無言の狂気
ただ真っ黒な部屋で椅子に座っている。
目の前には巨大な画面があり、この場に自分一人しかいないということを除けば、映画館にも似た雰囲気だ。無音のはずの部屋に鳴り響く轟音、真っ赤に染まったスクリーン、そしてそれをただ呆然と見つめている自分。
グシャ、グシャ、グシャ
グチャ、グチャ、グチャ、グチャ
一体いつまで耐えればいいのだろう。
一体どれほど苦しめばいいのだろう。
こんなものを見せつけられて、体はこんなに震えているというのに自分ではどうすることもできない。
その時が来るまでの辛抱だとわかってはいるものの、焦る気持ちが先走って溢れ出る感覚がする。まるで体の奥底から何か得体の知れないものが湧き上がってくるようだ。
グシャ、グシャ、グシャ
グチャ、グチャ、グチャ、グチャ
もう一時間はたっているだろうか。
その間、目の前の画面には、同じような映像がずっと垂れ流されている。
無心のまま、画面に穴が開くほど見つめている内に、ふと自分は何をしているのだろうと我に返ることがある。ほんの気休めにしかならないと分かっているはずなのに。
それでもこうすることしか出来ない自分が惨めになって、この理不尽な現状に対する怒りが収まらない。
グシャ、グシャ、グシャ
グチャ、グチャ、グチャ、グチャ
まだなのか。まだなのか。
考えれば考える程、時間の進みは遅くなると分かっているはずなのに。
考えなければいいだけの話だととっくに気付いているはずなのに。
数秒ごとに実感する。自分はこの呪いから逃げることなど出来ないのだと。
今この瞬間の悪夢は、逃れようのない現実だということを。
グシャ、グシャ、グシャ
グチャ、グチャ、グチャ、グチャ
呪いはとっくに脳味噌を支配していた。
だからこれは無様な敗者に残された無意味な抵抗に過ぎない。
言いようの無い感情によって掻きむしられた腕は、両手とも擦り切れて赤い斑点が滲み出ている。
グチャッッ
一際大きな音に目を覚ました脳みそが、眼球を通して映像を取り込む。
それを見た瞬間、心臓がドクンと大きくはねた。
全身に血が回る感覚と共に自分の脳がどんどんと覚醒していくのが分かる。
名前の知らない脳内物質だのホルモンだのと言ったものが冴え切った脳に染み渡っているのだろう。
しかし、すぐにそんなことは考えられなくなった。
異常なほどの刺激を受けて体が危険と感じる程に興奮した脳が、余計なことは一切考えるなと言わんばかりに思考と眼球を目の前の光景に釘付けにさせるのだ。己の中で叫ぶ生存本能によって、そうせざるを得ないのだ。
-----ッ!!
声にならない声が思わずこぼれてしまう程の衝撃。
肉が弾ける音は部屋中に響き渡り、目の前の画面はより一層赤く染まる。
苦しい苦しい痛い痛いもう見たくない聞きたくない逃げたい逃げたい
早く、終わりにしたい。
終わらせて欲しい終わらせてくれ終わらせて下さいお願いだから終わらせてくれ終わらせて終わらせて終わらせて終わって終わって終わって
終わって
終わ
終
永遠とも思えるような一瞬の思考の中、ズキッとした痛みによって現実へと引き戻される。
どうやら、ただでさえ真っ赤なミミズの様にに腫れ上がった腕をさらに搔きむしってしまったらしく、ボロボロに荒れた皮膚に滲んでいた血がはっきりと溢れていた。
が、普段なら求めるはずの無いそんな痛みも、今は何故だか心地よいと感じる。否、正確にはほんの少しでもこの精神的苦痛を忘れるために、自分を騙して痛みに縋っているだけに過ぎない。
そんなことは分かっているのだ。いくら自分に言い聞かせようと決して納得できない苛立ちすらも、己をむしばむ苦痛となり、やがてそれは純粋な痛みへと変わる。
収まることを知らずに一瞬を繰り返す、その感覚が永遠ではないなら何だと言うのだろうか。
赤い。
ふと自分の腕を流れるその真っ赤な液体が、目の前の大きな画面に映し出された同じく真っ赤な映像に重なる。
空想と現実が、二次元と三次元がごちゃ混ぜになって一体化する様な感覚。視界は渦巻き、ただひたすらに吐き気を催し、もはやまともに立っていることすらできない。ガンガンと響く頭の中、今すぐにでも吹き飛びそうな気力を振り絞ってなんとか落ち着きを取り戻そうとする。
落ち着け、落ち着け、落ち着け・・・。
今この瞬間、この地獄の苦しみを耐えることが出来れば、冷静にさえなることが出来れば、後はもう何も我慢することなど無いんだ。そう自分に言い聞かせ続けているのに。
暴れろ、暴れろ、暴れろ・・・!
