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開花

 アンセリアは東屋の欄干にしどけなく寄りかかって夜空を眺めていた。

 名残を惜しんだ冬の寒気は姿を消し、本格的な春の暖気が夜の大気に溶け込んでいる。

 月を眺めて酒を飲むのはこの時期に限る。と言っても、さほど強いわけではない。

 独り寝のシーツの冷たさを紛らわせるために少しの寝酒を楽しんでいるだけだ。

 凍実酒の甘ったるさが口の中で粘つく。

 盃の中の濃い赤色に視線を落として、溜息をついた。

「貴女はここがお好きですね」

 けだるい瞳を流せば、そこに竪琴を抱えた楽師が立っている。

 収穫祭の日に拾って、ヴォタリウスと名付けたあの男だ。今は、己の専属楽師として雇っている。

 汚い身なりで城内をうろつかれては困ると、適当に服装一式を揃えてやったお陰で“王妃のお抱え楽師”としてそれなりに様になっている。その容姿も相まって、茶会での初演奏は好評だった。もちろん、女性中心に、ではあるが。

「子守歌でもと思って部屋を訪ねたらおいでにならない。お陰でずい分歩きました」

 軽い調子ではははと笑いながら、ヴォタリウスは腰を下ろした。

「もう子守歌という年ではなくてよ。それに、夜更けにお前と部屋に二人では不都合があろう」

「確かに。貴女の美しさに血迷った事をしでかしそうだ」

 歯の浮くような甘い台詞。これが女性達に愛されている夢物語なら、悲劇への引き金になっているだろうが、そんな言葉を信じるほど初心(うぶ)ではない。夢見る頃はもう過ぎた。

