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P.B.S  作者: 春秋夏冬
一章 魔王の試練
26/36

記録と観測 2

 

 ---


「聞いてない」


 窓も扉も締め切られた執務室の空気が大きく揺らいだ。リリノの隣にいたはずの男は、瞬きのうちに、メルヘンの首にあの細い針を突きつけていた。


「ケイトっ!」


 暗さをまとった背を見て取って、奏が怒鳴るように叫んだ。その声は、ケイトの耳には入らない。


「そんな世界があるなんて、聞いてない。だって、()()()は他に世界があるだなんて、一言も言わなかった」


 メルヘンが話したのは、花の元いた世界について。そしてその世界——鏡界と境界の関係。境界が表なら鏡界は裏。


「あの人……貴方の創造主(クリエイター)のことですか、ひょっとして」


 ケイトが目を見開いた。震える声でメルヘンに問いかける。


「あの人について、何か知ってるの」


「それを語る(すべ)を、私は持ち合わせていません。……いつか、語るときが来るのでしょうけれど」


「その『いつか』を、俺が待つと思う?」


「おや、『世界について』はもう良いんですか?」


「俺にとって、その二つは似たようなものだよ」


「だから、今答えて」そう言って、ケイトは針の先をメルヘンの首に当てた。少しでも力が加われば、研がれた針先は容易に皮膚を突き破るだろう。


「脅しが効くように見えます、私?」


「……ッ」


 ふ、と笑って、メルヘンは焚きつけるようにそう言った。ケイトが針を握る手に力が篭る。針先は皮膚を圧迫して、そして僅かにその奥へ沈んだ。浅いものだが、それでも痛みは走っただろう。けれど、メルヘンは顔色一つ変えず、挑発的で、けれど凪いだ笑みを浮かべている。


 今の自分が冷静さを欠いているのは、ケイト自身が一番よく理解していた。けれど、止められない。理性が制止を叫んでも、心がそれに刃向かうのだ。


(ずっと知りたかったことを、今、知ることができるかもしれない)


 一瞬でもそう思ってしまった、だからこの身体は、その心を優先して動いている。動いてしまっている。


 針を一度抜き、即座に再び突き刺そうとする。その手に一層の力が篭ろうとした、その時。奏の声が聞こえて、頭の中が真っ白になった。



 ---



 ——止めなければ、と花は思った。けれど、何を言えば良い。この状況を、自分の身に起きていることを理解している自分が何か言葉を発したとして、それに抑止となり得るだけの重みを持たせられるとは、到底思えない。


 ——さて、どうするべきか。感情が縺れた部屋をぐるりと見て、最終的にリリノが視線を向けたのは、サタンとケイトだった。


「小僧」


 その視線を受けて、サタンが奏を呼んだ。サタンの言いたいことを察して、奏が顔をしかめる。


「俺が、言うのか」


「貴様はアレの同胞だろう。ならば、俺より相応しい」


「私じゃ、あとで余計にケイトを悩ませると思うから……ごめん、ね」


 それは、平坦な声で紡がれた。


 ‎「חכה」


 執務室に声が響いた途端、大袈裟に思えるほどに、ケイトが身を震わせた。その震えは止まらなかった。


「……ぁ、先生……っ?」


 はくはくと息は乱れ、青褪めた顔は今にも泣き出しそうだった。


「……先生っ……でも、だけどっ……」


 虚ろな瞳はここでは無い何処か、ここにはいない誰かを写し、掠れた声が誰かを呼ぶ。指の震えは針にまで伝わった。針先は頼りなく彷徨い、けれど、ケイトがそれを手放すことは無かった。痛みで我を保とうとしているのか、寧ろ、一層強く握りしめられていた。


「ッおい、どうなってんだ。『()()を言ったら、止まるから。俺がどうしようもなく我を失ったら、どうか言って欲しい』って俺に言ってきたのはケイト本人だぞ。言ったのに止まらないって、どういう事だよ阿呆ケイト……!」


