或る夜咄
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深夜。月明かりが照らす“ガーディアンズ”洋館内の廊下に、一人の男が現れた。現れたと言っても、突き当たりの部屋から出てきただけなのだが。音も無く歩く男は、すぐに立ち止まった。出てきた部屋のすぐ隣、その部屋の扉を叩こうとして上げた手は、寸前で躊躇うように微かに揺れ、結局そのまま降ろされる。
(……情け無い)
自虐的な笑みを浮かべ、自らへの問いかけのような考えを肯定する。
(駄目だなぁ、俺)
溜息を一つ漏らし、自室に引き返そうとした足が、室内からの声を認識して止まった。
「入れよ、鍵、開いてるから」
気が付いていたのか。そう思ったが、気配に聡い彼なら当然かもしれない。呼び止められた以上、帰るわけにもいかない。なんて言い訳のように内心で呟き、ゆっくりと部屋の扉を開けた。
「奏」
「来ると思ってた」
後ろ手に扉を閉める。奏の部屋は、窓以外の壁の大部分を本棚が占めており、何も知らずに入ったら圧迫感を感じてしまうような場所だった。けれども今は、それが妙に心地良い。ドアの前で立ちすくんでいると、壁際の椅子に腰掛けていた奏に目線で促され、男……ケイトはベッドへと腰掛けた。
「お前が来るだろうなって思ったから、本読みながら待ってた。期待通り来てくれたから、その時間も無駄にならず済んだってわけ」
「……ん、ありがと」
夜遅くに訪ねたのは此方だというのに、その重荷を軽くしようと、なんて事ないようにフォローの言葉を口にする。彼のそういうところを好ましく思う。
けれど、どうしても。ケイトは、それ以上口を開くことができなかった。
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ぱた、と奏は本を閉じ、背後の机にそれを置く。沈黙が続くことに耐えられず、けれど此処へ来た本題を切り出すことも出来ず、気不味そうに俯くケイトを見て、奏は腰を上げた。
各部屋に備え付けの簡単な調理台……と言っても、水道があって湯が沸かせる程度だが、今はそれで十分だ。湯が沸くのを待つ間、奏は先程まで読んでいた本の話をして場を繋ぐことにした。
「見てみろよ、それ」
「偽典……第三バルク書。これ、読んでたの」
「ああ。ケイト、お前、“失楽園”における禁断の知恵の実が林檎ではないとする説、知ってるか」
知恵の実が林檎であるという記述は、旧約聖書には無い。あくまで俗説であり、けれどその知名度は抜群で、知恵の実と聞けば林檎を思い浮かべる人が多いのは事実だろう。
頷きを確認し、話を続ける。
「東ヨーロッパでは、禁断の知恵の実は葡萄であったとも言われている。それを思い出して、そのまま連想で第三バルク書に行き着いた。これにも似たようなことが書かれてた筈だ、ってな」
もうすぐ湯が沸くのを確認し、茶葉を出そうと戸棚を開いた。量こそ食べないが甘いものを好むケイトがいるので、マルコポーロを選ぶ。紅茶の淹れ方については、ヒッチハイクの道中でイギリスに立ち寄った際、そこで知り合った友人にしごかれたお陰で、それなりに自信があった。
ケイトに背を向けて、手を動かしながら話を進める。
「失楽園の原因、 人類の堕落の原因とされた葡萄は、神によって呪われる。その後、世界浄化の大洪水を耐え抜いた葡萄は神に許され、ノアによって植えられる」
ふ、と空気が変わった。きんと張り詰めたように、ケイトの纏っていた空気が、だ。何が原因だろうと、奏は自分の言葉を思い返す。
失楽園では無いだろう、先程口にした時は特に変化はなかったのだから。葡萄も同じく。となると、大洪水、もしくはノアか。この二つ、ノアと大洪水は切り離せない関係にあるから、その両方と考えてもいいだろう。鎌をかけてみるか。
「ノアと葡萄は縁深い。葡萄から初めてワインを作ったのも、ノアだと言われているくらいだしな」
「……ああ、そうだね」
それっきり、会話は途切れてしまう。はぐらかされた、というわけでも無いのだろうが、ケイトからはそれ以上の反応は返ってこない。少しでも動けば肌が切れそうな、そんな空気も段々に薄れていった。