「心にもない事を……。不惑(しじゅう)を過ぎた女をからかうのはおよしなさい」

 ぴしゃりと言い放った主に、男は驚いたように眉をあげた。

 芝居じみたその仰々しさが、女の癇に障る。

 冷たい眼差しに、眉間のしわ。白粉を落とした素肌のそれは昼のそれよりも深い。

「おや、この役はお気に召しませんでしたか。まぁ、そう怒らないで下さい。お詫びに一曲捧げますから」

 どこまで本気なのかわからない。軽薄な調子で紡がれる彼の言葉の真実と欺瞞の境界線は紙一重だ。

 だから、いちいち本気にしていたら馬鹿をみる。それが、この一月彼に接してきて分かった事だ。

 何がそんなに楽しいのかと思えるほど満面の笑みを浮かべて、男は竪琴を構えた。

 今日は欠く事無くピンと張られた弦が、弾かれて震える。

 静寂の中に音が解け落ちて、月明かりに消えてゆく。

 寂しくもせつないその音色が、胸の奥底に沈殿する。

 この男の中身が何であれ、その技巧で紡ぎ出すものだけは本物だ。でなければ、わざわざ雇い入れるような事はしない。

 盃の中の残りをまた口に含んで、共鳴する音の中で目を閉じる。

 確かに、子守歌には丁度良いかもしれない、とアンセリアは思った。


 静かな一曲を聴き終えて、瞼を開く。

 欄干に凭れかかったままだった半身を起そうとしたところで、離れた場所に浮かぶ白いものが視界の隅に映り込んだ。

 池に注ぎ込む小川の上に掛けられた橋の上を歩いて行くのは、神子のカイウだ。

 穏やかに満たされていた心が、一瞬にしてささくれ立つ。

「あの方が貴女の憂いの種、という訳ですか」

 この男の言葉はいちいち癇に障る。それも、的を射ているだけ余計に。

 欄干に沿って繋がっている席を伝って、常に向かいに座っているはずの男が一瞬にして詰め寄る。

 酒が入って、少々油断していた。

 ぴったりと寄り添って、下ろしていた髪を手にする男。

 ヴォタリウスのその無礼な態度に、恥辱と怒りで面が熱を帯びる。

 かっとなって思わず口を開く。

「お前は何を……!」

 男はまたも笑いながら、シーと空いた方の手の人差し指を口元に当てる。

「大きな声を出せば侍女に聞こえます。これ以上無礼な真似は致しません。ですから、ひと時このまま……」

 身構えたまま、彼のその手のものを翠の瞳で注視する。娘時分には美しかった鳶色の髪も今では艶を失って、よく見れば白いものも混じっている。

 早鐘のように打つ鼓動が、その髪を伝って届きそうな気がした。

 楽師はその髪を、花の匂いでもかぐように自身の面に近付ける。

「貴女はこんなにも美しいのに……陛下は罪つくりなお方だ。神子とはいえあの方もまた女性」

「お前は、私の陛下を愚弄するのですか」

「言葉が過ぎましたね。いえ、他意はないのですよ。ただ……」

「ただ?」

 怪訝な表情をするアンセリアに、ヴォタリウスはいやらしい笑みを返す。

「貴女の寝室にいらっしゃらないのは何か他に理由があるのでは、と」

「どうしてお前がそれを!」 

「特別な事はしていませんよ。けれど、女性はとかくおしゃべりが好きだと言うのは貴女もご承知のはずです。耳にしたくなくとも、漏れ聞こえて来るものですよ」

 先を濁したその言葉の先は「噂話はね」と、続くのだろう。

 恥辱も怒りも、その衝撃に抜け落ちて行く。

 アンセリアは肩を落として、利き手で目を覆った。

「わたくしを辱めて楽しむなど悪趣味な」

「楽しいわけがないでしょう。それはひどい誤解です。貴女のお役に立ちたいだけですよ」

 手を外して、男の眼を射るように見つめる。彼女の頬は、濡れてはいない。

「お前に何ができると言うの。その場限りの台詞など、わたくしは欲しくない」

「清いものなら穢れてしまえば良い、そう思いませんか」

「神子たるあの子に手を出す気ですか」

「何、煙が立てば良いのです。時に怖いのは、火よりも煙ですよ」

 そう言って、得体のしれない男は笑った。




 十年という歳月をかけて身についたものがある。それは、毎朝ほぼ定刻に目覚める事だ。

 夜明け前のまだ薄暗い部屋の中。

 カイウと同じ寝台の上、行儀良く寝具を乱しもせず、規則的な寝息を立てている男がいる―――王ゴヴィアヌスだ。

 夫婦でもないのに、同じ寝台で眠る奇妙な関係。世俗の穢れを身に受け入れる事を禁忌としている神子だから、肉体関係は存在しない。

 寝台を共にするのは(みそぎ)の為だ。全裸で添い寝をして王の穢れを掃う事もまた、カイウに与えられた努めだった。

 彼を起こさぬようそっと寝具を抜け出して、サイドテーブルの上に畳んで置かれたガウンをとった。

 立ち上がると同時に、寝台が小さく軋む。

 何も身につけていない肌の上を、紺青の髪がさらさらと滑って行く。その上からガウンをはおり、はだけないように腰紐を締める。

 首の裏側に両手を差し入れ、挟み込んだ髪を外へ解き放つ。軽やかに舞う髪から、ほのかな花の匂いがこぼれた。

 素足に内履きをひっかけて、寝室の出口へ向かう。

 そして、冷たいドアノブに手をかける。

 今日もまた、退屈な一日が始まろうとしていた。


 暖かな陽気に誘われるように、カイウは久しぶりに庭園へと足を向けた。

 今日は特に気分が良い。心地よい気候に心も弾む。

 踊りだすような足取りで芝の上に降り立つと、青臭さが鼻腔を通り抜けて行く。

 両手を軽く広げてすがすがしい空気を吸い込んだ。

「良いお天気」

 意識せず出た独白に、返事する者がいてぎょっとする。

「本当に、気持ちの良い天気ですね」

 後ろから掛けられた聞き覚えのない男の声に、恐る恐る振り向く。

 そこには、背の高い男が立っていた。見上げる形になった彼の容姿に、更に驚きを深める。

「あなたは、誰?」

「これは失礼いたしました。私はヴォタリウスと申します」

 小脇に抱えた竪琴を軽くあげ「見ての通りの楽師です」と続けた。

「こちらこそ申し訳ありません。私は城の中の事に疎いものだから」

 そう言ってカイウは恥ずかしそうに俯く。

 彼女の接する異性と言えば、王と神官長くらいのものだ。だから、馴染みのない男性と会話するのは緊張する。

「何故あなたが謝るのです? カイウ猊下と知りながら無作法をした私が悪いのです」

 耳に心地よい低音の声で答えた男は、柔和な微笑を浮かべた。

「時に、カイウ猊下はこれからどちらへ?」

