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彼の愛の中

作者: 星河雷雨



 ポトリ、と私は地面に落ちた。



 その途端、私を包んでいた暖かいものが一瞬にしてどこかへ消え去ってしまった。どうやら私を包んでいた水の膜が地面に落ちた衝撃で破れたようだ。


 私はしばらく水溜まりの中に横たわっていた。水があまりにも暖かく、心地よく、いつまでもこの場所から離れたくないと思ったのだが、しかし私の生存本能は違った。今すぐここを離れろと訴えかけて来た。


 そこでようやく、私は生きるために目を開けた。だが私の目に映る世界は白くぼやけていた。まだ目がよく見えないらしい。何度か瞬きを繰り返すと次第に私の世界がはっきりとしてきた。

 

 私は深い、森の中にいた。


 おかしい。私はベッドに寝ていたはずだ。軋む関節。鉛の様に重たい身体。私はベッドの上で死を待っていたはずだった。


「……身体が軽い」


 私はのろのろと両腕をあげ、顔の前に持って来た。私はその両の腕が自分で予想していたよりも細く白いことに違和感を持ったが、骨と皮だけよりはマシだと思いその違和感を頭の片隅へと追いやった。


 私はゆっくりと、時間をかけて立ち上がった。


 そして私は己の周囲を見回した。ここが森であることは確かだけれど、しかし私が知っている森とはどこかが違った。どこが違うのだろうと考えて、私はようやく答えを導きだした。


 森に生えていたのは、私が見たこともない植物だった。私のいた国ではないどこか、そう、ここはまるで異国の森のようだった。


「ここは……どこなの?」


 誰にともなく問いかけたところで、答えが返ってくるはずもない。周囲には誰もいないのだ。しかし私は問わずにはいられなかった。


「私は……どうしてここにいるの?」


 そう自問したところで、私の頭がつきりと痛んだ。何かを思い出せそうで思い出せなかった。私は一気に不安に襲われた。そしてほかにも疑問があることに思い至った。


「私は……誰なの?」


 私は、私が誰なのか理解していなかった。それどころか、私が本当に私であるという確証さえ持っていなかった。この長く美しい髪に、柔らかな身体。これらの身体に私はどうにも見覚えがなかった。


 疑問はつきなかったけれど、ひとまず私は人のいる場所を目指して歩き出した。もし私が記憶喪失なら、誰か私を知る人間と出会えるかもしれないと思ったからだ。



 しばらく歩くと、人影が見えた。私は安堵と喜びのあまり、まだ覚束ない足取りでその人影に駆け寄った。


 近くまでやってくると、その人影は年若い男性だということがわかった。太過ぎず、けれど細すぎない凛々しい眉。大きな切れ長の瞳。赤く色づいた唇。その青年は驚くほどに美しかった。


「あ……あの……」


 私が声をかけると、青年はその美しい顔に美しい笑みを浮かべた。そして両手を広げて私のそばまでやってきて、私をその腕の中に包み込んだ。


「え……あの……」


 突然抱きしめられたことに戸惑いと驚きはあったが、なによりも青年の腕の中に居心地の良さを感じたことに驚いた。私は何故か青年の抱擁に安堵したのだ。


 初めて会った青年に突如抱きしめられたというのに、まるでそれが当然のことだというように私の身体は青年の体温に馴染んでいた。青年は愛しむように私の髪を撫で、耳元で囁いた。


「ようやく来たね……待っていたよ」


「……何? どういうこと?」


「いいんだ。君は何も気にしなくていい。僕たちが会うことは必然だったんだ。僕たちはここで永遠となるんだよ」


 青年の言っていることは、私には理解出来ないことばかりだった。しかし青年の言葉は何故か私の心に染み入った。


「……そうなのね。私たちは、ここで会う運命だったのね」


「そうだよ。ほら、御覧。あの目が現れた」


 御覧、という青年の言葉は聞こえたけれど、私はすでに目を開けることが出来なくなっていた。



 そうして私の意識は――。



























 ポトリ、と私は地面に落ちた。




 その途端、私を包んでいた暖かいものが一瞬にしてどこかへ消え去ってしまった。どうやら私を包んでいた水の膜が、地面に落ちた衝撃で破れたようだ。


 私はしばらく水溜まりの中に横たわっていた。水があまりにも暖かく、心地よく、いつまでもこの場所から離れたくないと思ったからだ。しかし私の生存本能は違った。今すぐここを離れろと訴えかけて来た。


