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P.B.S  作者: 春秋夏冬
一章 魔王の試練
30/36

或る夜咄 2

 

 ---



 奏の答えを、ケイトは数度瞬いたところで呑み込んだらしかった。く、と喉を鳴らして密かに始まった笑い声は、次第に大きくなっていく。


「なんだよ」


 む、として、愛想に欠ける声をかければ、目の前の男はようやく笑うのをやめた。


「ごめん、ごめんね、ふふ」


 笑うのを隠そうとしてか、下げられていた顔があげられる。ケイトの表情を見て、奏は目を見張った。


「ケイト、お前……何で泣いてんだ」


「えっ?」


 ケイトが不思議そうに首を傾げる、その仕草で目元に溜まっていた涙が溢れた。それでようやく気が付いたのか、「あれ」と慌てたような声を出した。


「笑い過ぎて泣いたのかよ、お前……」


「ち、違う、それなら気付くって。あれ、ほんと、何でだろ……」


 俺は俺なりに、真面目に答えたんだぞ、なんて拗ねたように言ってやると、ケイトは一層慌てたようだった。


「えぇ……ほんと、何で、待ってどうしよう、止まらない」


 混乱しつつも何とか涙を止めようと、ケイトが強く目元を擦る。


「強く擦ると腫れるぞ、やめとけ」


「わ、見ないでよ」


 気まずそうなケイトを見て、奏は腰を上げた。ケイトの隣、ベッドに腰掛け、がっとケイトの頭をかき抱いて自分の胸に押しつけた。


「ちょ、えっ何? ……何かの格闘技の技?」


「んなわけあるかよ、泣きたいなら泣けってこと。昔、こんな風にされたことがある」


「……そっか、ありがと」


 ぐ、とケイトは奏の胸に頭を押し付けた。くぐもった声がぽつりぽつりと漏れる。


「俺ね、ずっとずっと長い間、いろんな世界を見て生きてきたけど、リリノと出会ってからの千年間とお前と出会ってからの二年間が、一番楽しかった」


「......どうしたよ、急に」


「言いたくなっただけだよ。絶対に忘れたくないって思ってる。大事に、大切に、記憶と記録の奥底に閉じ込めておきたいって、そう思ってる。それを知っておいて欲しかった」


 ——俺、忘れっぽいから。


 ケイトの言葉は、自虐的な響きを伴って発せられた。時折、ケイトはこのような言動をする。劣等感(コンプレックス)に押しつぶされそうな、そんな苦しげな表情で言葉を紡ぐことがある。


 奏は、それがどうにも気にいらなかった。『気にいらない』だなんて、彼の言動に自分の好みでケチをつけるべきでないとは分かっている。だが、気にいらない。この男は、この番人は、自己評価がとにかく低い。普段は表には出さないが、時折酷く投げやりな言動を取ることがあって、そしてそれは自分が絡んだ、自分が対象の話の時なのだ。


「今朝、お前が時たま妙に気障ったい物言いをするのを治してやりたいと言ったがな。お前のその自虐的な考え方と自己評価の低さもどうにかしたいもんだな」


 胸に抱きかかえた男の後頭部で結われた髪が、少し型崩れていた。白い紐を引くと、枷から解かれた黒檀の髪が、さらりと流れる。


「はは......。相変わらずはっきり言うね、奏。自分じゃそんなつもり、ないんだけどなぁ」


「……というか、何で髪解いたの」そう口にしながら、顔を上げようとするケイト。「何となく?」とだけ答えて、それを遮るように彼の頭を押さえ込み、奏は髪を結い始める。白い紐を一度自分の腕に巻きつけ、まずは散らばった髪を纏める。随分と手慣れた仕草だった。