淹れた紅茶が入ったカップを手に、椅子へと戻る。自分の紅茶は机に、ケイトの紅茶はベッドサイドテーブルに置き、奏は腰掛けた。
「飲めよ。腹減ってんなら、なんか持ってくるけど」
温かいものを飲めば、多少は気が緩むのでは。そう考えて、紅茶を手に取ることを促した。奏の言葉に、ケイトは素直に従った。一口飲んで、口を開く。
「空腹では無い、かな」
「お前、今日はいつも以上に食わなかっただろ。リリノも気にしてたぞ」
「歓迎会って事で、いつもより華やかな食事だったねぇ。確かに量は摂らなかったけど、どれも美味しかったよ。……ああ、ごめんね? 折角買ってきてくれたアップルパイ、食べられなかった」
そう、今日の夕食は『歓迎会』を兼ねてのものだった。新たな同胞、即ち花とメルヘンの、歓迎会。普段よりも少し多い品数は、リリノとケイト、メルヘンが用意したものだった。加えて、花と奏が買ってきたアップルパイ。それらが並んだ食卓は、確かに華やかと呼んで然るべきものだった。
「新たな同胞二人のの歓迎会。……結局、メルヘンは何の問題もなく結界内部に入れた、と」
「結界内部に入れるかのテストの時、俺はリリノの側にいたんだけど。ほんの僅かな害意も感じられなかったって、言われちゃったらねぇ……」
苦笑するケイトを、カップから立ち上る湯気越しに見る。手にした紅茶を一口飲み、奏は兼ねてよりの疑問を口にした。
「お前、リリノの結界にえらく信を置いてるよな。いや、俺もあいつの腕と結界の精度は信じてる。だが、お前のそれは、盲信的というか……自分が信じきれていなくて、また信じるに足る要素がなくても、あいつの結界に阻まれなければどんなものでも信じる、ってレベルだろ」
「……俺も、あの“害を弾く”っていうリリノの結界に救われたんだ、それこそリリノと初めて会った時にね」
「お前らの出会い、そんなに波乱に満ちてんのかよ……」
「それと、約束したんだ」
「約束」と、奏はケイトの言葉を繰り返すように呟いた。
「リリノを信じて、守るってね。……いや、あいつは俺が守る必要なんてないくらい腕が立つけど。色々助けてもらってるのは、むしろ俺のような気もするけど」
口振りから察するに、その約束を交わした相手は、リリノでは無いのだろう。そこを訪ねようとしたが、ケイトの様子を見て、奏は口を開くのをやめた。
「……ごめん。本来なら、こんな深夜に訪れた理由を第一に話すべきだった」
紅茶が、狙い通りに気を緩ませる役割を果たしたのかは分からない。それでも、紅茶を飲んで軽いやり取りを交わすうちに、ケイトの中で、本題を切り出すだけの余裕が生まれたらしい。
ケイトに真っ直ぐに見据えられ、自然と奏も姿勢を改める。
「……謝りたくて、さ」
「謝るって……もしかして、お前がアレを言っても止まらなかった件についてか?」
無言で頷かれ、奏はある言葉をケイトから教わった時のことを思い出した。
サタンの執務室にて、ケイトが激昂した際に奏が口にした言葉。『חכה』とは、ヘブライ語で『待て』を意味する。
奏が箱庭に来て半年ほど経った頃だったか。今日と同じように、深夜にふらりとやってきたケイトから教えられた言葉だった。
——先生がくれた言葉なんだ。俺がどうしようもなく理性的になれてない時に、先生が言ってくれる言葉なんだよ。
その夜も、ケイトは似たようなことを言っていた。『アレを言ったら、止まるから。俺がどうしようもなく我を失ったら、どうか言って欲しい』、それに加えて『この言葉はリリノも知ってるんだけどね』とも。
言うだけ言って直ぐに立ち去ってしまったので、その時はその言葉について聞くことは出来なかった。そして次の日には、夜の出来事なんてないなかったかのようにケイトに振る舞われては、聞くに聞けない。
『先生から教わった』というのは初耳だった。今日までその言葉を発する機会もなかった上に、ケイトが怒りを露わにするところすら殆ど見なかったものだから、結局うやむやになってしまっていたが、これは事情を聞くまたとない機会だろう。
言葉を選びつつ、ケイトに声をかける。
