7.熱が出た日
誕生日の翌日、私は熱を出してしまった。生まれて初めてのことだ。
今までは元気に動き回っていた。
昨日のパーティーでいつもと違うことをたくさんしたせいで、体も心もすっかり疲れてしまったのかもしれない。夜中、ママんがそっと私の額に手を当てた時、その手がひんやりと感じられて、熱があるんだってわかった。
「朝になったら治療に行きましょう」とママんがパパんに言っているのが、ぼんやりとした意識の中で聞こえた。《病院かぁ…》小さな体が震える。病院にはあまりいい思い出がない。体調が悪いときは、いつも薬をもらったり、注射をされたりしていたからだ。
私は注射が大嫌いだ。かつて看護師だったけど、他の人に注射をするのは得意だったが自分がされるのは死ぬほど嫌だ。学生時代、実習のために何度も友達に刺されたけど、どうしても慣れなかった。
昔のことを思い出しながら、今の自分の体のだるさを感じる。まぶたは重く、頭もぼんやりとしていて、まるで霧の中にいるみたいだ。普段なら大好きな食べ物も、今日はなんだか食べたくない。
体が言うことを聞かないって、こんなに辛いものなんだな、と改めて感じる。
朝になっても熱は下がらず、私はベッドの中でじっと横になっていた。
いつもなら朝食の時間になるとみんなと一緒に食卓に座っているのに、今日はただ天井をぼんやりと見つめているだけだった。そんな私のもとに、パパんとパピーが心配そうな顔をして入ってきた。
「俺、今日学園を休むよ」とパピーが急に言い出した。その言葉に私も目を丸くしたけど、すぐに続けてパパんも、「俺も、今日は仕事を休むよ」と宣言した。それを聞いて、ママんがすぐに反応した。
「ダメです!!」ママんの声はいつになく厳しかった。パパんとパピーは「だって~」と同時に言い訳を始めようとしたが、ママんがぴしゃりと続けた。
「昨日のことでローズは少し疲れただけなんです。ふたりとも自分の仕事をしなさい。やるべきことを疎かにしてはいけません。もしそんなことを続けるなら、もうローズと遊ばせませんよ」
その言葉に、パパんとパピーは肩を落として、しゅんとした顔をした。
普段は頼りになる二人がこんなにもしょんぼりする姿を見て、少し笑ってしまった。
パピーはベッドのそばに寄ってきて、「早く帰ってくるからな、元気になるんだぞ」と優しく言ってくれた。
「明日から夏休みだから、これからいっぱい遊んでやるからな」と言いながら、部屋を出て行った。
パパんも、「早く仕事終わらせるからな!...いや、終わるかなぁ~?」と少し不安そうに笑ってから・・・
「今日は家で仕事だから、時々顔を見に来るからね」と私の額に手を当て、部屋を後にした。
ふたりとも私のことをこんなに気にかけてくれているのだと思うと、少しだけ元気が湧いてきた。ママんの言う通り、きっと昨日の疲れがたまってしまっただけなんだ。早く元気になって、みんなでいっぱい遊びたいなぁ~。
♢♢♢
《今日1日、集中できるかなぁ…》ローズのことが気になって、胸がざわついていた。
昨日の疲れで熱が出てしまったんだろうか?心配でならない。
《まぁ、勉強はなんとかなる。とにかく帰りにあいつに捕まらないように、早く帰らないとな》
だんだんと学園の入り口が見えてくると、誰かが建物の壁に寄りかかっているのが目に入った。
《あいつ、何やってんだ?まさか俺を待ってるのか?》と嫌な予感がしたが、気づかないふりをして通り過ぎようとした。その時、突然大きな声が響いた。
「おい!昨日は、悪かったな。ついイライラして手を上げそうになったんだ。本当にすまない」グレンが深く頭を下げているのを見て、俺は少し驚いた。
「別に、分かればそれでいい。でも、もう二度と会うこともないだろう」冷たい声で言い返すと、グレンはギョッとした顔をしてこちらを見た。
