それぞれの日常
カレー、美味かったなぁ…
黙々とパソコンを打ち込んでいた手を止め、無意識にコーヒーを一口啜る。
そして、口の中に何の感動も生まれていない事に思い至り、あの日木陰で飲んだコーヒーとこのコーヒーに成分的に何かしらの差があるのではないかとしばし考え、いやいや同じじゃんと思い直し、無駄な事を考えてないで昼までにこの書類をまとめてしまおうと再びパソコンの画面を睨みつけた。
「主任、ちょっといいっすか?」
背後から声をかけられ、折角まとまりかけていた思考が四散する。溜息を吐きたくなるが、それを顔に出すわけにもいかない。
「なに?」
「あの、この前依頼されたこの案件の見積もりなんですけど、ここの粗利率ってこのくらいでいいですか?」
あー、またあのカレーが食べたい。
「私としては、ここを削って、このぐらいの金額だと妥当だと思うのですが」
川上さんの作ったステーキも美味かったな。あれって焼き加減が絶妙だったんだろうな。
「競合他社は、先方の情報だとここに力を入れているみたいで。差別化としてうちはここを」
あー、次のキャンプ、いつ行こう。穂乃果はいつが空いているのだろうか。
月末の土日あたりどうだろうか。
早く計画を立てなくては。
「ちょっと主任、聞いてます?」
「早く計画を立てなくては」
「はい?」
「あ、あー、この案件については、今後の長期的な視点での計画を立てた方がいいと思うよ。今の話はあくまでも現状の改善プランであって、2年後、3年後に顧客がどのレベルまで良くなっていくか、そのヴィジョンを見せてあげないといけない。そのためには、先を見据えた長期的な計画を示して、今顧客ががどの位置にいるかを共有しながら、進めていくといい」
「え、あ、そ、そっすね」
「どうした?」
「いや、主任ぼーっとしてるっぽいから、聞いてないのかと思ってました」
「そんな事ない」
「アドバイスありがとうございます」
軽く頭を下げて、後輩の佐藤くんは自分のデスクへと戻っていた。集中力散漫な自分に溜息が出そうだ。ただでさえ職場では『とっつきにくい奴』『何考えてるのかわかんない奴』と思われているのだ。直属の部下にまで愛そを尽かされたら、円滑なコミュニケーションに支障が出る。
早くキャンプに行かなくては。
キャンプに行って、美味いものを食って、メンタルを回復させなければ。
『今日、次のキャンプについて打ち合わせ出来る?』
穂乃果にLINEを送る。
無意識に口に運んだコーヒーカップに中身が入っていないことに気づき、僕は小さく舌打ちをした。
△
「先輩、○○の課長さん、今受付で待ってるみたいですよ」
後輩の川上に呼び止められ、私ーー佐々木穂乃果は舌打ちをした。さっきの打ち合わせの内容を急いでまとめて置きたいのに、こういう時に限って邪魔が入る。今日は定時で帰って、帰り道の書店で本日発売の漫画を買い漁り、それを読みながらカップラーメンとビールの夕食を楽しみたいと言うのに。
「わかってる。受付から電話あった。待たせてるの」
「取引先の課長さん待たせちゃダメですよ」
「いや、あいつ勝手に待ってるだけみたいだから。仕事っていうかプライベートで来てんの。待たせときゃいいのよ」
「え、どう言う事っすか?」
「あー、今度教えるよ。取りあえずあんたは気にしなくていい」
「はぁ」
「30分で仕事終わらせて、対応するから」
「了解です。クレーム起こさないで下さいね」
渋々と言った様子で、川上は去っていった。
まったく、取引先の課長とはいえ、この前偶然再開してから、キャンプの夜のメールといい、あの男は一体なんなんだ。私は頭を掻きむしりたくなりながらも、冷静に冷静に、と自分に言い聞かせる。
そして思えば、付き合ってる当初も、自分の都合で私を振り回す奴だったな、と思い出す。
取引先の柳井拓也課長ーー先日の打ち合わせの席で偶然再開した、いわゆる私の元彼というやつである。
やっつけで仕事を終わらせ、受付へと向かう。
パーテーションで仕切られた応接室でコーヒーを飲んでいた拓也が、にこやかに右手を上げた。
