2.パパんとママんとパピー
意識が戻ると、目の前が群青色に染まっていた。
だが、それは群青色より少し明るい、不思議な色合いだった。ぼんやりとした意識の中で、《何だろう、この違和感は?》と感じたが、眠気が勝ち、再び意識が遠のいていった。
次に目を覚ましたとき、薄暗い部屋の中で小さな豆電球の光が見えた。
そこに、パジャマの上に薄手のガウンを羽織った女性がいた。
《あれ?女性?》と、混乱しながらも目を閉じて考えたが、すぐにその考えは途切れた。
「お腹は、すいてないの?」その女性の高音でゆっくりとした声が、私の耳に届いた。彼女の声はどこか懐かしく、安心感を与えてくれるものだった。
薄目を開けると、優しい笑顔のとても綺麗な人が私を覗き込んでいた。
「あーーー」声が出た。だが、自分の思っていた声とは違う。
ただ「あーーー」としか言えない、まるで赤ちゃんのような声だ。
《何だ、この声は?それに、この体の違和感は…》
私は必死に体を動かそうとしたが、両手の指だけがわずかに動いた。
突然、掌に暖かい感触があり、反射的にそれを握った。
「うふふっ、いい子ね~ご飯にしましょうね」その声を聞くと、急に空腹感が押し寄せてきた。
口に何かが触れ、反射的に口を開けると、生ぬるい液体が口の中に流れ込んできた。
私はそれを飲み込み、もう一口…また一口…。そうか、この味は、ミルクだ。自分がかつて子育てしていた頃の、あのミルクの味だった。
私は、赤ちゃんになったのかな??・・・
頭の中では、そんなことを考えていたが、口は絶えず動いて、飲み込むを繰り返していたようだ。本能だねぇ!
本能に従い、また段々と眠くなってくる。
近くで女性の優しい声が聞こえてきて・・・
「お腹いっぱいになりましたか?ゲップしましょうね~」と縦抱っこされ、背中を優しくトントントン・・・
すると、何かが込み上げてきた。『ゲッフーっ!!』。やっちゃった。
「相変わらずいい飲みっぷりねぇ~ゲップも特大だし。元気が一番!!」となにやらこの綺麗な人はとってもはしゃいでいる。
そりゃ~、赤ちゃんは、元気が一番だけど・・・
《たぶん何回かミルクを飲んだみたい。だけど、覚えていないや。》
ゲップが大きいのは、あんまりミルクが逆流しないってことだから悪いことではないんだろうけど、女の子だったら終わった気がする。
そういえば、唯子のときはもちろん女だったけど、今回はどっちだろうか?
すると、したの方がスースーしてきた。
「お尻綺麗にしましょうね!!」
とお尻がふわふわのもので優しく拭かれて、暖かくて安心する感じがした
《あ~~気持ちいい・・・えっ、おっ・・・おむつかぁ~》
色々思うところはあったが、スッキリして、気持ち悪くなくなった・・・
女同士だったら、あまり気にしないのだけど、自分が男の子だったら?・・・
あまり深くは考えないことにし、寝ることにした。
だいたい1週間くらい経ったのかな。少しずついろんなことがわかってきた。
このきれいな人は、お母さんなんだと思う。まだお父さんには会っていないけど、お母さんは髪がふわふわしてて、栗色でツヤっツヤだ。。目は、やさしい薄い緑色で、見つめてくれると安心する。
《本当にきれいな人だ。お姫様みたい。》
お母さんはいつも高いところにいるから、見上げると顔が見える。でも、お母さんの声はいつもすぐそばに感じるんだ。
前はどんなだったかな?普通だったと思うけど、今はどうかな?ちょっと楽しみが増えた。
今世の見てくれは、期待をしてもいいだろうか?・・・
鏡を見てがっかりしたら、精神的にも良くないので心の片隅に置いておこうと思う。
なぜ、この人が母親だとわかったかというと、ことあるごとに「私の赤ちゃん(日本語だ)」や「ベイビー」と呼び掛けてくれるから・・・
なんとも漠然とした呼び名だが、これがお手伝いさんだったら、こんな風には呼ばないだろうとの勝手な理屈からだ。
それと・・・とんでもなく優しい。
夜中でも何でも《お腹減った》と泣きわめく赤ん坊に対して、眉一つひそめることなく「お腹すいたの?」「おむつ替えますよ〜」と優しい口調で話しかけてくれる。
絶対にとっても眠いはず・・・
苛ついたり、眉間に皺をよせ不機嫌そうな様子は、少しもなく、いつも笑顔だ。
《これが愛っていうのかな?お母さんはいつも優しい》
とにかく、できたお母様なのだよ。
お風呂に入れてくれるときも、お湯はぽかぽかで、手はあたたかくて気持ちいい。
おむつを替えてくれるときも、優しく話しかけてくれるし。なんてったって、めちゃくちゃ綺麗だし、可愛いし・・・
ということで、私の中ではもう母親と決定している。
《お母さんは『赤ちゃん』って呼ぶけど、名前はまだわからない。早く教えてほしいなぁ~》
んっ?まだ名前が決まってないのかな?実は養子に出す・・・とか?
