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萌芽

 私は穢れる。この、空の器を抱いて―――




 潔斎場に水が満ちている。

 高みから豊かに溢れるそれはとうとうと浴槽へ流れついて、水面を歪ませては古いものを排出してゆく。

 聖山から引かれた雪解け水を絶えず循環させているのは、(ひとえ)に、ほぼ毎朝行われる(みそぎ)の為である。

 少女と女の狭間。しみ一つない真っ白な素肌をさらして、彼女はその浄水に身体を滑りこませた。足から伝わる身を刺すような冷たさに、一瞬にして肌が粟立つ。

 一気に肩まで沈みこんだその水面に紺青の髪が浮き広がり、やがては重くなって水中に落ちてゆく。

 強張ったまま喘ぐように見上げた天井から床に至るまで、覆われた石のタイルは黒々とした艶のない肌をさらしている。

 薄衣を纏った二人の侍女があとに続いた。

 誰もが無言のまま、日課の内の一つは進行してゆく。

 侍女は手にした桶で水をすくって頭からゆっくりと浴びせたあと、丁寧に櫛を通して髪を梳く。もう一人は、手にした布で肌を柔らかく撫でる。

 しばらくそうしてなされるがまま身を任せ、瞼を伏せて終わるのを待つ。彼女の記憶にある限りずっと昔から繰り返されてきた事だ。それでも、肌に染みるこの冷たさには未だに慣れない。暖かな季節ならばともかく、春に手を伸ばし始めたばかりのこの時期の水は、とかく冷たい。

 心を無にして辛抱することしばし。

 やがて、手足の先まで丁寧に清められたのを確認して、浴槽をでた。

 濡れた髪が華奢な背に張り付いて、臀部まで伸びている。毛先から足を伝って流れて行く滴が、潔斎場の石畳に奇妙な柄を描き出した。

 やはり、そこで待っていた侍女が布を広げた。柔らかなそれは、冷えた体にほんのりと温くて心地いい。全身を覆われて、今度は身体を拭かれる。

 背後から、水からあがる侍女たちの音を耳に拾う。ひたひたと足早に歩く音が彼方へと消えて行った。

 水分が粗方無くなったころ、先ほどの二人が衣服を整えて戻ってくる。まだ乾ききっていない髪にその片方が加わり、もう一方は衣類を着せてくれる。

 長い髪は特に時間がかかる。毎朝の事で侍女達を気の毒に思うが、短くする事は許されないから仕方がない。髪には、通力が宿ると言われているのだから。

 下着を身につけ、髪が乾くと、そこではじめて式服が広げられた。袖を通したそれは、独特の形をしている。袖口はゆったりと大きく口を広げ、襟は首を隠すようにやや高い。生地はさらりとした肌触りの光沢のある白で、何よりも目を引くのはその裾だ。ひざ下から後方へと曲線を描きながら流れて、少し床を引きずる長さで三角に形作られている。

 上から腰に白い帯を巻いて構造自体は簡単なそれを留めたあと、残った部分を後ろで結ぶ。垂れた髪も同様に白い紐でひとまとめに括り、布の靴を履かされてようやくここから出る事ができる。

「ありがとう」

 毎回毎回、決まってかける台詞は同じだ。たとえ彼女達に惰性で心がこもっていないと思われていても、それ以上に労ってやれる言葉が見つからない。

 そもそも、過分に何か言おうものなら恐縮して平服するばかりで、余計に申し訳がなかった。

 それでもうれしそうにほほ笑んで、ほんの少し膝を曲げて労いを受ける侍女達を置き去りにして、その場をあとにする。

 潔斎場を出ると、そこには神官長が立っていた。それも、いつもの事だ。

 寒い時期特有の、磨かれたように澄んだ大気を吸い込んで見上げた空は、まだ薄暗い。日の出直前のその彩は、白に近い青灰色。

 それを髪よりはやや薄い紺青の瞳で見つめていると、焦れたように神官長の声が掛った。

「さあ参りましょう、カイウ様」

「ええ」

 そっけなく返して、男の後について歩きだす。

 常の事なのだから、よく解っている。わずかな楽しみを邪魔するその無粋さに、拭かれたばかりの冷水をまた浴びせられたような気分になった。

 日も明けきらぬうち、食事を摂る前に身を清めて、水鏡の間(しんでん)で神に祝詞(のりと)を捧げる。死気(よる)から生気(あさ)へと転ずる瞬間に、その日一日の国の安寧を願うのだ。

 天声(かみのこえ)をその身に降ろし、この国の陰陽を定める事こそが、神子(みこ)たる彼女―――カイウのなすべきことだった。

 

 