「まあ、お前ほどぼかした物言いはしないな」


 纏めた髪に紐を巻きつけ、固定する。


「さっきの『何となく』は、ぼかしたうちに入るんじゃないかなぁ......」


「強いて言うなら、解けかかっていたから、だ」


 肩を叩いて、結び終わったことを知らせると、ケイトはゆっくりと顔を上げた。


「ほら、今の」


「今の、って?」


「肩叩いただけで、『結び終わった、顔上げて良いぞ』っての、お前に伝わっただろ」


「ああ、うん。伝わったけど、それがどうしたって言うのさ」


「今のみたいに」そう前置きして、奏は口を開く。


「言わなくても伝わるものは確かにあるだろうし、それが通じる関係を、俺は、お前と築いていると思ってるよ。だが、言わないと伝わらないものってのもあるだろ。お前が知らずのうちにしている、自己否定的な思考を教えてやらなきゃ、いつか、俺とお前の間で会話が成り立たない時が来る」


「それは嫌だし、困るだろ」さらりと言われたその言葉に、溢れんばかりの親愛と信頼を感じて、ケイトは頷くしかなかった。


「言う必要のないこと、言うべき時じゃないことは言わないけどな。でも、俺は言うべきだと思ったことは言う。話したいことがあったら話す」


 真っ直ぐにケイトを見つめていた奏の視線が、ふと緩んだ。


「だから、お前もそうしろよ、ケイト。今日みたいに話したいことがあるときは、いつだって話に来ればいい。話したいだけ話せば良い。全部を話さなくたっていい。俺以外——リリノたちだって、それを拒みやしない」


「......みんな——もちろんお前も含めて、良い子だもんね、知ってる」


「『良い子』ってお前なぁ……」


 気まずそうな顔で、奏が顔をしかめる。それを見て、くすっと笑い、ケイトはベッドに半身を投げ出した。片腕で顔を覆い、ため息と感嘆が混じったような声を漏らす。


「......あーもう、ずるい、奏、ずるいよお前」


「何がだよ」


「俺だけこんなに照れちゃってさ、嬉しいけど恥ずかしい」


 だって、お前が照れるとこ、俺、見たことないんだよ。そう言って、ケイトは少しだけ腕をずらし、奏を覗き見た。訳がわからないといった顔で、噛み付くように奏は言い返す。


「今の話のどこに、お前が照れる要素があったってんだよ。それに、俺だって照れるときゃ照れるっての」


 奏の返答を待たず、被せるようにケイトはくすくすと笑い出す。


「おいこら、また笑いながら泣いてんじゃないだろうな」


「大丈夫、泣いてないよ」


「なら良いけど。それで? さっきの涙は結局何なんだよ」


「俺にも分かんないよ。でも多分、 感情がキャパシティオーバーしたんだ、良い方向に」


「……分からん、拝聴するから説明しろ、ケイト先生」


 ばっと、ケイトが飛び起きた。目を白黒させて早口で奏に問いただす。


「せ、先生っ?! 俺が?!」


「駄目か?」


「い、いや駄目っていうか……まさか、自分が先生なんて呼ばれる日が来るとは、思ってもみなかったというか……」


「ケイト、お前さ」


 まだ動揺を隠せない様子のケイトに、奏がゆっくりと声をかけた。今度は何を言われるのかと、少し構えた様子で、ケイトは奏に向き直る。


「お前、『先生』ってワードに過剰反応するだろ。正直、怯えてるように見えるんだよ。」


「……う、ん」


「お前の『先生』との関係、言いたくないなら言わなくていい。これも正直にいうと気にはなるが、無理に聞こうとは思わん」


「……うん」


「ただまあ、お節介だとは思うが心配してるんだ。お前が『先生』ってワードを口にしたり、耳にすると、不安げになるのをな」


「……ん」


「だから、慣れりゃ多少はマシになるかと」


「……うん?」


 一拍おいて、ケイトは奏の言葉を反芻する。……いや、それは。それはどちらかというと。


「アレルギーの治し方じゃないかな、それ?」


「ああ……対症療法だったか?」


 首をかしげる奏を見て、ケイトは内心頭を抱えたくなった。そうだ、この男、気が回るようで案外大雑把だった。どうしてその結論に至ったのか、問いただしたくはあるが、おそらく先ほどの言葉が彼の本音なのだ。即ち、『慣れりゃ多少はマシになるかと』というのが。