どっちにしろ、しばらく様子を見だね。赤ちゃんだから、寝て待とう。それから、食っちゃ寝、食っちゃ寝の毎日なのだ。
この一週間は、情報収集にあてた。まず、目に見える範囲だが、ほぼ天井しか見えない。
夜になると、天井に小さなキラキラした光がたくさん見える。それはまるで満点の星空のようだ。
昼間は、天井が青っぽく、水の中から上を見上げるとゆらゆらと動くように感じる。
夜明け近くになると、太陽らしきものが見えてきて、明るく眩しくなってきて、まるで水の底に移動しているかのように、徐々に程よい明るさに調節されていく。
明るすぎず、暗すぎず、とても赤ん坊の目に優しい。
夕方になると、天井は赤みを帯び、段々と暗くなり、再び星空になる。不思議で面白い。
起きている間は、特にすることもないので、基本的に天井を見ている時間が多い。
ミルクの時間になると抱き上げられる。
壁が時々見えることもあり、壁には魚が泳いでいる。まるで水族館の水槽みたいだ。
昼間も、やはり天井には時々魚が泳いでいて、まるで本物みたいにリアルだ。リアルなプロジェクションマッピングか何かじゃなければ、本物だと思うしかない。
すべてが目新しくて、キョロキョロしていると、「どうしたの?」とまた優しく囁かれた。
声を出してみるが、「あー」とか「うー」といった声しか出ない。
「ママんに話しかけてるの?そう」と囁かれる。
《んっ?ママん》
前世では「ママ」や「お母さん」、あるいは「母ちゃん」と呼んでいた気がするが、「ママ」に『ん』がついているだけで、呼び方が少し変わっただけなのだろう。まさか「ママン」が名前ではないだろう。やはり、母だと確信する。
この部屋は、きっと海の中なのだと思う。ただ、少し理解できないのは、夜になると星空が広がることだ。
昼間は海の中で、夜になると浮上するのだろう…きっと。
基本的に、食べては寝るの繰り返しなので、起きている時間は短い。でも、その短い時間を無駄にはしないようにしている。
前世で、唯子は子供を一人産んで育てた経験がある。その経験を活かさなければ、何のために生まれ変わったのかわからないではないか!
まず、赤ん坊の身体的な発達としては、最初に首が座ることが重要だ。これには約3か月程度かかるが、早い子だと2か月目くらいから首が座ることもある。目標としては、首座りが1か月、寝返りが3か月、ハイハイが4か月、そして歩行は半年で達成したい。
おむつは1歳には取りたい。おむつは精神的にも負担が大きいので、早ければ早いほど良い。そうだ、言葉も1歳くらいには話せるようになりたい。周りとのコミュニケーションはとても大事だからだ。
ということで、生後1日目からいろいろと実践することにした。まずは、各部位を動かすことに集中する。首を左右に動かし、両手両足を開いたり閉じたりする。
すべてを並行して行うことで、効率よく全身を鍛えられるだろう。理想は、同時に声を出しながら動くことだ。しかし、筋肉がないから全然動かせない…ぐすん。
うぅ…ここで諦めてしまったら、世の中の他の赤ん坊と同じになってしまう。頑張れ、自分!