「『先生がくれた』だの、『先生の影響』だの言うが、その『先生』ってやつはどんな人で、お前とはどういう関係なんだよ?」
奏が「חכה」と口にした時のケイトの様子は尋常では無かった。怯えているような、泣き出しそうな、そんな状態になるとは知らず、かなり慌てた。そうなるだけの力がこの言葉にあると言うなら、それを与えたと言う『先生』は、ケイトにとってどんな人物であるのか。
「先生……先生がどんな人かって……そう、だね」
ケイトはふと、サイドテーブルに置かれたティーカップを手に取る。まだ微かに立ちのぼる湯気越しに、揺れる波紋を見た。
「俺を、殺してくれる人、かな」
ゆったりとした、穏やかな口調だった。陶器で囲われた琥珀色の水面から顔を上げ、ケイトは幸せな夢を見ているような、そんな穏やかな笑顔を浮かべた。
「ああ、言っちゃった。他の連中には内緒にしてよ、奏。特にリリノには、さ」
「......お前、ほんとタチ悪いな。お前の望みなら俺が断らないって分かって、言ってるだろ、それ」
「あは、バレた? ……うん、ごめんね。お前、案外……ってわけでも無いけど、義理堅いとこあるからさ。俺に恩がある、って思ってくれてる、その感情を利用させてもらってます。ほんと、ごめんね?」
「申し訳なさの欠片もない顔で、よくもまあ言ったもんだなァ?」
「でも、奏、嫌いじゃないでしょう? タチ悪いの」
「まあ、な」
そっか、良かった。そう言って微笑むケイトを、無言で見つめる。
——自分を殺してくれる人。目の前に座る番人は、自らが『先生』と呼ぶ人物のことを、そう称した。
先ほどまでは『先生』と言う単語に怯えるような反応を示していたと言うのに、今度は一転、幸せそうに微笑んでいる——自分を殺してくれる人だと、語ってからは。
自分を殺す人から、「待て」という言葉を授かる。まずそこが分からない。そもそも何なんだ、殺してくれるって。ケイトお前、死にたいのか。
ぐちゃぐちゃに絡んで拗れそうな思考を整理しようと、奏はカップに手を伸ばす。冷め始めた紅茶を一口飲むと、強めの甘味が、舌と鼻から脳に届いた。
「『してはいけない』って言われてることって、あるだろ」
唐突な言葉に、咄嗟に反応することができなかった。無言の奏を気にせず発されたそれは、先ほどの幸福に満ちた声音から一転し、独り言つような抑揚のない声だった。
「『振り向いてはいけない』、『覗いてはいけない』、『開けてはいけない』。ああいうのってさ、何が先立つんだろうね」
「何、って」
「神話の中で『してはいけない』って戒められたことって、大抵破られるだろ」
「『見るなのタブー』か。イザナギとイザナミの黄泉での話とか、浦島太郎の玉手箱とか」
「そう。あとは、詩人オルフェウスの冥府下りとか」
「パンドラの箱も『開けてはいけない』ものだな」
「いっぱいあるよね」と呟くケイトの横顔は物憂げで、かける言葉は慎重に選ばなければならないと奏に思わせるものだった。
「『してはいけない』と禁じたものが破られるなら、何故それは『してはいけない』ものとして物語になるのかな。教訓だとかそれらしい理由をつけたって、自身がその場に居合わせるわけでもない。結局のところ、起こったことを後になって知ることしか出来ないっていうのに」
「……さてな。ただまあ、後になってからでしか知ることができないから、全てを分かった上で手を打てるのかも知れないぞ」
数多の神話や伝承から枝分かれしたifが集う世界、箱庭。この世界を上手く渡り歩くために、何よりも必要なのは、全てを圧倒するような強大な力では無い。
知識だ。箱庭に在るもの全てが持つ、主軸の世界——奏が知る真実とは異なる点、契約。それを見抜くためには、彼らそれぞれの物語に詳しくあることが求められる。
だから、奏はケイトの独り言のような呟きに対する答えをこう括った。彼ならば、きっと意味を汲んでくれるだろうと信じて。
——そういうところだろ、箱庭は。
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番外編とは? というレベルで長くなったので二話に分けて投稿します。
後編は明日あたりに投稿予定。