「今はお前の話を聞きたいと思ったし、説明を要求してる、つまり俺は生徒的立場にある。それにほら、お前、俺や花に教えてくれるんだろ、箱庭のこと」


「そういえば、そんなことも言ったね……」


「なら、お前は先生であってるよな」


「そう……なのかなぁ……」


 奏が『気が回るようでいて大雑把』な性格なら、ケイトは『身内からの押しに弱い』性格だった。これについては、ケイト本人も若干自覚しているが。


「んん……まあ、そうか、そうだね。確かに、教える立場の者を『先生』と呼ぶのは、全世界共通だね」


「そんなわけで、今後たまにお前のことを『先生』と呼ぶかもしれん。慣れろ」


「ざっくり雑だねぇ、奏……先生」


「お」と奏がケイトを伺った。気まずそうに、ケイトが顔を背ける。


「今の、忘れて」


「忘れるかよ。……でも俺、今お前に何も教えてやしないぞ。何で『先生』なんだ?」


「『何となく』だよ」


「はあ?」


「まさか、先生以外を『先生』なんて呼ぶ日が来るとは思わなかったなぁ」


 そう言ったきり、ケイトは何かを考え込むように黙り込んだ。問いただしたいことは山ほどあるが、かといって彼の思考を邪魔しようとまでは思わない。奏はひとまず、冷めきった紅茶を飲んで時間を潰した。


「……うん」


 ケイトが黙り込んでいたのは、2分か3分か、その程度の時間だった。けれど彼の中では、数時間を凝縮したように濃い思考時間だったらしい。覚悟を決めたような顔で、ケイトが口を開く。


「奏。俺も、今後お前のこと、『先生』って呼ぶかもしれない」


 一瞬意外そうな顔をした後に、奏は胡乱げにケイトを見た。ケイトの様子を見て、 もう少し重い——例えばそう、『先生』についての話でもされるのかと身構えていたのだ。


「深刻そうに悩み込んでると思ったら……」


「俺にとっては深刻なことだったんだよ?」


「さいですか」


 ケイトは、またくすくすと笑う。密やかな笑い声を耳にしながら、奏は紅茶のカップに手を伸ばす。持ち上げようとした時の予想外の軽さで、ようやくカップが空なことに気がついた。先ほど飲みきっていたらしいが、それに気がつかなかったことに内心ひっそりと驚いた。思っていた以上に、自分は話に夢中になっていたらしい。


 ソーサーに戻したカップが、微かな音を立てた。それを聞いて、ケイトがゆっくりと立ち上がる。


「随分時間を取らせちゃったね」


「別に構わんが、話ってのはもういいのか」


「『もういい』どころか、言わないつもりだったことまで喋っちゃったな、今日は」


「話は二転三転、転がりまくりだったがな。結局、お前、何が言いたいんだ」


 くす、とケイトはまた笑った。華やかさはないが、その笑みを見るとあたたかい心持ちになる、彼お得意の笑い方だった。


「何にも」


 穏やかな笑みのままに、ケイトは否定混じりの言葉を吐く。


「謝りたかったのは本当だよ。でも、それ以外のことは、本当は言うつもりじゃなかった」


「奏先生が聞き上手だからかな?」なんて茶化すように言った男の表情は、影になっていて、奏にはよく見えなかった。


「ずっと、頭の中でぐるぐる考えてたことを吐き出したかったんだ。だけど、一人で吐き出したって、聞いてるのは俺だけだろ。吐き出したものは全部俺の中に返ってくる。だから、しても意味がないと思ってた」


 ゆらりと長身を気怠げに動かして、ケイトは奏に向き直った。


「だけど誰かがいれば、そうじゃない。それで、お前がいたから。話したい、話してしまいたいって思いが溢れた時に、奏がいたから」


「だから」と掠れ気味の声を最後に、それ以上をケイトは語らなかった。何を言うべきか迷いそうになって、けれど、間を空けるべきではないとも思って。奏は、ぐ、と息を飲んだ後に口を開いた。


「俺が聞くことで、お前の中に返ってくるものの量は減るのかよ」


 ようやくケイトの本心の一端が見えかけたというのに、この返しはどうなんだ。口にした後で、自分に呆れてしまう。流石にもう少し、気の利いたことを言えただろう、俺。


「減らないよ。減らないけど、密度は減ってる、気がする」


 ——それって、大きな違いだと思わない?