 カイウのこめかみがぴくりと動く。 

―――また……。

「これといった用がある訳ではないのです。たまには花を愛でるのも良いかと思って……」

「それは良い。もしご迷惑でなければ私もご一緒してもよろしいですか?」

 物腰が柔らかで礼儀正しい彼の申し出に、嫌な気はしなかった。

 むしろ、誰かが一緒に居てくれる方が楽しい時間を過ごせるかもしれないとも思う。

 断る理由もないので「ええ、ぜひご一緒に」と返した。

 では、と進み始めたものの、何を切りだして良いのか分らない。

 こういった場合の無難な話題と言えば何になるのだろう。

 軽い混乱に陥った頭は、なかなかそれを引き出してはくれない。あせる気持ちとは裏腹に、鳥達の鳴き声だけが耳に届く。楽しげに(さえず)る彼らが少し羨ましかった。

「猊下はどんな花がお好きですか」

 沈黙を先に破ったのは楽師の方からだった。

 だが、先ほどから台詞の一部が引っかかる。

 カイウは沈んだ表情で眉根を寄せた。

「……その、猊下というのはやめていただけませんか? 礼を尽くして下さるのはありがたい事ですけれど、私はそんなに立派な人間じゃありません」

「あなたは謙虚な方ですね。私のような者からすれば、あなたは尊い方なのに」

 天声の器、聖なる神子、穢れなき乙女など、カイウを称える言葉はあまりにも多い。けれど、そのどれもが彼女にとっては苦痛でしかない。

 ヴォタリウスの賛辞を再び否定する様に頭を振った。

「いいえ……そんなことはありません」

「あなたの嫌がることは致しますまい。では、カイウ様と」

 いかがです、と穏やかに問う彼に仕方なく頷いた。

 本音を言えばカイウ様と呼ばれる事にも抵抗がある。それでも自身の立場を考えれば、それが妥協点なのだとも解っていた。

「そう、好きな花、でしたね。(すみれ)や白詰草……それから勿忘草(わすれなぐさ)も好きです」

「野に咲く花がお好きなのですね。控えめなカイウ様らしい」

「ヴォタリウスさまは、どんな花が?」

 そう尋ねて横顔を振り仰ぐと、彼は思案するように指を顎に掛けている。

 何か思いついたように手を外して、楽しそうな表情を浮かべた。

「私は清らかで真っ白な、カイウ様のような花が好きです」

 臆面もなく言い放たれたその答えに、思わず絶句して足を止める。

 カイウは目を見開いたまま、再び混乱に陥った。

 彼女のその様子に、男は声をあげて笑う。

「なんてかわいらいしい方だ。カイウ様、そこは笑う所ですよ。そうでなくては、私の決死の洒落が咎になってしまう」

 冗談だったと判って、ほっと息をつく。

 それと同時に、額面通りの意味に受け取ってしまった事への恥ずかしさから顔が火照る。咄嗟に、自室へ逃げ帰りたい衝動に駆られた。

 城内のサロンで度々茶会が開かれているのは知っている。だから、城に召し抱えられた楽師がそこで夫人達相手に際どい戯言を囁いているのは想像できる。

 たとえ社交界とは縁遠くても、ずっとここに身を置いてきたからわかるのだ。貴族達の会話とは概ねそんなものだ。

 気を取り直して何かを言おうと口を開きかけたその時、庭園の奥から若い男が葦毛の馬に乗って向ってくるのがみえた。その後ろに、白馬がもう一頭。鞍上には若い女。

 立ち止まって、それをぼんやりと見つめる。

「あれは、イサーク殿下とフォルネット殿下ですね」

 前を行くのがイサーク、後ろがフォルネットだ。両者は共にこの国の太子―――王ゴヴィアヌスと妃アンセリアの子である。

 年の頃なら二人と同世代だが、接点は全くと言って良いほど無い。

 身分は同格とされていても、生活そのものに大きな隔たりがあるのだ。

 仲睦まじい事で有名な兄妹は狐狩りに出かけていたと見える。離れた場所を通り過ぎてゆくイサークの肩には、猟銃が掛けられていた。

 その火器に、カイウは薄い眉をひそめる。

「お心を痛めておいでなのですか、カイウ様。大丈夫、今日は一頭も仕留められなかったご様子ですよ」

 確かにそのようだ。獲物があれば、馬の鞍に縛られている事だろう。だが、こちらから眺めている限りでは、それは見当たらない。

 他の者からすれば些細なことかもしれない。しかし楽師のその一言が、カイウの胸に深い安堵を与えてくれた。

「他の命の犠牲の上に成り立つのが人の営みなのでしょう。殺生を禁じられているわたしだって、生きるために色々なものを犠牲にしています。そんな私が誰かを非難する事なんてできません。それでも、手慰みに命を無下にして欲しくないと思ってしまうのです」

 微笑みを絶やさない男に、身勝手ですね、と彼女は寂しそうに笑った。

 その刹那、ヴォタリウスの微笑がふっと途切れる。

 凍るように冷たい眼差しに、カイウは思わず息を呑んだ。

「それはあなたの本心ですか? それとも、模範解答だからですか?」

「え?」

「人間は身勝手な生き物ですよ。清廉であれと刷り込まれたあなたでさえね。

 カイウ様、あなたの意志はどこにあるのです? 天声の器……でしたか。真実神の声だけ届けば良いのなら、憑代(よりしろ)は人でなくとも構わない。あなたでなくとも構わない。そう、思いませんか」

 カイウはしばらく、彼が何を言っているのかが分らなかった。ひどくゆっくりと変わって行く相貌を、呆然と見つめる。睫毛のその一筋に至るまで、切り取られたコマ送りのように緩慢で。

 再び男の顔に笑みが戻って、やっとその意味が解け落ちた。

 酸欠の魚のように、口を開いては閉じる事を数回繰り返す。何かを言おうとし、結局は何も返せずに。

 張りぼての中身を、覗き込まれたような気分になった。

 

―――私は一体、なに?


 己とは一体何か、その問いが頭の中でぐるぐる廻っている。

 暗転と発光を繰り返す脳裏。そして身震いするほどの喪失感が心を苛む。

「あなたの中身は空っぽだ。最も、隙間なく埋まっていては、神の声など降りる隙もないのでしょうが。その空の器に響く天声は、さぞ美しい音色なのでしょうね」

 そう言って美貌の楽師が冷たく笑うのを、カイウは途切れてゆく意識の中に縫い留めた。

 膝から崩れてゆく彼女を、男の腕が支える。

「あなたはどこまで清らかでいられるのでしょうね、カイウ様」

 囁くように呟いたその声は、もちろん彼女には届かなかった。


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