が人たる所のものしかし私が見えているものは土地・テリトリーという目に見える〈具象的な思考〉と、文化・民族・思想・風俗という〈抽象的な思考〉とであるということだ。そしてそれは人を洗脳する、第一話で述べた"生存もしくは快楽のためともによってフィクションに適応させてゆくプロセス"の挙動をさせる機械本体そのものだと言ってもよいと考えている。なぜならそれは、人は生きる上で土地・テリトリーという目に見える〈具象〉に縛られ、そして文化・民族・思想・風俗という目に見えない〈抽象〉に縛られる。そこで国家が成り立ち、人々は国民という形でそこに所属する。私にとってそれは国家という名の市街劇であり洗脳である。


 もう一度言うが、私は国家や社会や土地を学術的に論じ記すことなどできないし、興味もない。私は【自己内部のメカニズムと自己の空間領域】の話をしている。


 まだここでは私の言葉の真意がわからぬだろうが、ではここで今回の主要テーマであるハンセン病について。この土地・テリトリーの〈具象〉と文化・民族・思想・風俗の〈抽象〉によって成り立つ国家という市街劇の中にハンセン病患者を入れてゆくと、この場合における〈具象〉の思考とは土地所有・家、というものになる。マジョリティの健康な国民、に所有される土地・家において、彼らは異質な者に映るだろう。そこで生じる忌避感とは悪意ではない。アレルギー反応である。そしてこの生理機能が国家という市街劇の動きである。ではこの言説が何を意味するのか? おそらくそれはマジョリティの健康な国民に悪きもの、それは敵か。が、巣食っているわけではなく、この先ハンセン病に対する知識が増えたとて、両者を隔離などという誤った医学が無くなった今でも、まっさらな状態で本当にハンセン病と向き合えているのか、ということだ。それが、国家という市街劇において劇空間=所有された土地・家で私達とハンセン病患者が同一たれないということだ。その市街劇の舞台で展開されるダイナミズムは、決して理路整然とした思考で動くのではなく、演劇的な生々しさがある。

 かなり急ぎ足で大筋を書いたのであるが。


 自己内部のメカニズムと自己の空間領域と、洗脳を合わせるとそれが国家である。ということ。


 その国家では大地・テリトリーという〈具象〉と文化・民族・思想・風俗という〈抽象〉によって構成されている。ということ。


 その国家が市街劇である。ということ。


 ハンセン病優生保護隔離を国家という市街劇で捉えた時、それは理路整然でなく生々しく演劇的である。ということ。

 

 しかしこれらがどうして私に洗脳という言葉を言わせるのかといえば、私は洗脳という言葉それ以上に我々の世界を定義し形作る力があるように見えるからである。洗脳において〈具象〉、所有された土地・家は、時としてその形を変えさせられ、その空間領域を増減させる。それはフィクションのように見えるが現実であり、人を狂わせる。そして、国家における〈抽象〉的な、文化・民族・思想・風俗とは目に見えないのだ。それはもしか空間というものには意識があり、人格があるように。いや、私は空間に意識と人格があるように感じるのだ。

 これを聞いた読者諸氏は私がまた狂ったとお思いだろう。しかし。ひとえに株式投資や資本経済という極めて無機的なものにとてつもない数の人が振り回され時として命すら失うというのに、その力の範囲、表出してくる空間というものに、経済学や金融工学だけで十二分に検証は足りていると言えるのだろうか? これらのある空間とは。何であるのか?それへの眼差しとは、生々しく、演劇的であり、〈具象〉と〈抽象〉の思考であり、生存もしくは快楽のためともによって適応させてゆくプロセス、挙動のメカニズムそのものである。では一旦空間に意識、人格があるという市街劇的眼差しにおいて、それは何を意味するか?

 それは空間としての意識・人格の前では、現実か、フィクションか、ということは大した差など生まぬということだ。それを人が完全に統制することはできない、言い換えるならば神聖に属する類のもの、神そのものではないのであるが。それに対する人の細やかな抵抗が、市街劇・演劇であり洗脳であるかもしれない。第一話"寺山修司の市街劇〜"で述べた、


 現実の「ここ」とフィクションの「ここではないどこか」。


 これは一見すると現実の「ここ」よりフィクションの「ここではないどこか」の方が魅力的で強力なように見えるが、逆である。圧倒的に強いのは現実であり、フィクションは葦に過ぎない。だからこそ、凶悪な現実「ここ」に対して人は葦のようなフィクション「ここではないどこか」に救いを求め、そこに【自己内部のメカニズム、自己の空間領域】を見い出そうとするのだ。洗脳とはつまり、その凶悪な現実、意識と人格を持つ空間に対し人が少しでもその生存圏・空間を見出さんとすることである。だが待て。ではタイトルのハンセン病と洗脳は何だという。ハンセン病は前者である。しかしそれは病理的な恐怖ではない。そのただそれの形容により、空間がヒステリックな反応を思い、マジョリティの健康な国民が踊らされる、そのハンセン病は踊らせる側で、国家・集団・社会という空間は踊る側である。彼らが持つ肉体、その形態、リアリティーに対する国家・集団・社会というちっぽけなフィクションが恐れ慄く。であるからこそ、当時の人々はハンセン病を隔離せよと洗脳したのだ。己のちっぽけなフィクション、国家・集団・社会を守るために。私は第一話で


"肌感覚で感じる洗脳というものは、その禍々しさを隠してもっと巧妙に我々の生活の中に紛れて、現れ、そして人を引きずりこむと思う〜。"

 

 とも書いた。洗脳は攻撃ではない、防御である。もう一つ付け加えると、この空間の意識・人格には自己と他者、能動と受動、勝利か敗北か、という理屈で動く、敵がおり、第三者的で、体外化された対象は無い。すべては、


【自己内部のメカニズムと自己の空間領域】


 の話である。


 皆さんお気付きか。それは、現実とフィクションは意識・人格を持った空間にとっては容易に入れ替わるということを。

 そして【奇跡の空間】とは、現実ともフィクションとも異なる、第三の領域。であるということだ。

適宜ブラッシュアップします。


次回、

「現実、フィクション、オルタナファクト、洗脳」

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