苦しみに抗えば抗うほど強く。そうすれば今すぐにでも楽になれるのだと言わんばかりに、体の奥底でグツグツと煮えたぎった鬱憤を爆発させろと、体が突き動かされるのだ。
自分の体が知らない誰かに支配されているかのように。もしくは相反する二つの人格が体の主導権を取り合っているかのように。精神は引き裂かれ、体を掻きむしる狂気は激しさを増しており、脳はとっくに冷静でいることを拒んでいる。
それなのに、心の奥底に宿っているほんの一欠片の理性が完全に狂うことを、壊れることを許さない。
ここで、こんな所で終わる訳にはいかないのだと。
ほんの一呼吸。たったそれだけの酸素が脳へと送られるだけで脳は再起動され、焦点が合わずにぼやけていた視界も徐々に明瞭となっていき、ようやくそれまで呼吸も忘れて自傷に耽っていたことに気付く。しかし、冷静に現状を認識しようと頭を必死に回してみても、出てくるのは『ヤバい』や『キツイ』といった全く生産性の無い言葉ばかり。そのくせ、一丁前に働きましたと言わんばかりに酸素やエネルギーを要求してくるのだから、本当に図々しい話だ。
ロクに働かない焼け付いた脳みそがようやく使えるようになってきた頃、一番に目に飛び込んできたのはやはりと言うべきか、正面に映し出されているあの映像だった。
グチャ、グチャ、グチャ
文字通り頭がおかしくなる程見た映像と、ついでの様に耳に入る音を聞きながら自分の鼓動が早まるのを感じる。時間にすればそれ程経っていないはずだが、この光景に対してある種の懐かしさの様なものを感じるのはなぜだろうか。
しかし、それは決して良い感情では無く、断じて許容できるものでも無い。
なぜなら映像は平静を保ちながら見ることも、大人しく座って聞くことも出来ない程刺激の強いものだからだ。
改めて目の前の画面を見る。
映像に映っていたのは動物だった。
グシャ、グシャ、グシャ
それもたくさんの。
グチャ、グチャ、グチャ
種類も、大きさも、色も形も違う多種多様なたくさんの動物だ。
しかし、それでも彼らにはある共通点があった。
グシャ、グシャ、グシャ
そう、その動物たちには手足の先が無かったのだ。
逃げることは勿論、歩くことさえ出来ない。
そんな彼らの結末は全て同じである。
グチャ、グチャ、グチャ
その映像の中の雰囲気はまるで無機質な工場のようだった。
下には大きなベルトコンベアーが動いており、その上をあのたくさんの動物たちが流れている。
耳に入ってくるのは、巨大な物体が風を切る様な轟音とカオスに混ざり合った絶叫そして、もはや何の違和感も感じない程に絶えず聞こえてくるあの音だ。
グシャ、グシャ、グシャ
グチャ、グチャ、グチャ、グチャ
聞くだけでこの光景が浮かんで来てしまうほどに頭から離れないこの音は、文字通り動物たちの終着点の音だ。命をのせて流れていくベルトコンベアーの先、そこはまさしく地獄だった。
抗う事の出来ない道で待ち受けているそれは何と表現するべきか。言うなれば高速で回転する扇風機の羽を、研ぎ澄まされた刃に変えたものだろうか。勿論、それに触れた動物がどうなるかは語るまでも無い。まるで塊肉をひき肉にする器械の様に。否、実際におぞましい数の肉をひき肉に変えているそれは、動物たちの叫び声など聞こえないと言わんばかりにその刃を赤黒く染め上げていく。
映像では丁度、ベルトコンベアーの奥の方から新たな命が流れて来たところだった。茶色がかった毛並みのその犬は最初痛みに呻き、うずくまっているだけだったが、ふと顔を上げた瞬間に先を流れていた同族が刃に触れて赤く弾けたのを見て、恐怖で我を忘れ、狂ったように暴れだしたのである。
逃れられない自分の運命を実際に目にしてしまえば、確かに狂ってしまうのも仕方が無いのかもしれない。が、しかしそれは何の意味も持たない。もとより逃げるための手足は無く、仮にあったとしてもそう簡単に逃げられる程そこは優しい場所ではなかった。哀れにもその小さな命に助かる術はなく、少しづつ迫りくる死の音に顔を背けながら、あっけなく散ってしまう。
しかし、それを見て思うのは可哀そうという感情ではない。なぜならそれは、その映像の中では何ら特別なことでは無く、常に起きていることの一瞬を切り取っただけに過ぎないからだ。
動物が流され、暴れて、しかし結局は赤く弾けて死んでしまう。そしてそれを見た新たな動物が暴れだす。同じことの繰り返しだ、延々、延々と。
今回も、その中の一瞬を切り取っただけに過ぎないのだ。
人間はどんなことでも、何度も経験すればいずれ慣れていく。
例えそれがたくさんの動物を惨たらしく殺していくような、狂っているとしか思えないような映像であっても。何度も、何度も見ていればやがて慣れてしまうのだ。
可哀そうだとも思えない程に。
しかしだ。
もしそれが本当ならば、これはなんだ。
可哀そうだと思えないのなら、
これが哀れみではないというのなら、