目が覚めた時は、とにかく体を動かすことに集中する。これがなかなか大変だ。
首を動かそうとしてもなかなか動かないし、手足も思うように動かない。でも、指は少し動くようだ。
とりあえず、手足は指を動かしてみることにする。首は1cmくらいは動かせるだろうか…。
1分くらい動かしていると、すぐに疲れて眠くなってしまうか、お腹が空いてしまう。疲れたり眠くなったら、よく食べて、よく寝ることにする。寝る子は育つっていうしね。
2、3日そんなことを繰り返していたら、首が少し動くようになってきた。約2cmくらい左右に動かせるようになった気がする。
両腕と両足も、2、3cmくらい動かせるようになった。ただ、足を開いたり閉じたりするのは難しいみたいだ。そもそも、赤ん坊はガニ股だから、開きっぱなしの状態で、開いたり閉じたりするのはレベルが高い。
だから、開きっぱなしのままで足を蹴ってみることにした。
これが案外できる!しばらくはこの調子で、足の運動を続けてみよう。
この運動をしていると、ベッドの上で体が斜めになってしまったり、端っこに行ってしまったりと、寝相がかなり悪くなる。自分でも驚くほどだ。
ママんが来ると、いつもベッドの端っこに移動している私を真ん中に直してくれる。
「生まれたばかりなのに、すっごく元気ね〜」と、不思議そうな顔をしている。
「パピーの時は、もっと大人しかったのに、その子によって違うのねぇ〜、当たり前だけど…」
《??パピー?》
パパじゃないよね?明らかに同じ赤ちゃんのことを言っているようだし…。もしかして、私って二人目?上に兄か姉がいるのかな?兄姉がいた方が、一緒に遊べて楽しいだろうし、いた方がいいかも。
それにしても、「パピー」って名前なのかな?性別はわからないけど、お姉ちゃんっぽい気がする。
うん、考えてもわからない時は、頭がパンクする前に寝ることにしよう。
寝ている間に答えが見つかるかもしれないしね。
もしママんが母なら、父はパパんになるのかなぁ〜。
パピーが兄か姉だとすると、自分はどんな名前なんだろう?
まぁ、何にせよ、パパんとパピーにいつ会えるんだろうか?
7日目は、ほぼ一日中こんなことを考えていた。
たまには休まないと筋肉は育たないと、自分に言い訳をしながら今日は寝ることにする。
8日目の朝、何やら周りが騒がしくて目が覚めた。薄っすらと目を開けると、見知らぬ銀髪でヒゲもじゃの男の人が目の前に覗き込んでいた。
すると、突然、背中を刺された時の恐怖を思い出し、息ができなくなった。
次の瞬間、肺の中の空気を一気に出し、悲鳴をあげる。
「ぎゃぁぁぁぁーーー!」
「わぁぁぁーー!」と、ヒゲもじゃも驚いて叫んだ。
さらに私は泣き叫ぶ。
「どどど…どうしよう!ママん!ママん!」
「パパん、そんな顔で覗き込んだら、びっくりしちゃうよ」と、ヒゲもじゃの後ろから何かがひょこっと出てきた。
《か、か、か、可愛〜い》
何かと思ったら、とんでもなく可愛らしい黒髪の男の子が…えっ、女の子?もうどっちか分からないけど、め〜ちゃく〜ちゃか〜わ〜い〜い〜!
髪の色は青っぽい黒に近い感じで、目の色も同じような黒。前世は日本人だったから、親近感が湧くけど…銀髪オヤジはやっぱり怖い…。
この子は…天使ですか?
ここは、天国ですか?って思っていたら、また銀髪ヒゲもじゃオヤジが現れた。
「ぎゃぁぁぁぁーーー!」
「パパん、※@△✩だよ!覗いちゃ」
「えーーっ…だって、だって」
「なんで、パピーは良くて、パパんは※@△✩なんだよー」
「パピーって、□✕◁✳なぁーーー」
ガツン!!