 けれど、ケイトは嬉しそうに笑った。


「『話したいことがあったら話せ』って言ってくれたよね、奏。後付けの理由だけど、それに甘えたってことにしておいてよ。」


 自分の言動のどこがケイトに刺さったのやら、考えても分からない。奏が微かに自嘲を込めたため息をつくと、ケイトは不思議そうに首を傾げた。


「——奏?」


「いや、何でもない……」


「ん、そっか」


 ふと、ケイトが視線を下ろす。


「ああ、ご馳走になったし、カップとソーサーは俺が洗うよ。水道、借りていい?」


「いいよ、そのくらい」


「そう……? じゃあ、明日の朝御飯は俺に作らせてよ。夜更かしさせちゃったし。ね、いいでしょう」


「洗い物より手間が増えてんじゃねぇか」


「お礼だと思って、やらせてほしいな。奏、和食が好きだったよね。白米を炊いて、出し巻き卵とお浸し、香の物。リリノはあおさの味噌汁が好きだったし、作れば喜ぶかな」


「そこまで言うなら任せるが、夜更かししてんのは、お前も同じだろ」


「俺、睡眠をとらなくても平気だから」


「そうか、寝ろ」


 えー、とケイトは不満気な顔で抗議した。


「あのなぁ、寝なくても良いからって、ずっと起きてるのはやめとけ。俺が来る前がどうだったのかは知らんが、少なくとも直近二年は、俺に付き合って昼間動いて夜寝るって生活をしてくれてんだ。習慣を急に崩すと、体に悪いぞ」


「……奏って、案外お爺ちゃんみたいなこと言うよね。基本早寝早起きだし」


「じいさんと暮らしてたからな。あのじじいに付き合って生活してりゃ、早寝早起きにもなる」


「良いね、楽しそう」


「……まあ、楽しくはあったが、勧めはしねぇぞ。ってなわけで、寝ろ、ケイト」


「はーい。……ありがとね、奏」


 そこまで言って、ケイトは「あ」と悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「奏、奏。最後に聞きたいんだけど」


「んだよ」


「奏先生、泣いたの?」


「は?」


 何を言われているのか分からず、聞き返す。


「さっき、俺が、その……泣いた、時。俺の頭をお前の胸に押し付けてさ、『昔こうしてもらったことがある』って言ってたでしょう。それも、おじいさんにしてもらったの?」


「——ああ。あれは、違う。てか、泣いてない、ちょっと色々考え込んだだけだ。じいさんに会うより、もっと前にな」


「前?」


「義兄弟……いや、あいつは女だから義姉弟か。法的には真っ赤な他人なんだけどな、そんな契りを交わした奴がいた。そいつにな、されたんだよ」


「おねえさん、ってこと?」


「んー、俺の名付け親でもあるし、拾い主でもある。ま、もういい時間だし、聞きたいってんなら、この話はまた今度ゆっくりしてやるさ。……名前だけ、教えとくか。音音(おとね)っていうんだ、俺の()()()は」


 ケイトは、密かに息を飲んだ。奏は、今まで見たことないような、懐古や羨望の入り混じったような表情をしていた。


「奏が話してくれるなら、いつか聞きたいな」


「おう。じゃあ、俺からも最後に質問な」


「何?」


「“円卓”って、どんな奴らなんだ」


 動揺を隠せない様子で、ケイトが数度瞬いた。ケイトの瞳が不安げに揺れるのを見て、奏は密かに様子を伺った。


「……何で、急に?」


「何でって……何となく、な。今日サタンと話しただろ、それで円卓の話になった。その時、お前、円卓とは関わりがある、みたいなこと言ってただろ」


「そっか、それで、か」


 無論、それだけではないのだが。ケイトの話から察するに、リリノは『先生』との面識がない。ということは、ケイトと『先生』が関わっていたのは、リリノと出会うまでなのだ。恐慌状態にあったケイトを宥めたのを見るに、サタンは『先生』については訳知りのようだ。サタンとケイトが共通して絡んでいるものといえば、円卓しか奏は知らない。