この心の奥底で煮えたぎるこの感情は一体何なのか。
延々と同じことを繰り返す。新たな生が流れて来て、その次の瞬間には死んでいく。
新たないのちが生まれて、死んで。生まれて、死んで。生まれて、死ぬ。
延々と同じことを繰り返す。この次も同じことだ。
新たないのちが生まれてーーーー
ドスッ、という音とともにその命は流れて来た。
今までと同じように流れて来たそれは、
今までと同じように手足が無く、
骨が浮き出る程に痩せ細り、
人間の子供のような大きさで、
人間の子供の様な姿をした、
全くと言っていいほどに、人間だった。
だから何だというのだろう。
それが人間だろうと他の動物だろうと何も変わらない。死を前にした動物たちがどれだけ暴れようと何も変わらないように、今自分が何をしようと、これから起きる何かを変えることなど出来ないのだ。
だから今まで通り、何もせずただ見ているだけ。
しかし、何もしないということは自分で何かを変えることをしないだけであり、それは決して何かが変わるのを止めている訳でも、ましてや時間が止まっているということなど断じてない。
ただ流されるだけだ、人間も人間も。
ただ、それが迫ってくるのを見て、己の未来を嘆く暇も無く、恐怖で足元を濡らし、瞳孔と口を大きく開いて・・・・・
グチャッッ
ただ、ただ今までと同じように音を出す赤い血となって、
流れていった。
・・・。
・・・・・何故だろう、体がとても熱い。
しばらく落ち着いていた鼓動がまた速くなって、呼吸もどんどんと荒くなっているのが分かる。
生き物の死など嫌という程見て来たはずなのに。何故かたった一つの命が弾け飛ぶ今の光景が忘れられず、何度も何度も何度も何度もフラッシュバックしては網膜を焼き焦がしていく。
熱い熱い辛い辛い辛い苦しい苦しい苦しい苦しい。
一体どうしてこんなにも苦しいのだろう。
今までと同じようにしただけなのに。何も間違えてなどいないはずなのに。
おかしいおかしいどうしてどうしてどうして何で何で何でなぜなぜなぜなぜなぜなぜ・・・・・。
朦朧とした意識の中、不思議と先程の犬を思い出した。痛みから顔を上げた瞬間に同族が死んでしまうのを見た時のあの表情。あの時は何も思わなかったが、もしかしたらあの犬は死ぬ間際に今の自分と同じ感情を抱いていたのかもしれない。この、同族が死んでいった時のこの得も言われぬ感情を・・・・。
そんなことを考えて、ふと、気付いた。
ああそうだったのかと、一度気が付けばなぜ今まで分からなかったのかが不思議なくらいに腑に落ちる。
自分が必死に押しとどめていたこの、感情に。
この感情は恐怖でも、ましてや哀れみでもない。
これは、怒りだ。
何故自分は苦しまなければいけないのか。何故自分はこんなところにいるのか。何故死んでしまったのか。何故自分はこんなことになっているのか。
これから自分は、どうなってしまうのか。何もできず、手も足も出ず、抗う事すら許されずに追い詰められていくのか。
ふざけるな。
そんなことあっていいはずが無いだろう。何もできずただ理不尽に流され、苦しみに押しつぶされるだけの未来など許せるはずがないだろう。何もかも許せないのだ。ただただ許せずに、憤ることしか出来ない。この苦しみも、現実も、理不尽も。こんなふざけた状況も、その周りにある全ても。
そして何より、何も出来ない自分自身に対して。
だからこれは純然たる怒りだ。今この状況に対する鬱憤と自分に対する自己嫌悪が混ざり合って、一つ、また一つと、どんどんと怒りが湧いてくる。
あれが許せない。これが許せない。何より自分が許せない。あれも許せない。それも許せない。そして自分が・・・。そんな悪循環の様な思考の牢獄は、自分の中に湧いてきた怒りを一つに合わせて煮詰めていく。長い時間をかけて、フツフツ、フツフツと。
そうして完成された怒りは急速に体を蝕んでゆく。このまま、己の全てを爆発させようとするかの様に。
人間は本能ではなく理性で動く生き物だ。しかし、この強大な感情を押し殺して冷静でいられる程優秀な生き物では無かった。
ガタッ
気付けば無意識の内に立ち上がっていた。
拳は固く握りしめられ、その形相は今にも暴れだしそうなほど鬼気迫るものだ。
それも当然だろう。理性を完全に失い怒りに飲み込まれてしまえば、今すぐにでも暴れ狂って全てをぶち壊す。そして自分は今、その直前にいるのだから。
グシャ、グシャ、グシャ
あの音だ。
気が触れてしまいそうになるあの音が、頭の中で何度も何度も木霊する。
苦しい苦しい苦しい苦しい
たくさんの悲鳴が響き、肉が弾け、また多くの命が消えていく。
誰か、誰か助けてくれ
赤黒い液体が吹き飛び、壁を、床を、もう二度と元に戻らなくなる位に汚していて。
辛い辛い辛い辛い
どうすればいいんだ分からないなぜこんなことをしているんだなぜどうして
なぜなぜなぜなぜいったいどうしてこんなことにーーーーー
…!