て、て、て天使が頭を殴ったぁぁーー。ど、どういうこと?
んっ?パパん?パピー?ってことは…あれ?び、び、びっくりしたぁーーー。
殺されるかと思ったぁ~。
「ひっく、ひっく」と泣いていると、優しい声が聞こえてきて、抱き上げられた。
「どうしたの?びっくりしたの?」
「※@△✩じゃない、パパん。そんな@✩□で覗いたら、誰だってびっくりしちゃうでしょうよ」
「ええっー!って、そうかなぁ〜?」
「俺だって、わかるわ。そんなこと」と天使が呟いた。
「*✡✦✕◇、色々◯▲∞β∂してくるから待ってて」
《ん?なんか所々わからない言葉があるけど?わかるところもあるし…》
パパんらしき人は部屋を出て、どこかに行ってしまった。
「最初から、ちゃんと◯▲∞β∂しておけば、こんなことにならなくて済んだのにね〜」
「ホントだよ!それにしても、こんなにちっちゃいんだね〜」と天使が覗き込んできた。
「まだ1週間しか経ってないからね。パピーは、もう少し大きかったかしら?」
「ママんもパピーって□✕◁✳ないでよ〜!ローズがまねするでしょう?」と天使がほっぺたをぷくっと膨らませる。
な、なんて尊いほっぺなの…ぷにぷにしたい…。えっ、ローズ?
「ごめんなさいねぇ〜パトリピアーズ」
「俺、男なのにパピーは可愛すぎでしょ!」
「そう?ママんは、どっちの□✕◁✳方でも可愛いわよ〜」
「俺は嫌なの!パトリって□✕◁✳ほしいの」
「わかったわ。パトリ」
どうやらパピーは、パトリピアーズの略称らしい。ローズも何かの略称かも?
3分の2くらいの言葉はわかるけど、所々の単語がわからないんだよね〜。なんとなく言っていることはわかるんだけど、時々英語やフランス語なんかも混ざっているようだし…。
パピーは、パトリピアーズの略か!言葉は、そのうちわかるようになるでしょう。
とにかく、自分の名前はわかった。ローズって言うらしい。てことは、女の子かな?前世が女だったので、少し安心した。
「パトリ、ローズの着替えをするから、リビングで待っててくれる?」
「わかった」
パトリは、部屋から出て行った。ローズは、ミルクや着替えをしてもらうとまた、眠くなってしまった。
1ヶ月が経つと、ほぼ首が座ってきた。少し首が揺れるけれど、なんとか縦抱きされても後ろにかっくんとならなくなった。
言葉もだいたいわかるようになった。パパんとパトリが毎日、部屋に来て話しかけてくれるので、言葉を覚えるのが早い。
あの大泣き事件以来、パパんはヒゲを剃った姿しか見せなくなった。
ヒゲを剃ったパパんは、とってもカッコよく、スラッとしていて背が高い銀髪のイケメンだ。
パピーは…どちらにも似てないけど、可愛いからローズのお兄ちゃんでいいや!
初めて会ったとき、どうやらパトリとパパんは学校の行事で1週間泊まりだったらしい。
ローズが生まれた朝に出発したため、連絡もできなかったそうで、生まれてから急いで知らせたそうだ。
学校のカリキュラムはどうしても変更できず、泣く泣く出発したとか。パパんとパトリは1週間帰って来られず、とてもがっかりしていたとのこと。
パピーが一生懸命、ローズに状況を説明してくれたので、なんとなく理解できた。
パピーは何度も「名前も決められなくてごめんな~」と言っていた。
どうやら、この家では男の家族が赤ん坊の名前をつけるしきたりがあるらしい。パパんとパトリは泊まりに行っている間、必死に名前を考えていたようだ。
ちゃんと勉強しなさいね…でも、自分の妹が生まれたら、それどころじゃないか!
ここが異世界なのかもしれないと考えることもあるけれど、そんなことを考えていると1日があっという間に過ぎてしまう。だから、あまり深く考え込まずに、ひたすら鍛えることに集中することにした。