「な、なんでだよー!」驚いた声で問い詰めてくる。
「なんでって、ローズが怖がってるんだよ。だから、もう会わせない」少し大げさに、でも本気で言ってやった。
グレンはがっくりと肩を落とし、しばらくの間沈黙が続いた。それから、深い溜息をついて言った。
「すまなかった。でも、どうしてもあの子に直接謝らせてもらえないか?」
「嫌だね」即答して、グレンの顔も見ずに歩き出した。すると、足音が急に速くなり、グレンが追いかけてくる。
「俺は、諦めないからな!」後ろで叫ぶ声が聞こえ、俺は振り返らずに前を見続けた。
《あいつ、しつこいからな…》心の中で溜息をつきながら、絶対に帰りに見つからないようにしようと決意した。
♢♢♢
俺は朝早く目が覚めてしまい、結局眠れないまま学園の入り口でパトリピアーズを待ち伏せしていた。昨日のことがどうにも頭から離れず、胸が重く沈んでいる。《あの子に直接謝らなきゃならない。許してほしいんだ》そう思いながら、落ち着かない気持ちでパトリピアーズが来るのを待った。
やがて、パトリピアーズが見えてきた。小柄な体に大きなカバンを背負い、ゆっくりと歩いてくる。俺は思わず大きな声を上げて、昨日のことを謝り、頭を深く下げた。「おい!昨日は、悪かった。ついイライラして手を上げそうになったんだ。本当にすまない!」
すると、あいつは冷たい声で『もう会わせねぇ』と言い放った。ローズが俺を怖がっている、と。
心に冷たいものが走った。殴ろうとした俺のことを、あの子が怖がるのは当然だ。
《くそっ、なんであんなことを…》自分に対して激しい後悔が湧き上がってきた。嫌われるのも当然だと、胸が締め付けられる。
それでも、《諦めたくない》と思った。今ここで引き下がってしまったら、もう二度とローズに会えないかもしれない。謝るチャンスすら与えられないなんて、そんなの耐えられない。俺は必死にパトリピアーズを追いかけた。
「俺は、諦めないからな!」と声を張り上げ、走り去るあいつの背中に向かって叫んだ。どうにかして、もう一度会って謝る方法を考えなければならない。
《今は、冷静になれ。頭を使うんだ!鍛えるのは後でいい》自分にそう言い聞かせながら、俺は学園の中に走り込んでいった。
♢♢♢
俺は、アントニオ・ルッカ・バルトが自分の机に荷物を入れているのを見かけたので、別の教室だったが、思い切って中に入って声をかけた。
「アントニオ、昨日は悪かったな。ローズに会わせるつもりだったんだ。でも、あいつがあんなことをしなけりゃ、ちゃんと紹介できたのにさ。」
アントニオは、こちらを振り返り、にっこりと微笑んだ。
「気にしなくていいよ。あの後、ローズちゃんの可愛い寝顔も見れたし、また機会があったら紹介してくれれば。それに、珍しくパトリのあんな顔も見れたからさ。」
「どんな顔だよ?」俺は眉をひそめながら聞き返したが、アントニオは軽く肩をすくめた。
「まぁ、いずれまた機会があるだろう。夏休みが終わる頃には連絡するよ。明日から休みだしな。」
アントニオは少し首をかしげ、「パーティーって言うと男ばっかり集まるから、昨日もむさ苦しかったよな。特にあいつはさ」と言った。
「しょうがないよ。女が来るといろいろと問題も起きるし、最初から男しか招待してないんだ。それに、あいつはもう二度とローズには会わせないよ。顔も見られてるし、今一番の要注意人物だ。」俺は真剣な表情で答えた。
アントニオは少し考え込んでから、言った。
「そうかもな。でも、あいつは悪い奴じゃないんだ。ただ、思い込んだら一直線に突っ走るタイプでさ。あの情熱は、中々真似できないよ。」俺はため息をつきながら同意した。
「確かに、俺にはないものを持ってるな。あいつ、俺のことをライバル視してるみたいで、いつもしつこく追い回してくる。この間なんか腹筋勝負を仕掛けられてさ。また捕まったから、家に帰るのが遅くなっちまった。あいつは寮だからいいけど、俺は毎日通ってるんだぞ!」