「円卓の噂くらいは、俺も聞いたことがある。アトランティスの街で買い物するときとかに」


「ちなみに、どんな?」


「……大半が強大な力を持つ神霊で構成された、箱庭最高戦力。そこに座すものは一席で万の神霊を相手取ること容易く、敵にすれば待つのは死のみ」


 重々しく厳かに、低めた声で自分の知り得る情報を口にする。


 だが。


『——ってのはまあ、外面(そとづら)の話で』と。奏が聞いた噂は、こう続いていた。


「実際のところ、『一癖も二癖もありすぎだろ自重しろ』とか」


 あぁ……、とケイトは遠い目をした。否定の言葉が来ないので、奏も口を止めない。


「『万国奇神博覧会』とか『変神の見本市』とか」


「あー……。あぁ、うん……」


 ケイトの肩がどんどん下がっていく。


「『どうして結成時にストッパーを構成員に加えなかったんだ』とか『個性の寄せ鍋』とか、あとは『実力と癖の強さは比例する』とか」


「あの、奏先生……」


「『世界最強のすっとこどっこい集団』とか、『急募:常識』とか」


「うん、あの、奏先生」


「ん?」


「そこまでにしてもらって良いですか……」


 片手で顔を覆って、ケイトは疲れたようにぐったりと、壁に寄りかかった。


「否定出来ないのが辛い。そうか、そうだよなぁ……。客観的に見たらトンデモ集団だよなぁ、円卓って……」


「客観的?」


「あーうん、事実といえば事実です。各神話の主神クラスが集った、箱庭最強戦力にして、最凶の問題児集団って感じだよ、円卓は」


「……そうか」


 ケイトはだらりと腕を垂らし、項垂れて、今日一番疲れた様子だった。見ているだけでこちらにも疲労が伝わってきそうな、そんなさまを見て、奏は困惑交じり、若干引きながら、それ以上の追求をやめた。


 ここまでぐったりしたケイトは初めて見たかもしれない。そんなにひどいのか、円卓。


「あー……ケイト」


 これは、もう休ませたほうがいいだろう。奏にしては歯切れ悪く、声をかける。


「……ん?」


「聞きたかったのはそれだけだから、ありがとな」


「ああ、そうだった。俺、帰ろうとしてたんだっけ。……俺の方こそ、ありがとう、奏。明日の朝御飯は、期待しておいてよ」


「おう、期待してる。おやすみ、ケイト」


「ん、任せて。おやすみ、奏」


 別れはあっさりと、けれど日が昇ればまた会える。いくらでも話は出来る。互いにひらりと手を振って、ケイトは静かに扉を閉めて、出て行った。


 それを見届けて、隣室の扉が開閉する微かな音が耳に届いて。奏は机に残された2組のカップとソーサーを手に取った。簡易キッチンの水道で、それらを洗う。ひやりと冷たい水が手にかかり、頭の中がすっきりするような、そんな気がした。


 じゃっと水を止め、手を拭く。机へ戻ると、そこに置かれた本が目に入った。奏とケイトの話をずっと傍で聞いていた、その本の表紙には、飾り文字で『第三バルク書』と記されている。


「失楽園、葡萄、……ノア、か」


 一夜の密談。 その中で、ケイトが特に大袈裟な反応、動揺を示した単語が複数ある。


「ノア。先生。それから『してはいけない』という言葉。……ああ、円卓も、そうといえばそう、か?」


 ケイトとの話は、あちらこちらに転がって、思考も正直まとまりきらなかった。だが、一つだけ、ずっと奥底で考え続けていた事があった。


「……円卓の構成メンバーに、ノアは含まれていたはずだよな」


 円卓がどういう連中か。アトランティスの街でそう尋ねれば、いくらでも話を聞くことができた。真贋混ぜこぜの噂話だが、話題には事欠かないようだ。


 話を聞けば、当然円卓の顔ぶれについての話も出てくる。


「十三席に加えて特別席で、計十四席。第一席だけは、席を外していて正体不明。そして第二席から順に、サタン、オーディン、ケツァルコアトル、ゼウス、アトゥム・ラー。んで、聞いたことない名だが、第七席が虹雷。第八席からまた順に、ティアマト、ツクヨミ、シヴァ、アンラ・マンユ、ダビデ、ノア。特別席、アーサー・ペンドラゴン」


