婚約指輪物語
・2024年7月13日 誤字修正
誤字報告ありがとうございました。
誤字と言うか、どちらでも意味が通りそうでしたが、より適切な表現として採用させていただきました。
・2024年7月11日 誤字修正
誤字報告ありがとうございました。
・2024年7月10日 誤字修正
誤字報告ありがとうございました。
・2024年7月8日 誤字修正
誤字報告ありがとうございました。
「イザベラ、お前との婚約を今この場で破棄する!」
そう言い放った王子の隣には、美しく着飾った令嬢が寄り添うように立っています。
婚約破棄などと言いだした理由は明白でした。
どう見ても王子側の不義なのですが、何としてもこの婚約破棄を成し遂げようと息巻いています。
一方で、婚約破棄を突き付けられたイザベラ嬢は、やや白けた表情で王子を見返しました。
元々この婚約は王家が公爵家――イザベラ嬢の生家との関係を深めるための政略結婚でした。
一方的に婚約破棄されたことに思うところはあっても、王家と公爵家が認めたのならば特に異を唱えるつもりはない。
それがイザベラ嬢の考えでした。
ですが、婚約破棄を受け入れたとしても言っておかなければならないことがイザベラ嬢にはありました。
「それは構いませんが、これはどうするのですか、エドモンド殿下?」
そう言って、イザベラ嬢は左手を上げました。
その薬指には指輪が光っています。
それは婚約指輪です。王子の指にも同じものが着いています。
ですが、ただの婚約指輪ではありません。
恋愛神サリアの神殿で婚約の誓いを行うことで授けられる、神授の婚約指輪です。
サリアの婚約指輪と呼ばれるこの指輪は、この世界で最も数の多い神具と呼ばれています。
しかし、いくら数が多くてありふれた品でもそこは神具です。この指輪は不思議な能力を秘めています。
まず、サリアの婚約指輪は授けられた本人専用です。
他人に譲渡したり、他人から奪うことはできません。
一時的に外したり、他の指に着け替えたりすることはできますが、捨てることはできません。
地中深く埋めても、海の底に沈めても、いつの間にか本人の指に戻ってきます。
そして、この指輪を着けた者に浮気は許されません。
婚約者以外の異性と親しくすることは問題ありませんが、過剰なスキンシップに対しては不快感や嫌悪感を覚えるようになり、一線を越えようとすれば相手も含めて一時的に性欲や男性機能が封印されると言います。
「心の浮気までは許すけれども、体の浮気は許さない」と言われるサリア神の権能は、たとえ一時的に指輪を外したとしてもその効果が継続されます。
そして、神に誓った婚約なので、人の都合で勝手に婚約を撤回することはできません。
エドモンド王子がいくら婚約破棄を主張しようと、別の令嬢と婚姻の手続きを進めようと、サリア神はエドモンドとイザベラの二人が婚約関係にあると見なします。
神に認められない婚姻は、不貞として扱われます。
そして、サリア神は不貞を許しません。
サリアの婚約指輪を外す方法は三つ知られています。
一つ目は、サリアの神殿で結婚を報告すること。
これは、婚約指輪から結婚指輪に代わるだけで、不貞を許さないことに変わりはありません。
二つ目は、婚約者が亡くなった場合。
さすがに、死者に生涯操を立てることをサリア神は強要しません。
ただし、婚約を撤回するために婚約者を殺害しようとすれば天罰が下ると云われています。
恋愛神サリアは、同時に復讐の女神でもありました。
三つ目は、真実の愛を見つけた場合。
婚約者以外の相手と運命の出会いがあり、それが浮気ではなく正真正銘愛し合っている場合に限り、新しい相手との婚約が認められると云われています。
残念ながら、エドモンド王子とその傍らに佇む令嬢の間には真実の愛は認められなかったらしく、イザベラ嬢の手には今も変わらず婚約指輪が輝いています。
このままではエドモンド王子のゴリ押しで、その令嬢と結婚したことにしても、二人の間に子供は望めません。
当人はそれで良くても、周りがそれを許すとは思えません。
王族や貴族が跡取りとなる子供を産み育てることは義務です。
王子だからと言って、いえ、王子だからこそ義務を放棄して我儘を通すことは許されません。
それが許されたということは――
(エドモンド王子は見限られたのかもしれません。)
イザベラ嬢の視線は冷ややかでした。
一方、エドモンド王子は自信満々でした。
「その件に関しては、一つ心当たりがある。遥か東の国には絶縁を司る神を祀った神殿があるという話だ。神の力で別れられないのなら、別の神の力を借りればよい。」
(ああ、そういうことなのですね。)
エドモンド王子の言葉に、イザベラ嬢は一人納得していました。