アントニオは笑いながら言った。
「でも、家まで30分だろ?俺なんか1時間もかかるんだぜ。寮に住むよりはましだけどな。でも女の子たちは大変だよね。帰りたくても、学園から出られないんだから。」
「そのあたりは色んな事情があって、闇が深いんだよな。俺ももっと勉強して、ローズを守れるようにならないと。」俺は少し遠くを見つめながら言った。
アントニオも真剣な顔で頷いた。
「俺も人のこと言えないよ。将来、エミリーを守ってあげるためにもっと強くならないといけない。一族のトップってのは、やっぱり大変だよな。」
「だな。お互いにがんばろうぜ。じゃあ、俺もそろそろ授業が始まるから、またな。」そう言って、俺はアントニオに手を振り、自分の教室に戻っていった。
授業が終わりに近づくと、俺は周囲を警戒し始めた。いかにしてあいつを撒くか、頭の中で作戦を練らなければならない。
《とりあえず、教室から素早く抜け出して、職員室へ行こう。昨日の件を報告するんだ。その後、先生に頼んで裏口から出させてもらうしかないか…》
心の中で計画を固めながら、周りを見渡した。表の出口であいつに見つかったとしても、きっと気づかれないだろう。
《でも、この手はあまり何度も使えないな…幸い、明日から夏休みだ。なんとか今日だけは逃げ切れるはずだ。》
俺は授業が終わりのベルと同時に、席を立ち教室を後にした。できるだけ目立たないように、教室のドアを静かに開け、廊下を素早く歩く。後ろからグレンの声が聞こえた気がしたが、振り返らず、無視して足早に移動した。《聞こえない、聞こえない…》
職員室に近づくにつれ、少しずつ心の中の緊張が解けていった。なんとかここまでたどり着けた。あとは先生に報告するだけだ。俺は一息ついて職員室のドアをノックし、頭の中で次の行動を再確認した。
♢♢♢
私は、食欲がなく、ずっとベッドから起きられずにいた。ママんも昨日のパーティーの片付けの指示を出したりと忙しそうだった。けれど、水分だけはちゃんと取らなきゃいけない。こんな小さな体では、もし脱水症状にでもなったら大変だ。
ベッドからゆっくり起き上がり、飲み物を探そうとしたその時、小さくノックの音がした。
「お飲み物をお持ちしました」と、カレンさんがドアから入ってきた。タイミングが良すぎないかい?と一瞬思ったが、まぁ偶然かもしれないし…。
「少し、水分を取った方がよろしいでしょう」と言いながら、カレンさんはスポーツドリンクのようなものを差し出してくれた。
両手でコップを受け取ると、私が思っている以上に体が水分を欲していたようで、ごくごくと喉を鳴らして飲んでしまった。冷たい飲み物が体中に染み渡っていくのがわかる。
「もう少ししたら、奥様が来られます。今日は治療に行かれるそうですので、着替えをお手伝いしますね」とカレンさんは言いながら、クローゼットに向かい、着脱しやすそうなジャージを取り出してきた。
まるで私の考えを読んだかのようだった。《こういうのもあったんだ》と驚きながら、ジャージに着替えるのを手伝ってもらった。体がだるくて動かないから助かったよ。
ママんが部屋に入ってきた時、彼女も同じジャージを着ていた。お揃いだ。ママんのジャージは体にぴったりフィットしていて、スレンダーでとてもカッコいい。《ママんを目標に私も頑張らなくちゃ》と思いながら、ガッツポーズを決めようとしたが、力が抜けてひっくり返りそうになった。
そういえば、まだ私、熱があったんだった…。すっかり忘れてたけど、今は無理しないほうがいいみたいだ。
ママんに抱っこされたまま、私は昨日初めて来たホールにやってきた。ホールから庭に向かう途中、私はウトウトと眠くなり、いつの間にかまた、寝てしまった。