 そこでようやく、私は生きるために目を開けた。だが私の目に映る世界は白くぼやけている。まだ目がよく見えないらしい。何度か瞬きを繰り返すと、次第に私の世界がはっきりとしてきた。


 そこは草原だった。爽やかな風が、濡れた私の身体を優しく撫でた。

 

 おかしい。私はベッドに寝ていたはずだ。軋む関節。鉛の様に重たい身体。私はベッドの上で死を待っていたはずだった。


 自分の置かれた状況に疑問を持ったが、それよりも強い衝動が私を動かした。


「……行かなくちゃ」


 私はのろのろと起き上がり、草原の中をどこまでも歩いた。しばらく歩くと人影が見えた。私はその人影に何故か強烈に惹きつけられた。まだ力の入り切らぬ足を何とか前へと繰り出し、私は必死でその人影に近づこうとした。


 すぐにその人影が青年だとわかった。とても、美しい青年だった。黒檀のような髪に、同じ色をした瞳。濡れた赤い唇が妖艶に輝いていた。


 その青年に私は既視感を憶えた。凛々しく、堂々としたその青年の姿は、私の記憶の中には存在しない。しかし私はその青年のことを知っていた。


「私たち……どこかで会ったことがあるかしら?」


 私のその問いに、青年は黙って微笑んだ。そしてその男性にしては美しく繊細な指をあげ、ある方向を指し示した。


「向こうを見てごらん」


 青年にそう言われた私は、青年の指さす方へと視線を向けた。そして私は、これまでにないほどの驚きを経験することになった。


「きゃ……」


 私は恐怖のあまり青年へとすがりついた。


「何、あれ……」


 私は自分の見ているものが信じられなかった。私の視線の先には、緑の山々と白い雲の浮かぶ青い空があった。そしてその空の中央には二つの目が浮かび、観察するかのようにこちらを見ていたのだ。


「大丈夫。恐れることはないよ。あれはいつも見ているだけだ」


「でも……」


「君も慣れなくては……。これから先僕達は常に、あの視線にさらされることになるのだから」


「そんな……」


 私は青年の言葉に絶望した。あんなものに常に見張られているなど、とてもではないが耐えられない。


「慣れる秘訣はね、気にしないことだよ」


 青年はそう言うけれど、あの視線に慣れる日が来るとは思えなかった。私は恐る恐る空に浮かぶ二つの目を窺い見た。白目が血走り、瞳孔が開いている。絡まりつくような、嫌な視線だった。


「大丈夫。あの目を見るんじゃなくて、山を見ていればいい。まだ雪の残る、青々とした美しい山だ」


 私は青年に寄り添い、青年の胸に手を当てた。そうして青年と二人、あの目の浮かぶ方向に顔を向けた。私は決して、あの目と視線を合わせないよう少しだけ視線を下げ、山の麓を見つめた。そうすると少しだけ心が軽くなった。


 そうして私の意識は――。

























「……素晴らしい」


 絵を見つめ私は感嘆のため息を漏らした。私が見ている絵は、さる高名な画家の描いた最高傑作ともされる一枚だった。その絵は二人の美しい男女が外国の深い森の中で寄り添い、互いを抱きしめている絵だった。


「これがかの有名な伯爵のロクサーヌシリーズ、《深淵のロクサーヌ》か……」


「ああ、その通り。ちゃんと勉強してきたんだな」


 友人の言葉に、私は少々バツが悪くなり頭を掻いた。にわか知識がバレてしまったと思ったのだ。


「まあね。せっかく誘ってもらったんだし。……しかし何とも美しい女性だな。これは一体誰をモデルにしたのだろう」


 描かれていた女性は長く豊かな黒髪で、瞳は閉じられているため見えなかったが伏せられた睫毛は黒々として優美な曲線を描いていた。そして同じように優美な曲線を描く肢体。そこには匂い立つような美女が描かれていた。