これは、エドモンド王子に課せられた試練なのでしょう。
恋愛神に誓う婚約は誰でも行うことができますが、政略結婚の多い貴族が利用することは稀です。
なにしろ、誓う相手は恋愛神です。政治的なあれこれは考慮してもらえません。
むしろ、一度神に誓ったのだから、政治がどうあれ愛を貫け、と言うことなのでしょう。
しかし、政略結婚のための婚約は情勢が変われば容易に撤回されます。場合によっては結婚済みの夫婦が別れさせられることもあります。
そうでもしなければ政治が立ち行かなくなり、多くの人が困る事態になります。
政治的な都合で撤回できない婚約は、危険すぎて使えません。
けれども、そうしたデメリットだけでなく、魅力的なメリットも存在します。
恋愛神に誓いを立てた夫婦や婚約者は不貞があり得ないことを神様が保証してくれます。
貴族社会では、貞操が疑われるだけでダメージを受けます。
特に若い令嬢の場合は、性犯罪の被害者になったと噂されるだけでまともな嫁ぎ先を失う恐れがありました。
また、貴族家の正統性はその血統によって保証されています。
もしも貴族家の当主や国王になろうとする者に不義の子である疑いが掛けられたら、最悪内乱が起こります。
噂や疑いを払拭することは難しいのですが、神様に保証してもらえるのならば、婚約指輪や結婚指輪を見せるだけで終わります。
もしも、一度立てた誓いを撤回する方法があるのならば、それは貴族や王族にとってもサリア神殿を利用しそのメリットを享受する道を拓く大発見になります。
つまり、エドモンド王子が婚約破棄に成功すればそれは大きな功績となり、多少の我儘は許されるのでしょう。
けれども、婚約破棄に失敗したならば……
ところで、普通は王族や貴族は行わない恋愛神に誓いを立てる婚約を何故この二人が行っていたかと言うと、それもまたエドモンド王子の我儘です。
エドモンド王子とイザベラ嬢が婚約したのは二人ともまだ幼い頃でしたが、その後イザベラ嬢は美しく成長しました。
美人と有名になったイザベラ嬢は大変にモテました。
さすがに王子の婚約者に手を出す痴れ者はいませんでしたが、人当たりの良いイザベラ嬢は男女を問わず人気者でした。
エドモンド王子はその状況が気に入りませんでした。
独占欲の強いエドモンド王子は自分の婚約者がやたらとモテることに我慢できず、絶対に浮気をさせない方法があると聞いて安易に飛び付きました。
強引にイザベラ嬢をサリア神殿に連れて行き、半ば強制的に誓いを立てさせたのです。
それが廻り廻って自分が婚約破棄したくてもできなくなるという自縄自縛と言うか自業自得な状態になっているわけです。
イザベラ嬢の視線が冷たくなるのも無理はないでしょう。
そんなイザベラ嬢の内心を知ってか知らずか、自慢げに絶縁神のことを語るエドモンド王子は、最後に悪びれることもなくこう言うのです。
「俺達の婚約指輪を捨てるために、イザベラも旅に同行して欲しい。」
恐ろしいことに、このエドモンド王子の台詞に一片の悪意もありません。
ただ、言えばたいがいの願いは叶う環境で我儘に育ったため、「自分のしたいことなのだから他の者は協力して当然」と言う発想が染みついているだけです。
自分とイザベラ嬢の婚約を無くしてもらうのだから、二人で行った方が良いだろう。その程度の軽い考えで行われた発言でした。
イザベラ嬢の立場ならば激怒しても不思議はない発言でしたが、慣れっこのイザベラ嬢は冷静に考えます。
おそらくこれは、エドモンド王子にとっての最後のチャンスです。
これまで色々と問題を起こして来たエドモンド王子は、そろそろ何か功績を上げないと国王陛下でも庇いきれないほどに評判を落としていました。
今回の件に失敗すると、廃嫡とまでは行かなくても間違いなく王位から遠ざかります。
当然婚約破棄は認められず、イザベラ嬢は失脚したエドモンド王子と生涯添い遂げなければなりません。
エドモンド王子と結婚しなかったとしても、サリアの婚約指輪がある限り他の嫁ぎ先など無く、貴族令嬢としてのイザベラ嬢に未来はないと言ってよいでしょう。
一方、エドモンド王子が目的を達成した場合、イザベラ嬢との婚約破棄は確定します。
サリア神に誓った婚約と王家と公爵家の間で結ばれた婚約の両方が無効になるので、名実ともに婚約破棄成立です。
ですが、それはエドモンド王子から自由になったとも言えます。
婚約破棄されたことは不名誉ですが、政略結婚ではままあることです。致命傷ではありません。
未来の王妃の座は遠退きますが、公爵家令嬢として考えても王妃になることだけが人生の全てではありません。
良縁に恵まれれば、まだチャンスはあるでしょう。
「承りました。お供させていただきます。」
