寺山修司の市街劇、洗脳たるか否か。
今回は"寺山修司の市街劇、洗脳たるか否か"について述べていくわけだが、これは寺山修司を研究する演劇人からも洗脳を研究する専門家からも同時に批判を受けるかもしれない。しかし私はこの二つのどこかに同じようなものを嗅覚として感じているのであるし、現今の情報に押し流される社会において己の感覚を研ぎ澄ますことも必要かと考えるので、述べさせて頂きたい。
では洗脳とは何かという常識を見てみると。思想改造とも言い、自己啓発セミナーやカルト宗教などの強制力を用いて人の思想や主義を変えること、らしい。私はこれに注意深くなる。なぜなら、私が肌感覚で感じる洗脳というものは、その禍々しさを隠してもっと巧妙に我々の生活の中に紛れて、現れ、そして人を引きずりこむと思うからだ。情報ハイブリッド戦、透明な戦争、SNS陰謀論、闇バイト、スマートインフラによる顧客のデータベースを用いた誘導。メタ的に人々の行動を操っていく、私はこの方も洗脳の一種なのではないか、このSNSの時代に巨大な力の洗脳のみに焦点を向けるだけでは足りないのではないかとおもうのである。
では本題の寺山修司の市街劇について。おそらく市街劇についての寺山修司の仕事の中ではあまり明文化されにくいものなのでごく簡素に説明すると、寺山の劇団、天井桟敷が一般の人々が生活している街中で、その往来で、民家・店先の前で、演劇・市街劇を始める。すると往来の一般の人々は突如奇異な動き=演技に驚いて足を止める。そして市街劇を演じる役者はそんな往来の人々こそを市街劇のフィクションの世界に引きずり込もうとする、そのスリリング。寺山の弁を借りるなら、
「〜〜自分達の棲息しやすい世界状態みたいなものをね、政治的な単位として日常的な単位としてでなく作り出すこではないか〜〜共同幻想的な単位としての国家だろうというふうに思う訳です。そうすると幻想を共有出来る単位としてのその枠を無限に拡げていく行為みたいなものは政治的な変革とか政治的な革命とはまったく違ったものだけれど、しかしただの虚構ではなくてね。その事が現実である事によって今の政治的な国家っていうものが幻想とか虚構に変わってしまう位の非常に強靭な思想であってもいいんではないかと思う」〈地下演劇第5号。1972年8月15日発行。P72より抜粋〉
ということである。私が感じたのはこの、現実の世界の枠組みを市街劇というフィクションで壊し、そちら側に一般の人々を連れ込んでしまおうという様が、その本質はもしか洗脳にも似通っているのではないかと見えてしまうのだ。それがある意味での強靭さ、ではないか。つまりはむしろこの現実では無くフィクションである、ということが重要ではとも思うのだ。
宮台真司という社会学者は、サオ師、について語ったことがある。サオ師とは、既婚者やパートナーがいる女性に近づき関係を持ち、その女性を自分に惚れさせてパートナーと別れさせる男性のことである。宮台が言うには何故女性はパートナーを捨てサオ師の下へ行くかというと、彼が現実の「ここ」ではない非現実の「ここではないどこか」を見せてくれるからだ、と言う。サオ師がターゲットとする女性はメンタル的に病み傾向であるとも言い、そんな彼女が現実の「ここ」よりサオ師の非現実の「ここではないどこか」に魅せられ、その手練手管によって溺れてゆく。ある種のそういった生理的な感情の反射に訴えかけるメカニズムは、より生々しい洗脳の在り方として使われているのではないか。そこで見られるのは、洗脳は外部からの圧力というより、自己の内部より生理的な感情の反射によって生存のために適応してゆくプロセスでは、とも思うのである。
であるならば。市街劇も、一般の生活という現実の「ここ」へと、市街劇というフィクション非現実的な「ここではないどこか」を示し、もしそれに熱狂、狂躁、グルーヴし人々がその市街劇「ここではないどこか」へと埋没してゆく生理的な感情の反射に訴えかけるメカニズムが働くなら、それも洗脳の一種と見て取れるのではないか? それが市街劇の他の演劇とは異なる強靭さであり、魅力ではないかと考えるのだ。
「自分達の棲息しやすい世界状態。その事が現実である事によって今の政治的な国家っていうものが幻想とか虚構に変わってしまう位の非常に強靭な思想」
これはそれなのではないか、と。
しかし私は少ないながらも市街劇に関する文章や資料を見る限り、寺山の目論見までは進展し切れなかったのではないか、私はそう見ている。それだけ、一般の人々が生きる現実「ここ」は分厚く重くそして堅牢であったということだ。
しかし私はもしこの市街劇というフィクション、「ここではないどこか」が続けられていたとしたら、それは【民間芸能】になっていたのではないかと思うのだ。それは【民間芸能】という非現実「ここではないどこか」が、【生活のサイクルの中心となり定期的に現れ、その周りに一般の人々が生きていく生活が形成されていく】のである。
私にとって洗脳とは、
「その人の思想そのものを改造するというより、その人の現実、一般生活の『ここ』と対極もしくは上位としての非現実、フィクションのような『ここではないどこか』を示すことで、その人の生理的な感情の反射のメカニズムに訴え、生存もしくは快楽のためともによって適応させてゆくプロセス」
だと考える。そのためなら市街劇も、そうなった可能性はあったのかもしれない、私はそう考えるのである。
この分厚く重く堅牢な現実に対する【市街劇という非現実、フィクションによる生存法としての洗脳】、について私は、
"自己洗脳と精神分裂的活動演技"
というものを考えているのだが、それは後々の文章で述べたい。