赤林檎とイレブンシス 2
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庭に面した森。よく見ると、そこには密かに小道がある。リリノと別れ、奏はその道を早足で進む。さほど歩かないうちに、四阿とその屋根の下の井戸が見えた。井戸の横には、停められた四輪の荷車と積まれた木箱も見えたが、それには構わず、奏は井戸に近づいた。
覆いを外し中を覗き込む。ゆらゆらと溢れる冷えた空気に、思わず目を細めた。光の届きにくい井戸の中でも、明確にその存在を主張する赤や緑たち。滑車が回る音を立てながら、その色を引き上げる。段々と連なった竹編みのざるが、朝ぶりに光を浴びる。ざるの上できんと冷えているのは、トマトやキュウリ、ナスといった夏野菜だった。
朝食前に収穫していたその野菜たちを、一度箱の上に避けておく。桶で井戸の水を組み上げ、顔を洗い、濡らした手拭いで汗を拭くと、それだけで清々しい。手拭いを荷車の端に置き、ざるの野菜を手早く箱の中に移し替える。
作業を終え、もう一度桶で水を組み上げた。手で水をすくい、それを飲む。三度ほど繰り返して、一つ溜め息をついた。別に疲れているわけでも、悩みがあるわけでも無いのだが、何となく吐いた息が溜め息のように聞こえることもある。
庭から少し入った森の中。井戸の周りは多少開けているが、風が吹けば草葉のざわめきが聞こえる程度で、静かな場所だった。初夏、日も高くなってきているというのに、井戸のお陰もあってかひやりとして心地いい。
「まあ、だからといってどうということもないんだが」
余りにも静かな場所。その静寂をふと邪魔したくなって、特に意味のない言葉を口から漏らす。井戸の淵に寄りかかり、少しだけ休もうと決めた。冷やしておいた野菜がぬるくなる間もない、少しだけ。
——本当に静かだ。空を見上げれば青く、木々の葉は鮮やかな緑。まるで日常的。そう、日常的だった。この場所から見える景色だけを切り取れば、箱庭に来る前とそう変わらない。
(……元の世界。主軸の世界、ねぇ……)
生まれは21世紀前半の日本。育ったのは、……まあ割合が高いのは日本。それなりに自由で、それなりに窮屈な国。全ては見ようと言いようだが、まあ世間一般から見れば少々特殊な生い立ちの自分が、義姉や義父母や古本屋の主人と出会ったあの国は、良いところだったのだろうと思う。そして後に旅した多くの国々を含めた地球、世界。好ましく思っていたかと問われれば、奏の答えは是だ。
(姉さま……音姉に言われた通りに世界をよく見たら、別に壊さなくたって良いやと思ったんだもんな、俺は)
じいさんとの世界一周も終えて、さてしばらくは古本屋の本でも読み返すかと思っていた矢先、この箱庭へ訪れることになった。箱庭に訪れるまでも紆余曲折、色々あったが、それにしたって箱庭に来た時の衝撃ときたらなかった。
神さまがいるのは、いい。悪魔がいるのも、いい。身内となる連中が付喪神と合成獣だっていうのには心が踊ったが、それより、何より、自分のいた世界が『主軸』であったと知った、あの時。奏は心底驚いたのだ。箱庭を訪れて以来、一瞬でも元の世界に戻ることを考えたのは、あの時だけだ。だって主軸だ。全ての並行世界の大元だ。あの世界、歴史は『正しい』と知ったのだ。己の元いた、あの世界が、だ。
それを知った時、真っ先に頭を過ぎったのは、真っ先に伝えてやりたいと思ったのは——。
がたんと音がして、奏は我に返った。横に置いておいた桶が、井戸の淵から下へと落ちていた。知らずのうちに、体でも当たってしまっていのか。無自覚のうちに熟考し出すのは悪い癖だ、自覚はある。今回はそこまで長くは経っていないが、そろそろここで休むのも終わりにするべきだろう。
桶を引き上げ、井戸に被せた覆いの上に置いておく。野菜の入った箱を荷車の上に積む。その際、トマトを一つ箱から出した。朝、一つ多く穫っておいた分だ。ぐ、と引くと、荷車の車輪が回り出す。そのまま引きながら荷車が通れるギリギリの幅の小道を出て、先程リリノと手合わせをした庭に出る。日差しを遮るものがなくなると、途端に暑い。
洋館の横を通り、玄関がある正面側の庭を目指す。一度車輪が回り出して仕舞えば、案外片手でも引けるものだ。空いた手で、避けておいたトマトを取る。まだ冷たさを残していたそれに齧り付くと、強い甘味と仄かな酸味が口の中を満たした。
味見、もしくは水分補給と体の良い理由をつけてのつまみ食いであるが、夏野菜の収穫量というのは結構えげつない。ラピュタ内で消費する分、アトランティスに卸す分。予想以上の豊作だとこれら二つの用途では収まらない量が穫れる。そして、今年は絶賛豊作である。去年も奏の予想よりはるかに多い量が穫れたが、それ以上だ。だからまあ、ここで奏が一つ食べたところでノープロブレム、むしろもっと食べないと消費が追いつかない。
「リリノ大先生のお陰だな」
