記録と観測
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ころん、と机の上に、林檎が転がった。やや小ぶりのそれは、ころりころりと転がって、大ぶりの林檎にぶつかる。ごろん、ころん。大小二つの林檎は転がって転がって、机から落ちた。
大ぶりのものは先程メルヘンが呼び出したものである。では、小ぶりのものは。
「本当に呼び出せましたね……」
『実際にやってみましょうか、マスター』花をそう促したメルヘンは、本を主の手に握らせた。
「難しい事は考えなくていいんです。ただ、『白雪姫』の物語を、そこに登場する林檎を思い浮かべて、『来い』と命じれば良い」
魔女が化けた老婆が、森の中の姫に林檎を渡す。一見美味しそうなそれは、姫に死をもたらす、毒の果実。
——来て。
迷宮で死を間近に感じたあの時と同じように、願った。ぐ、と目を瞑って、それだけを考える。ころん、と音が聞こえたときに感じたのは、『出来た』という安堵と、自分が為したことが現実だと信じきれない困惑。
「お見事です、マイマスター」
けれど、その困惑は、ふわと笑みを浮かべたメルヘンを見たことで解けていった。
ごろん、ころん。
思考は、縺れて絡まり合って、解けない。
床に落ちた二つの林檎は転がり続けて、そして止まった。足元にやってきたそれを、ケイトはぼんやりと眺めた。
リリノが憂い顔で自分を見ているのが分かる。また心配させてしまった。いつかの約束をまた、破ってしまった。何か言葉を。安堵を与えられるような言葉を、口にしなくては。そう思うのに、何も頭に浮かばない。
少女が林檎を呼び出しているのを、何処か遠い世界のように見ていた。ああ、この感覚は、苦手だ。
メルヘンの語った言葉が、受け入れられなかった。
(……違う。受け止めきれないんだ、俺は)
「……並行世界の観測は、境界……俺の、お役目なんだけど。“記録”と“観測”に、何か違いはあるのかな」
その二つに違いを見出せ無い。だから、受け止めきれない。
「ありますよ」
はた、と瞬いた。
「“記録”と“観測”——その違いは明白です。少なくとも、境界においては」
「……、」
「境界では、“観測”は“記録”に等しく、“記録”は“観測”と等しく無い。境界にとって、“記録”は“箱庭”と等しいものですから」
「それなら、“記録”の詰まった魔道書は……境界にとって“箱庭”と等しいと言えるわけだ」
並行世界を記録する“魔道書”。並行世界を観測する“境界”。観測された並行世界の残滓が訪れる“箱庭”。魔道書に記されている“記録”とは即ち並行世界の残滓である。
ケイトの言葉を、メルヘンは否定しなかった。薄い笑みを浮かべるだけだ。
「……境界について、詳しいみたいだね。お前の花ちゃんは、境界も箱庭も知らないようだったけれど、お前は、随分と詳しい」
メルヘンとケイトの会話を、執務室にいる全員が、耳を澄ませて聞いていた。先程までの感情を剥き出しにした……少なくともケイトは苛立ちを前面に出していた、そんな荊いばらのような遣り取りとは、まるで正反対。静かで凪いだ、感情の起伏を見せない平坦な遣り取り。けれどそれは蔦のように、聞くものの耳と脳、そして心に絡みつく。
「ああ、そうか。貴方が一番聞きたいのは、『世界について』でしたね」
——あの森は、良いところでした。隔絶された場所に、変化は起こり得ません。ですから、ええ。あの森はひたすらに、良いところでした。
空に彷徨わせた視線は、遠い森を瞳に写そうとしているようだった。
「私とメルヘンがいた、あの森がある世界は、境界から観測出来なかったそうです」
「それは違いますよ、マスター」
あの世界がどうなったのか、もしもそれを知っているなら、どうか教えてほしい。そう請おうと紡ぎ出した言葉は、当のメルヘンによって遮られた。
「『観測出来ない』のでは無く、『観測しない』んです。付け加えるなら、あの森が、あの世界の全てです」
「それ、は……」
『森の外に出てはいけない』のでは無く、『森の外』自体が存在しない、『森の外には出られない』のだと、メルヘンは言った。
「待って……待ってくれ」
ケイトが呻いた。
「境界が観測出来ない世界なんて、あるわけがない。主軸の世界も、並行世界も、箱庭も。全部観測して、……ッ」
そこまで言って、ケイトは息を呑んだ。
「……境界か」
低い声が響く。サタンは忌々しげに答えを口にする。ベルゼブブが、細く白い指を口元に当てて呟いた。
「あらゆる世界を観測する境界は、けれど自身そのもの、境界を観測しない。——成る程、確かに盲点でしたねぇ……?」
「でも、境界にそんな場所があったとして、ケイトが気づかないなんてこと、ある?」
「あの世界に存在するのは森だけ、と言ったでしょう。境界の裏側、鏡合わせ。反転にして同一の世界。“鏡界”とでも呼びましょうか、そこが、マスターの故郷です」
「観測されなかっただけで、あの森は、あの小屋は、今この瞬間もきちんと存在しています」と、気がかりだった元の世界のことを聞かされても、安堵は出来そうになかった。心が騒めいて落ち着かないのを、花は確かに感じていた。
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——そんな世界があるなんて、聞いていない。
あらゆる世界を観測するのが境界と自分の“お役目”なのだと、そう聞かされた。一人で境界に残されてから、必死に励んだのだ。
ケイトにとって、それだけが自分の存在意義で、存在価値だった。
痛くて苦しいのも、怖くて仕方なかったのも、全部全部我慢した。
“先生”に拾われて、それから変わって、だけど、本当のところは変わらなくて。
ずっと、ずっと、お役目を果たしてきた。
だって俺は、お役目の為に造られたのだ。
——そんな世界があるなんて、聞いていない。
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