「よう、お疲れ」
「柳井課長、お待たせいたしましてすみません。ちょっと、こちらに」
そう言って社屋の外へと連れ出す。
笑顔でついてくる様がなんとも憎らしい。
「悪いね、この前の打ち合わせであまり話せなかったから」
隣のコンビニの前まで来ると、拓也はポケットからタバコを取り出し、吸い出した。懐かしい匂いだと感じる自分にイラつく。
「お仕事の話、でなないですよね?」
努めて冷静に返す。
「うん、久しぶりに会ったから、話したくて」
自分で勝手に私を振っといて、今更なんなんだよと思う。
「この前頂いたメール、あれ何ですか?」
「あ、あれ、あの写真?」
「そうですけど」
「いや、懐かしい写真見つけたから」
「懐かしいって」
悪びれもしないその様子にイライラが募る。折角のキャンプの夜だったのに、会社のスマホからメール着信音。何かトラブルか? と開いてみるとーー
「あんな写真送ってくるなんて」
それは付き合ってた頃に二人で撮った写真だった。恋人同士感が満載で、今見ると小っ恥ずかしくてスマホを叩き割りたくなる。
というか会社のメアドにそう言う写真を送ってくるなんて、常識知らずにも程がある。
でも、こうも思ってしまう自分もいる。
あの頃のこの男も、今と変わらず自分の感情に素直だったし、そこに惹かれていた自分がいたのも確かだった。多分この男は変わってない。
そして、おそらく私も、大した成長はしていない。
タバコを揉み消し、すぐさま次のタバコに火をつける。普段はこんな吸い方をしない。これは緊張している時の癖だ。
「わるい、なんか嬉しくなっちゃって」
「反省してください」
「すみません」
「で、何の用?」
「いやー、お互い連絡絶ってたのに、偶然かつ運命的な再会があったわけじゃん」
「まぁ、大学以来ですね」
「よければ、これから食事でも」
「結構です。今の彼女さんに言いつけますよ」
「無理でしょ。君、今の俺の彼女の事知らないじゃん」
確かにそうだ。理論が破綻している。ダメだ、今私は完全に動揺している。
この男が私を見る目に熱がこもっている! ような気がする。誘っているのだろうか。あの頃のような関係に、私の事を誘っているのだろうか。
お酒を飲ませて、正常な思考が出来ない状態に陥れて、そのまま部屋にでも連れ込むつもりなのだろうか。
そんなのはダメだ!
流されちゃダメだ、私!
「私を、どこに連れていくつもり‥‥?」
「ほら、学生時代よく行ってたラーメン屋、あるだろ? 久しぶりに行きたくね?」
「え、ラーメン屋?」予想外の店舗チョイスに驚く「もっとこう、お洒落居酒屋とか、お洒落バーとか、そういうところに連れてこうとしてるんじゃないの?」
「だって今日、ジャンプコミックスの発売日じゃん。お前、漫画買って読みたいだろ?」
「あ、うん。そうだけど‥‥」
ちゃんと覚えていたんだ。
こいつは、こういうところに抜かりがない。情と雰囲気と勢いに流されそうになって、ありもしない意図を深読みしていた自分が心底恥ずかしい。
「行きたいの? そういうところ」
「行きたくない」
「だったら、ラーメンは?」
「まぁ、ラーメンくらいなら、いいけど‥‥」
「よし、決まり。じゃ車持ってくるから、ちょっと待っててくれ」
「はぁ‥‥」
会社の来客駐車場に消えていく後ろ姿を呆然と見る。混乱する頭の片隅の、どこか冷静な私が、『スーツ姿、結構様になってるじゃん』なんて事を呟いている。
「いや、私、バカだろ」
自分の馬鹿さ加減に、悪態をつく他ない。
△
『今日は古い知人と会う事になってしまった。今度の土曜でどう?』
帰り支度をしていると、穂乃果からそうLINEの返信が来た。
『了解』
いきなりだし仕方ない、と自分に言い聞かせる。今日はスーパーで半額の惣菜を買って、ビールを飲みながら次のキャンプの計画を練ろう。いいキャンプ場を見つけて、穂乃果に教えてやればいい。
「楽しみだなぁ」
梅雨直前の少し重たい空気を吸い込んで、ため息と共に僕は呟くのだった。