奏が脳内でリリノを拝みながら、もう一口とトマトに噛り付いた、その時。照りつける日差しに対抗するかのように、冷たい風がそよりと吹いた。
「リリノさん、ですか?」
荷車を引きながら歩いて歩いて、いつの間にか正面側の庭に出ていた奏に、風上から声が届く。木の陰から、ひょこりと少女が顔を出した。よっこらせ、と古臭い擬音を付けたくなるのんびりとした仕草で少女——花は立ち上がり、奏に向かってにこりと笑みを浮かべた。
「こんにちは、奏さん」
そう言いつつ、花の視線は奏の持っていたトマトに向いていた。あと一口ほど残ったそれを視線で示し「食うか?」と尋ねれば、花はぱっと目を輝かせる。荷車を止め木陰へ歩み寄り、手渡してやると、嬉しいそうに受け取った。二口かけてトマトを食べ終え、美味しかったと満足げに微笑む様を見て、そりゃ良かったと呟きながら、奏は先程から気になっていたことを口にする。
「お前の質問に答えないままで悪いんだが……すまん、俺から先に聞いてもいいか?」
「はい?」
ひやりと心地よい風が吹く、その中心には花がいた。ここら一体の涼しさは、木陰で日光が遮られているから、と言うだけではない。ちらちらと白い綿のようなものが舞っている。これは、まさか。
「雪……だよな? それ」
「雪ですよ?」
それがどうかしたのか。そう言わんばかりに花は首をかしげるが、その仕草をしたいのは、正面からは冷えた風に吹かれ、背後からは照りつける日光に熱されている奏の方だ。
『夏に降る雪』なんて大層浪漫があって結構。だが、ラピュタ内の気候管理を担うリリノが、そんな奇妙奇天烈な気候を設定するだろうか。
(……いや、あいつならやるな。しかも乗り気で)
言動の八割が勢いとノリで出来ているタイプの神様だった、そういえば。そんな事を考えている間も、花は不思議そうに奏を見つめている。その足元にある本本に気がついて、その時ようやく奏の疑問は解消された
「魔道書の練習か、なるほどな」
「——ああ、奏さんが何故不思議そうな顔をしていたのか、分かりました。雪が降っていることが不思議だったんですね」
「それ以外に何があると」
「かき氷とか」
「かき氷」
「この辺で舞ってる雪を集めて、かき氷を作れるかっていう」
この前、リリノさんがみぞれを食べさせてくれました。存在は知っていましたけど、食べるのは初めてだったんですよ。
——などと相変わらずの笑顔で花は語る。およそひと月共に暮らして分かってきたが、この少女はなかなかに突飛な発想をする。あとなかなかに食い気がある。脱線し続けそうな話を修正しようと、奏は彼女の足元の魔道書を見た。
「雪っつったら、『雪の女王』とかその辺が思い浮かぶんだが」
「当たりですよ、奏さん」
敷き布の代わりの肩下げ鞄の上、置かれた一冊の本を花が手に取ると、再び冷えた風が庭に吹く。
「今日は暑いので、練習ついでに涼もうと思いまして」
メルヘン曰く、中身が白紙であるこの魔道書は童話や神話といった物語の中の出来事を再現することが出来るのだという。初めて目にしたその奇跡は、巨大な『お菓子の家』だった。そして、物語に収拾をつけたりと他にも様々な機能があるらしいこの書物の力は、書物の主である花の力でもある、とも言っていた。
聞いただけでもその力は相当な代物だと理解できる。お菓子の家や毒林檎を出すくらいならまだ可愛い方だ、いや使いようによっては毒林檎は全く可愛いものではないが。
ともかく、本当に、物語としてあるものなら何でも再現出来るというなら、使いようによっては街一つ、国一つ、いや、世界を滅ぼす程度至極簡単にしてしまえる力では無いか。例えば神霊の御業などを再現したとしたら——。
そう考えてひやりとしたのは僅かな時間だった。花は練習と称し、このひと月魔道書の扱いをあれこれ試してきたが、本人の思考回路が割と呑気で楽天的なせいか、再現した奇跡はすこぶる平和なものばかりだった。
例えば、赤ずきんがおばあさんに持っていったワインとケーキ。これはそのまま食べて飲んでいた。というか奏も御相伴に預かった。それからシンデレラのカボチャ。これはメルヘンが煮付けにしていた。リリノが喜んで食べていたのを覚えている。
ぱっと思い出せたのは食べ物ばかりであった——何せ印象が強すぎる、あと普通に美味かった——が、それ以外にも魔法の絨毯やらを出していた。実際に乗って飛ぶことも出来たようで、その練習の時に不在だったことを残念に思った記憶はある。
「それで、リリノさんのお陰というのは?」
雪を収め、本を鞄に仕舞った花とともに荷車の方へ戻る。一瞬何のことだと考えるが、そういえば会話のきっかけは己の独り言だったと思い出す。
「うちで穫れる野菜が大豊作なのは、リリノの恩寵あってこそだって話」
これからアトランティスに行くんだが、と告げれば、お伴しますよと返事が返ってくる。揃って歩きながら、奏はリリノの加護について話し出した。
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