冷静に考えた結果、エドモンド王子に協力して少しでも成功率を高めるべきだと判断したイザベラ嬢でした。
こうして、婚約を破棄するための旅が始まりました。
それは、事前の想像を超えて長く過酷な旅になりました。
それでも旅の始まりはとても順調でした。
日頃は行き当たりばったりな行動で問題を起こすことも多いエドモンド王子ですが、今回は相当に気合が入っているのか、念入りに準備をしていました。
王子はまず、他国との取引のある商人や旅人から幅広く情報を集めました。
そして、集まった情報を精査して、怪しげな噂話を複数突き合わせることで信憑性を高め、絶縁神の神殿のあると思われる地域をある程度推定することに成功しました。
ここまでで現在エドモンド王子が動員できる限りの人員を投入しています。
そして、他国の情勢や地理的条件も加味して、安全かつ最短で目的地まで到達できるルートを割り出しました。
さらには、途中通る友好国の王族や主要人物を表敬訪問することで外交の一環とし、国からの予算を引き出すことにも成功しています。
日頃からこのように有能なところを見せていれば問題児扱いされることもなかったのに、と思ったのはイザベラ嬢だけではありませんでした。
けれども、順調だったのは最初の頃だけでした。
計画との齟齬が現れ始めたのは、表敬訪問が終わる頃でした。
どれだけ綿密に計画しても、現地に行かなければ分からないことはあります。
ちょっとした想定外が積み重なって、少しずつ予定が遅れて行きました。
ただ、この時点では特に気にする者はいませんでした。
表敬訪問は相手の都合もあり、予定が遅れることは珍しくありません。多少の遅れは想定内で、余裕を持ったスケジュールを組んであります。
ですが、外交活動が終わって後は目的地に向かって邁進するだけとなっても遅れを取り戻すことができません。
その理由は、すぐに明確になりました。
国から離れるにつれて、事前に集めた情報が役に立たなくなってきたのです。
遠く異国の商品を扱う商人でも、幾つもの国を越えて直接行き来する者は稀です。
必然的に入ってくる情報は噂話を中心とした伝聞になります。
距離が離れるほど間に挟まる人は増え、面白おかしく話が盛られ、原形を留めぬほどに脚色されて行きます。
嘘ではなくても何十年も前の出来事を今の事のように話したり、特別奇妙な出来事を一般的なことのように語ったり。
かと思えば、その地では重要な事柄が抜け落ちてしまったり。
近隣の国ならば実情を知って訂正する人もいるでしょうが、ほとんど交流もないような遠方の国では真偽を確かめる術はありません。
そんないいかげんな噂話でも、遠くの国にまで行く機会のない一般の人には何の影響もありません。
けれども、その噂話を基に計画を立ててしまったエドモンド王子たちは困ってしまいました。
ある程度の想定外は考慮してスケジュールには余裕を持たせていましたが、その程度では吸収できず、計画を見直すことも度々ありました。
そんなことが続いたので、一度最初の計画を全て白紙に戻し、行く先々で情報を集めてから次の行動を決める方針に変更しました。
歩みは遅くなったものの、闇雲に動くよりもよほど確実でしょう。
そうして、改めて情報を集め直し精査することで、あまり知られていなかった東方の情勢が見えてきました。
そして、目的地である絶縁神の神殿のある場所についても。
そこは当初の推測よりも何倍も遠く、その道程はとても険しいものでした。
最初から知っていれば、無謀な挑戦としてこの旅は行われなかったでしょう。
けれども、先に進む度に少しずつ少しずつ、「もう少し遠いらしい」「ちょっとした難所があるらしい」と明らかになって行ったため、旅を中断して引き返すタイミングを逃してしまいました。
旅は進むほどに厳しさを増しました。
数々の苦難が一行を待ち受けます。
時には乾燥した砂漠を進み。
時には夏でも雪を頂く山脈を越え。
時には鬱蒼と茂る密林を伐分て進みました。
また、ある時には賊に襲われて戦いました。
間諜と疑われて追われたこともありました。
路銀を稼ぐためにイザベラ嬢やエドモンド王子まで働くこともありました。
言葉が通じなくて苦労したことも、その土地の不思議な慣習に翻弄されたこともありました。
長く辛い旅の中で、護衛に連れてきた騎士たちは、一人また一人と抜けて行きました。
ある者は怪我や病気に倒れました。
ある者は旅の辛さに耐えかねて逃げ出しました。
ある者は現地の女性と懇ろになってその地に留まりました。
もう諦めて帰ろうと何度も思い、ここまで来たのだからあともう少しと思い直し、旅はさらに続いて行きました。
そして――
「その旅の途中で生まれたのがお前だ、アレックス。」
「何やってんですか父上! いえ、知ってましたけど!!」