 思い出すように、一席ずつ名を上げていく。


「主神クラスばかり、なんだよなぁ、本当に」


 果たしてこの大神たちは、本当に問題児集団なのか。……そういえば、円卓を問題児集団と評した八百屋のおっさんの奥さんは、「問題児と書いて困ったちゃんと読む」とか言ってたな。


 サタンに会える時があれば、ノアについて尋ねてみようか。サタンは円卓の第二席。これ以上なく適役だろう。


 なんて、考え込んでいると。


 草を踏み分けるような、微かな音を聞いたような気がして、奏は窓の外を見た。開かれたそこから見えるのは、芝の生えた庭。月明かりに照らされながら、そこを歩く人影があった。きょろきょろと辺りを見回しながらの、ゆっくりとした足取りだった。


「リリノ?」


 月光に照らされた艶やかな黒髪が、リリノの動きに合わせてさらりと揺れる。己にかけられた声の出所を把握したリリノは小さく笑った後に、軽く跳躍した。


「っと」


 何てことない、弾むような仕草。けれどリリノが着地したのは、奏の部屋の窓辺だった。かっと太鼓の縁を打ったような音一つ、一本歯の下駄で器用にバランスをとりながら、リリノは奏に声をかけた。


「やっほ、奏」


「リリノ先生、ここ3階だぜ」


 窓から庭を覗き込んでいた奏は、リリノの跳躍を視認して咄嗟に身を引いた。そのおかげで二人が衝突することはなかった。


「奏だって、別にこのくらい出来るでしょう」


「出来るかとするかは別問題だっての」


「あはは、とりあえず夜の挨拶をしよう。こんばんは、奏。ずっとここにいるのも何だし、入っていい?」


「はいはい、こんばんは。入るならとっとと入れ。次はドアからにしろよ」


「はーい。……リリノ『先生』って何?」


「色々あったんですー」


「そっかー。色々あったんじゃあ仕方ないねぇ、奏先生」


 このノリの良さと察しの良さはリリノの大きな長所だろう。リリノは部屋の中に飛び込むと、奏のベッド——つまり先ほどまでケイトが座っていた位置に座った。


「お邪魔して早々、『さっきまでケイトくんがこの部屋にいた』と予想してみるわけですが」


「ご名答。何でわかった、結界か?」


 机に寄りかかって立ったままに、奏はリリノに問いかける。


「まあね。ケイトの()が部屋に残ってたってのもあるけど。奏に声をかけられるまで結界内部を探ってたんだ」


 因みに今は、みーんな自室にいるよ。……私以外は。


 リリノは、ガーディアンズのラピュタ全体を覆う結界を張っている。結界に意識を向ければ、『誰がどこに居るのか』程度の情報は、即座に知覚出来るのだ。


「なんでまた、そんなことを」


「んー」


 リリノは顎に手を当てて、分かりやすく考え込んだ。「確証は持ちきれていない、あくまで感覚的な話なんだけど」と前置きした後に、潜めた声で話し出した。


「なーんか嫌な気配がする……んだよねぇ」


「へぇ?」


「気の所為だと断じられたら従ってしまいそうなくらい、薄らとね。気配……予感と言い換えても良い」


「その出どころを探ろうとして、歩き回ってた、と」


「そういうこと。でも、今日に限ってそんなことあるか? とも思うわけですよ」


 何たって今日の結界は特別バージョン。いつもの数倍は厳しく、()に反応するようにしてあるんだもん。


「メルヘンが本当に害意を持っているか否かのテストのために、結界を強化したんだもんな、お前」


「そうそう。だから、本当に嫌な気配を感じたのか、自分でも判断がつかないっていうか、ね?」


「まあでも」と言いながら、リリノは弾むように立ち上がった。


「何となくそう感じた、ってことを奏に共有出来ただけでも、深夜の散歩は儲け物だったかな。一応、気にだけ止めておいてよ。杞憂になるかもしれないけどさ」


「了解。お前の勘はよく当たる、覚えとくよ」


「それじゃあ夜もいい時間だし、私はもうお暇しよう」