そうだ。
警察だ。
そうだった。どうして忘れていたのだろう。今の自分にとって彼らは一番大きな存在ではないか。
凄く簡単なことのはずなのに、今の自分はそんな簡単な事にも気づけない程余裕が無く、焦っているということか。
しかし、少しの落ち着きを取り戻しはしたものの、現状を打開する具体的な案は何もない。
彼らはこの場所に気付くだろうか。いつまで待ち続ければこの理不尽から解放されるのだろうか。
自分は今ここで、こんなにも苦しんでいるというのに。
必死に怒りを抑えようとする自分を嘲笑うかのように、隠しきれない不安が焦りとなって心を締め付けてゆく。時間と共に大きくなって、徐々に、徐々に絶望へと追い込まれるように。
希望が欲しい。
そんな願いとは裏腹に、思い浮かぶのは最悪の結末ばかりだ。
・・・警察はきっと、自分の居場所を探しているだろう。もしも、もう既にこの場所を見つけていて、今すぐにでも彼らが来るとしたら・・・。そんなことを考えて、すぐに振り払った。
そんなことはあり得ない。これで終わるなんてあり得ない。自分はここで、ただ待ち続けるしかないのだから。
楽になりたい。自由になりたい。
しかし、そんなものはどこまでいっても願望でしかなく、もしかしたら、なんてものも藁にも縋る思いで作り出した希望的観測に過ぎない。
叶わない希望など結局は希望のなりそこないだ。でも、例えそれが絶対に叶わない様なものであったとしても、そんな希望に縋ることでしか最早自分の感情を留めることが出来なくなっていた。
ただ苦しかった。
もういっそ消えてしまいたかった。
早く楽になりなかった。
もう、どうでもよかった。
ただ茫然と時間だけが過ぎていって。何も考えず何もやらずにこのまま過ごして。自分が何をしたかったのかも忘れて。ただこのまま死んでゆくと・・・。
目の前の画面を見ていた。
どこを見ても血まみれで、まさに地獄の様な映像が映っていた。
ドサッ、という音と共に新たな命が流れてくる。
それは手足をもがれた人間で。
それは泣きわめいて、必死に生きようともがき苦しんで、それでも何も変わらずに、
ただーーーーーー
ああ
そうだ
我慢の限界だった。
否、限界など、とっくに超えていた。自分を傷つけ、現実から逃避し、出来もしない我慢をしている気になっていただけに過ぎない。しかし、それは無意味だった。何一つとして価値の無い行為だった。
いや、強いて一つ言うならば、自分の”願い”を確かに出来たことだろう。
願い。
そう、願いだ。
結局のところ、自分の”願い”は何も変わっていない。何をしようともそれは変わらないのだ。
例えこれから何が起ころうと、この願いだけは絶対に叶えてやる。
そのためならどんな理不尽にも必ず立ち向かってやる。
その先の結末が幸せであろうが、地獄の様な苦しみであろうが、もう、前に進むと誓ったのだ。
ならば、己を封じ込める枷など何もない。
これまでの痛みを、怒りを、苦しみを、何もかもをぶつけてやると。
そう、心を奮わせて。
俺は
今
自由となった。
■
『・・・ニュースをお伝えします。昨夜未明、東京都・・・の繁華街で刃物を持った男が暴れ、30名以上の死傷者が出る異例の大事件が・・・・・男は鉈の様な物を所持しており・・・
近くにいた人を無差別に襲っていったと・・・今回の事件の被害者は、死者が7名、重軽傷者が25名、意識不明者が・・・事件からおよそ・・分後に警察が到着し男を取り押さえたものの、男は所持していた鉈で自ら命を絶ったと・・・・男は暴れている間、常に笑っており・・・血液に対して異常な執着・・・精神に障害があると・・・・・また警察は今回の事件の男が、以前から捜査を進めていた連続猟奇殺人の犯人と同一人物である可能性が高いとして・・・・・』
面白いと思ったら評価、感想など頂けると嬉しいです。
もし時間があれば、もう一度最初から読んでみても面白いかもしれません。