 顰めた声で怒鳴った奏に対し、サタンは憂い顔で、ケイトを無言のままに見つめた。


「……やむを得まい。恨むなよ、番人」


 がたりと音がした。サタンが椅子を引いたのだ。椅子から腰をあげる、その仕草で、羽織っていたローブが不安定に揺れた。


 揺れが収まる頃には、そこに幼子の姿は無く。


 すらりとした長身に、黒く艶めく髪が良く映える。目を惹く角は捻れて禍々しさを増していた。姿は変われど、爛々と煌めく対の紅玉を見れば、正体を推し量ることは容易いだろう。


 魔王サタン。本来の姿に戻った彼は、ローブをはためかせながら、執務机を発った。ケイトの横、そこに立ったサタンは、そのまま、がっとケイトの顎を掴んで、自分の方に顔を向けさせる。瞬く音が聞こえるほどに顔を近づけて、番人の思考を己で埋めさせる。


「……()を忘れたようだな。そんなに舟から降りたいか、なァ、ー--?」


 低く絡みつくような声でサタンが囁いた。低く小さな声は、最後は周りに聞こえないほどだった。脳に染み込むようなそれを受けて、ケイトはくしゃりと顔を歪ませた。顔を伏せ、しゃくり上げるような呼吸を数度繰り返す。


「……正気を取り戻したか、番人」


「……ごめん、本当に」


 大きな息をついて、ケイトが顔を上げた。


「奏たちも、ごめん」


「なあ、ケイト。お前、」


「日が暮れたな」


 奏の言葉を遮ったのは、サタンだった。その声につられて、各々が視線を窓へ向ける。その一瞬、サタンとケイトの視線が交わった。案じるようなサタンの視線を受けて、ケイトは苦く笑った。


「さて、童ども。まだ話すことがあるとは言うまい」


「話逸らしやがってこの野郎」と言いたげに、奏がサタンを睨む。それをしれっと無視して、サタンは嘆息した。


「率直に言うがな、そろそろ帰れ。俺は今日分の仕事をしなくてはならん。全く、まさか日が暮れるまで話が伸びるとは思っていなかった」


「ええ……。確かにぱっと思いつくことは聞いたけどさ」


 ね? とリリノが奏たちを見た。奏、花、そしてケイトが、一応は頷くのを確認する。


「だけど、サタンは良いの? 円卓次席的には、こう……あれこれ事情をふかーく聞いといたりとか、するものじゃない?」


「小僧の時に、俺がそんなことをしたか?」


「してないな」


「だろう。小僧自身が箱庭に来た経緯云々を理解してなかったというのもあるがな、何より……いつでも聞けるからだ」


 サタンに呼び出された時点で、奏はリリノとケイトとともにラピュタに住むと決めていた。箱庭にいる以上、いつでも呼び出し、聞くことができる。


「娘……いや、花、メルヘン。再会を果たしたところで、貴様らは、元の世界に戻るのか」


「それ、は」


 戻れるのなら、戻りたいと思っていた。あの森が愛おしい。あの小屋が恋しい。あそこで過ごした16年間は、幸せだけで形を成していた。


「マスターは、あの世界——鏡界に戻りたいですか?」


「……戻りたいと、思っていました」


 でも、今は。


「まだ、分からないことばかりだけど。話を聞くに、この本、いえ、この魔道書はきっと……何か、大きなことに関わっているんですよね。私は、何故か分からないけど。それを見届けたいと、そう思ってしまう」


 見届けなければならない。何故か、強く強く、そんな風に思ってしまうのだ。


「この世界に残りたいと言ったら、メルヘンを困らせてしまいますか?」


「いえ……いいえ、マイマスター」


 花の言葉を聞いたメルヘンは、目を見開いた。一瞬、視線は下を向く。けれど、それが再び上げられた時には、彼は微笑みを浮かべていた。


「それが、貴女の答えなら」


 ---


חכה(ハケ):ヘブライ語で「待て」。

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