 相変わらず、一本歯の下駄で器用に歩くものだ。そう思いながら、奏はリリノの後ろ姿を眺める。ドアノブに手をかけたところで、リリノは振り返った。


「ところで、だよ。奏先生」


「おう」


「ケイト、大丈夫だった?」


「話の内容まで把握済みか?」


「まさか」とリリノは首を振って、奏の問いを否定した。


「やろうと思えば、話を盗み聞くことも出来るけどね。流石に、そこまで野暮な真似はしないよ」


 その仕草で、さらりとリリノの黒髪が揺れる。ケイトの髪が黒檀なら、リリノの髪は濡烏の色だった。


「それでも、千年だ。千年一緒にいればね、言葉にせずとも、分かることはあるんだよ」


「言葉にせずとも、か」


「無論、全てを分かることは出来ないけれどね。意思持つ者同士が親しむ上で、大切なことだと思うよ、相手の中にブラックボックス的領域があるっていうのは」


 そう言いながら、リリノは奏のことをまじまじと見た。視線を受けて、奏は眉をひそめる。


「奏先生の様子から察するに……色々ぶっ飛んだ話はあったけど、まあ最終的に悪い方向には転ばなかった、と見た」


「大正解だ、リリノ先生」


「悪い方向に転ばなかったんなら、まあ良いんだ。ケイト、私にはちょっと……うん、遠慮気味なところあるから、あれで」


 少し寂しそうに、リリノは笑った。


「だから、ケイトが何かを話すなら、それはきっと奏だと思うんだ。強いることはしたくないけど、できるだけ聞いてあげてほしい」


「言われずとも、そうするさ」


「そっか、よかった」とふわりと笑うリリノを見て、奏は口を開いた。


「ところで、リリノ先生」


「ん?」


「明日の朝はケイトお手製の和食らしいぞ」


「おお! もしかして、御御御付けの具材は……?」


「あおさだそうです、良かったな」


 やったぜ、と言わんばかりに、ぱあっと華やかな笑みを浮かべてリリノは笑う。太陽のようなあたたかい笑みだった。


「そっかそっか! なら、すぐにでも寝て、明日に備えないとだね。早起きして、ご飯の前に鍛錬してお腹空かせておかないと」


「いいな、混ぜてくれ」


「応ともさ!」


 軽やかな、けれど音の立たない足取りで近づいてきたリリノが、ぐ、と拳を突き出す。それに応えて、奏も拳を突き出した。こつ、と軽くぶつけると、リリノは嬉しように笑った。


「それじゃあ、また明日。おやすみ、奏」


「ああ、おやすみ」


 ひらひらと手を振ったリリノが部屋を出て行った。扉が閉まる小さな音が部屋に残って、そして消える。


 先程洗ったカップを手に取り、水を汲む。それを一息に煽って、カップを再び片付けて。奏は、ベッドに倒れこむように横たわった。


「あー……濃い、夜だった……」


 収穫は沢山あった。けれど、でも。それを考えるのは、明日以降でもいいだろう。流石に、そろそろ眠い。大きく息をついて、目を閉じる。最後に見えたのは、天井に届くほど巨大な本棚と、隙間なく詰められた本。そして、二年間で見慣れた木目の天井だった。















 箱庭の夜は更けていく。藍の天鵞絨に宝石を散りばめたような、そんな夜空を、二羽の鳥が悠々と飛んでいた。





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後編が前編の二倍の文字数だなんて、後編が一万字超えてるなんて、そんなまさか。そんなまさか。




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もう一つの一章番外編は、今回街の皆さまから言いたい放題言われていた“奴ら”のお話です。


奇神変神揃いの問題児集団こと円卓が動き出す、かもしれない。

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