 祭儀が終われば、与えられた一日の務めの半分を終えたと言っても過言ではない。あとは日暮れまでゆっくりと過ごす。

 神殿を出たカイウは食堂に向かって歩き出した。神官長とはいつも中で別れる。彼にはまだ仕事が残っているのだ。

 途中、庭園に掛けられた回廊の欄干に手を掛け、小川や草木を眺める。

 過ぎゆく季節毎に色を変え、輪廻を繰り返す彼等は美しくも逞しい。庭師の丁寧な世話あっての事だが、それでも草花は偉大だとカイウは思う。

 庇から差し込んでくる柔らかな朝日に、川のせせらぎ。

 下界と切り離された生活をしている彼女にとって、この庭園の移り変わる景色だけが唯一の(よすが)だ。

 繰り返される毎日は単調で、動もすれば年月の感覚が麻痺してしまう。

 先代の神子から神職を受け継いでからもう十年以上がたつ。歳を重ねて知識は増えても、心の中の空虚感はますばかり。時が止まったかのように、いつからか足踏みをしたままの自分は、彼らと比べて何と脆弱なのだろうか。

 前にも後ろにも進んでいる感覚を持てない自分に、それらは歳月を感じさせてくれる数少ないものの一つだった。

 はっと我に返って、名残を惜しむ様にそこを離れる。ある程度の勝手は許される身だが、かといってぐずぐずしていたのでは侍女達の仕事が片付かない。

 祝詞を(うた)う事くらいしか能のない自分に(かしず)いて、朝から晩まで忙しく働いているのだ。せめて早く仕事を終えられるようにしてやらなくては。

 辿りついた食堂には、既に朝食の準備が整っていた。

 食堂と言っても、カイウ一人の為だけに用意された部屋だ。同じ王城の中のもう一つの食堂のように、長い机も、高い天井も、同席する者もない。

 小さな食堂には、それに似合った丸卓と、一組の椅子。他に料理人と数名の侍女が居る。もちろん、彼等が席に着く事はない。

 食べられる物に限りがある彼女は、王族と食卓を囲む事は出来なかった。身分で言えば、王以下の血族と同格、とされてはいるのだが。

 式服のままいつもの定位置に腰を下ろす。一日の大半をこの姿で過ごす。真っ白なそれにうっかりこぼしてしまわないように神経を使うのだ。

 カイウが席につくと、早速温かいパンとスープが置かれる。その他に、煮込んだ野菜、豆類、そして山羊の乳。

 肉、魚、卵は口にできない。神子の食事は精進潔斎が基本だ。殺生は固く禁じられている。 調理場を共にして万が一にも不浄の欠片が紛れ込んではならないと、こうして別にされているほどだ。

「カイウ様、もう少し豆を召されませんか」

 いつも食事の世話をしてくれる年増の侍女が、カイウを気遣って声をかける。

 肉や魚をとる事が出来ないから、彼女の血は薄い。だから、立ちくらみをおこして倒れてしまう事も多かった。神子になった者の宿命とも言えるが、それを解消する有益な方法は皆無に等しい。せいぜい、こうして血を濃くするものを、制限のある食材の中から選んで積極的に摂るしかないのだ。

「いいえ、もういいわ」

 気を悪くした様子もなく返された言葉に頷いて、年増の侍女は壁際に下がって行く。

 月の穢れに備えて血を濃くしておくべきだとわかっているが、出された以上のものを口に運ぶ気になれなかった。

 皿に残っている物を少量ずつ口に運んでは黙々と租借する。

 陽が高くなるにつれ、日射しは強さを増す。食事をしながら眺めた窓枠の先は、眩いばかりの白だった。



 カイウは夜が来るまで、ほぼ毎日自室で本を読んで過ごす。

 神子たる素養、最低限の教育は数年前に終わっている。望めばそれ以上を学ぶ事もできるが、所詮神学以外を極めた所で将来を選べるわけではない。だから、基礎教育を終えてから、一度も講師を招いたことはなかった。

 講師を招かねば自室を訪れる者など侍女を除いて他にない。

 手持無沙汰を解消しようにも重度の貧血を抱えたカイウに出来る事は限られているから、結局は城の蔵書を片端から読むのが常になった。ただ、退屈なだけの毎日。

 ふと、見入った本から顔をあげて壁掛け時計へと視線を移す。あと数時間で今日という日は終わる。

 もうそろそろ刻限だと知って、本を閉じた。

 腰かけていた寝椅子を降り、手にした本を机の引出しにしまった所で、部屋の扉を叩く音が聞こえた。

「どうぞ」

 声を確認して入って来たのは、部屋付きの侍女だ。名をイルナという。

 彼女は扉を閉めて一礼する。

「カイウ様、お時間でございます」

「わかりました」

 そう返して、イルナと共に自室を出る。

 これから、残りの務めを果たしに行く。

 経水(げっけい)の期間を除いて夜毎繰り返されるそれに備えて、カイウは浴場を目指して歩き出した。

ご覧いただきありがとうございます。

拙い文章ではございますが、最終話までお付き合い下されば幸いです。少しでも楽しんでいただけますよう、最後まで頑張ります。どうぞよろしくお願い致します。



2009春・花小説企画参加作品です。

連載のため、イメージ花・花言葉・出典先は最終話後書きにて掲載致します。


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