「この女性かい? これは伯爵の侍従だよ」


 思いもかけない言葉に、私は唖然と口を開いた。


「これは女性だよ? 良く知らないけれど……侍従とは男がなるものだろう?」


「ああ……それはこういうことさ。百年前のこの国の愛の形は世間に公表できるものとしてはひとつしかなかった。すなわち、男性は女性を、女性は男性をというわけさ。だから伯爵と侍従は生涯結ばれることはなかったし、伯爵はせめて絵の中だけでもと、愛しい侍従を正々堂々と愛せるように女性に描いたのさ」


「なるほどなあ。ではこの青年は? こちらも大層な美青年だが、もしかして伯爵の若い頃かい?」


 私がそう言えば、友人は何故か得意げな表情で私に微笑みかけた。これから悪戯を仕掛けようとでもいうような、そんな笑みだ。


「いいや。それが違うんだ。この青年。こちらも侍従だよ」


「なんだって?」


「よほど侍従を愛していたんだろうね。伯爵の絵の登場人物はすべて侍従をモデルにしているんだよ。老いも若きも、男性も女性も。皆姿を変えた侍従だというわけさ。堂々と愛せるように女性に描いたのというのに、きっと伯爵は男性の身体のままの侍従のことも愛していたのさ」


「それは……また何とも……」


 絵の中に愛する者と自分を描き結ばれようとしたのかと思いきや、やはり稀代の天才画家は一筋縄ではいかないらしい。


「だろう? あるいは、もしかしたら侍従を愛するあまり侍従以外の人間を描きたくなかったのかも知れないな」


「けれど……そこまで誰かを愛すことが出来るとは……少々伯爵のことを羨ましく感じるね」


「世間には公表できない、秘めた恋でもか?」


「だからこそ、身を焦がすほどに燃え上がったのではないかい?」


「……そうかもしれないね」


 私は伯爵の最高傑作から目を離し、別の絵の前に立った。その絵には草原に寄り添い立つ二人の男女が描かれている。人物は小さく描かれているため表情まではわからないが、私にはまるで二人がこちらを見て微笑んでいるかのように見えた。


「ただね……」


 そう言って友人が切り出した言葉に、私は仰天することになる。


「実はこの恋、伯爵の片恋だったようだよ」


「そうなのかい?」


「ああ、そのようだ」


 ここまで執拗に一人の人物を描いておきながら、まさかの片恋だったとは驚きだ。否、寧ろそういった二重の意味で行き場のない想いだったからこそ、伯爵はここまで侍従を描くことに拘ったのかもしれない。


「それにしても……君、なぜそんなに詳しいんだい? 君はそこまで伯爵のファンなのかい?」


 友人である私へ大正時代に活躍した稀代の天才画家である東江光太郎――通称伯爵の回顧展への招待状をプレゼントしてくれるくらいだからファンなことには違いないだろう。だが、友人の言っていることは、どうもかなりのプライベートな事柄なのではないかと私には感じられた。


「いや、ファンと言えばファンだけど……実はこのロクサーヌシリーズのモデルとなった侍従は、僕の曾祖父――藤堂六輔なんだよ」


「……驚いたな。だって君……」


 私は己の幼い頃からの友人である青年を見つめた。不細工というわけではないのだが、彼は少々野暮ったい印象を見る者に与えるのだ。決して絵の中の侍従のような美青年ではない。


「ははは。君の言いたいことはわかるよ。僕は父親似でね。そして父親は母親似、その母親も侍従の妻である母親似ってわけ。残念ながら必ずしも美男は美女とくっつくわけじゃないってことさ」


 ちなみに曾祖父と曾祖母は恋愛結婚だよ、と友人は笑った。


「なるほど……。その真実を知ってしまえば、この絵の見方も少々変わってしまうね」


 その一生を独身で過ごした伯爵と違い、侍従は妻子を持っていた。片恋だったからこそ、伯爵は絵の中に自分を描けなかったのかもしれない。何しろ侍従には伯爵とは別の愛する伴侶がいたのだから。


「だろ? だからまあ、普段はあまりこの話はしないんだ。伯爵の名誉のためにもね。だって……少しだけ、妄執じみているだろ?」


「……そうだなあ」


「けれどまあ、君は友人だし……。友人にくらい、本当のことを知っていて欲しかったからね」


 そう言って笑った友人の顔はほんの少しだけれど、絵の中に描かれた侍従の面影を宿していた。


「そうか……。教えてくれてありがとう」


 絵というものはその絵が描かれた背景を含めて見てみれば、また違った解釈が出来るのだなと私は感心した。





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