気がつくと、まだママんに抱っこされたままで、ママんはソファに腰かけていた。
目の前のテーブルには、飲み物と小さなお皿に紫色の丸いものが並べられている。
《これは、ぶどう味のグミ?ママんのお茶菓子かなぁ?》と考えていると、ママんが優しく話しかけてきた。
「起きたの?調子はどう?」と聞かれたので、「体がだるいの」と答えた。
ママんは小皿に乗っていたグミをひとつ手に取り、「これをお口に入れますよ?」と言って、私の口元に近づけた。
私はそのグミをもきゅもきゅと口で味わい、飲み込んだ。
「このおかち、おいちい」と言うと、ママんが微笑んで「これはお薬よ。これを食べたらすぐに良くなるわ」と言った。
よくわからないけれど、これでおしまいなのかな?寝ている間に診察が終わったのかもしれない。痛いことがなくてよかったと安心しながら、また眠気が私を襲い、目を閉じた。
次に目が覚めると、《あれ?なんだか、だるさがなくなっている!》と感じた。嬉しくなって、「やったー!治ったー!」と両手を上げて喜んでいると、横から声が聞こえた。
「もう少し寝ていた方がいいぞ。薬は効いたようだな」と私の顔を覗き込むのはパパんだった。
「パパん、おちごと終わったの?」と尋ねると、「ああ」と低い声で返事が返ってきた。
ん?パパんの機嫌が悪いのかな?いつもより声が低いし、なんだか元気がない気がする。
「パパん、どうちて怒ってるの?ローズ、なんか悪いことちた?」と不安になって、涙が目に溜まってしまった。《パパんが私に怒ってる!どうしよう》と混乱し、泣き始めてしまった。
その時、パパんの後ろにいたママんが近づいてきて、優しく語りかけてくれた。
「パパん、ダメよ。顔に出しちゃ。ローズが怖がるでしょう?ローズ、パパんは怒っているんじゃないのよ。パパんはローズのことが心配で心配でしょうがないの。ママんとパパんは、ローズが寝ている間にローズのお話をいっぱいしたのよ。とっても大事なお話。ママんの言っていること、わかるわよね?」
「は・い」と小さく答えると、パパんがさらに難しい顔をした。
「ローズ、ローズはまだ1歳になったばかりなんだ。普通、こんな大人の話がわかるはずがないんだよ。私は心配なんだ、ローズが特別なことを誰かに知られて、どこかに連れて行かれるんじゃないかって。だから、このことは誰にも言っちゃいけない。ママんとパパんとローズだけの秘密だ。誰にも知られちゃダメだよ。」
「パピーにも?カレンさんも?ローガンさんも?」と尋ねると、パパんは少し考えてから答えた。
「あいつは頭がいいから、時期が来たら話すよ。カレンやローガンには決められたことしかプログラムされていない。ただ、色んなことを相談したり、友達のように接するのはやめたほうがいい。カレンとローガンは、パパんとママんが指示を出す。ローズが命令してはいけない。ローズはお世話してもらうだけでいい。わかったかな?」
「なんだかわかんないけど、わかった。パパん」と答えると、パパんはそっと私を抱きしめてくれた。
「ローズはいい子だな。きっと明日には体調も良くなるだろう。ゆっくり休むんだよ」と言って、パパんは私の額にキスをしてくれた。
よくわからないことが多いけど、この世界についてもっと知識が必要だ。
自分で判断するためにも、色々なことを知りたい。遠ざかるパパんとママんの足音を聞きながら、私はまた、目を閉じて眠りについた。
そして、私はこっそりと決意する。知識だけでは足りない。守られているばかりではいけない。自分自身を守るすべも身につけなければならない。
もっともっと頑張らなければ、この幸せな家族を失うわけにはいかない。自分が早く成長し、強くならなければ、ママんとパパんとパピーを守ることもできない。私は、今後のために心に深く誓った。