エドモンド王とイザベラ王妃の息子、アレックス王子は思わず父親に突っ込んでいました。
長い旅を終えて帰国した時、エドモンド王子が王位に就くことは絶望視されていました。
予定をはるかに超えた長旅で一時は死亡説も流れた上に、旅の目的である「サリア神に誓った婚約の破棄」も成していないのです。
けれども、エドモンド王子はそれ以上の成果を上げました。
それは、東方を旅して得られた多くの知見と経験です。
実体の良く知られていなかった遥か東の国々の様子を実体験をもとに詳細に描かれた手記はたちまちベストセラーになり、王子は一躍時の人となりました。
その名声は国内に留まらず、近隣諸国まで広くエドモンド王子の名は知れ渡りました。
そうした旅の土産話と東方の国々で見つけた珍しい品を手に、帰りに立ち寄った国々で要人と会談し、友好を深めました。
はるか遠くの国にまで祖国の名を知らしめ、自国民に対しては王家の威光を高めました。
これだけのことを成し遂げて王位に就けなければ、何か良からぬ陰謀があったのではないかと他国の者にまで勘繰られてしまいます。
偉業を成し遂げたエドモンド王子ですが、婚約破棄は成らず、逆に子を儲けて帰って来たため、そのままイザベラ嬢と結婚しました。
その後もエドモンド王子は旅で得た知見と経験と人脈を活かして精力的に働き国を豊かにしました。
その実績を認められて先代国王より王位を譲られ、エドモンド王が誕生しました。
エドモンド王とイザベラ王妃はとても仲睦まじい夫婦と評判で、プライベートではそれ以上にいちゃつく仲良し夫婦であることを息子であるアレックスは知っていました。
それだけに、エドモンド王を一躍有名にした大冒険の旅が、婚約破棄を求めて始まった旅だったという話は予想外過ぎて驚いたのでした。
婚約破棄のために旅立ったことは、外聞が悪いので公にはされていません。アレックスも父親に直接聞くまでは知りませんでした。
「婚約破棄しに行ったのに、何で仲良くなっているんです!?」
「いや、そりゃあ、まあ、苦楽を共にすれば絆も深まるものさ。それに、仲良くなったからこそお前が生まれてきたのだぞ。」
「それは……そうかもしれませんが。」
それでも納得できないアレックス王子にエドモンド王は言葉を続けます。
「本当に大変だったんだぞ。名前も知らない国の王族なんてただの旅人だし、よそ者を嫌う土地もあれば、騙して利用しようとする者もいる。仲間同士で助け合わなければ生きていけなかったのだ。」
長く辛い旅は、エドモンド王子を成長させました。
言えば何でも望みが叶って当然と思っていた我儘王子は、その望みを叶えるために多くの労力が必要であること知りました。
他人の望みに振り回される理不尽さも知りました。
王族や貴族以外――庶民と呼ばれる人々と交流を深め、彼らの困っていること、恐れていること、喜ぶこと、望むことを見てきました。
遠く異国の文化に触れ、異なる風習、異なる価値観、異なる考え方に触れました。
広い視野を得たことで、我儘だった王子は賢王と呼ばれるまでになりました。
「どうだ、適当な婚約者を見繕ってやるから、アレックスも婚約破棄の旅に出てみないか?」
「絶対にお断りです!!」
けれども、人騒がせな性格までは変わっていないのかもしれません。
アニメ化もされた「結婚指輪物語」という作品があります。
この作品についてふと思ったことがあります。
タイトルの元ネタは「指輪物語」であることは間違いありません。
ならば、結婚指輪を破壊する、つまり離婚するために旅立つ物語が正しい姿なのではないか?
と言うことで、婚約破棄に絡めて婚約指輪を捨て去るための旅に出る物語を作ってみました。
・おまけ
「それで、結局絶縁神の神殿には行かなかったのですか?」
「いや、行ってきたぞ。」
「婚約破棄しないのに?」
「最初の目的だったから位置くらいは確認しないとな。ただ、実際に言ってみると祀られていたのは縁結びの神だったが。」
「は? 絶縁神とは正反対じゃないですか!」
「正しくは、良縁を結び、悪縁を断つ神として信仰されているらしい。それが悪縁を断つ部分が有名になって縁切りを望む者が多く訪れるようになり、絶縁神として伝わったらしいな。」
「……それで、サリア神に誓った婚約を破棄できるものなのですか?」
「無理じゃね。サリア神みたいに神具を授かるわけでもないし、悪縁を断つ願いを祈るだけの場だったし。あ、災厄との悪縁を断つ祈祷をしてもらって来たよ。」
「成功する見込みのない婚約破棄の旅を息子にさせようとしたのですか!」
「やって見ないと分からないぞ。本当に嫌な相手なら恋愛神に掛け合ってくれるかもしれない。」
「そんな不確実なものに人生掛けられないでしょうが!」