一方、魔王の執務室では
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--ぞくり、肌が泡立つのを感じた。何かが来ると直感した。
壁に映し出された迷宮の映像。時折揺らぐそれの中で、少女がへたり込んでいた。悪魔が再び少女......花に狙いを定めるように、腕を構える。このままでは花の命が危うい。
リリノは顔を青くしてサタンに悪魔を止めるように訴え、ケイトは腰掛けていたソファを蹴るようにして立ち上がった。サタンの迷宮への空間転移を試みているのだろうな、と分かったのは、箱庭を訪れて以来の付き合いのお陰だろうか。リリノもケイトも、花が自分で「受ける」と決めた試練を邪魔することの無粋さを理解して、行動している。サタンにもそれは伝わっているだろうが、あの魔王が「邪魔立ては許さん」と一度口にしたのだ、迷宮の中へ干渉することは不可能だろう。少なくとも、サタン自身が干渉することはない。
そうは言っても、このまま放って置くわけにはいかない。それは分かっている。一刻を争う、いや、刹那の遅れも許されない状況だろうに、奏は放り出された本から目を反らせなかった。
--来る。
根拠は無い、ただの勘だ。けれど、何故か。来ると確信したのだ。何が来るか。それすらも分からないのに、大丈夫だと、奏は思った。
執務机の奥の魔王に、一瞬だけ視線を走らせる。すぐに映像へと視線を戻したが、魔王を見て、確信は一層深まった。
爛々と、いっそ燃えてしまいそうなほどに対の紅玉が煌めいているのを見れば、魔王もまた、『何かが来る』と予感していることを知るのは容易かった。
果たして。
悪魔の腕が花へと迫った、その刹那。真白の光は、空間を超え、執務室すらも満たした。目を細め、光が引くのを待つ。少しずつ、光は引いていった。これか、と予感した「何か」の正体を見ようとする。
そして、執務室にいたものは皆、呆気にとられた。奏やリリノ、ケイトはもちろん、サタンやベルゼブブでさえも、我が目を疑ったのだ。
悪魔を下敷きにし、花の前に現れたそれはどう見ても。
「......お菓子の、家、だね?」
「いや、でも、これ......家は『ヘンゼルとグレーテル』のそれだけどさぁ......」
「シチュエーションでいうと、『オズの魔法使い』......っぽい、な?」
ケイト、リリノ、奏がそれぞれの所見を述べる。全員の内心を纏めるなら「どういうことだよ」が最も適切だろうが、それぞれがなんとか違う言葉を絞り出した結果がこれであった。
迷宮の中に突如現れたのは、どう見ても“お菓子の家”だ。だが、どちらかというとこのシチュエーションは、“家が悪を下敷きにする”これは、“オズの魔法使い”に近いものがある、気がした。状況を飲み込めない混乱からか、脱力したようにケイトがソファに身を沈めた。
そして事は、お菓子の家が現れただけでは収まらなかった。いや、唐突に家が現れて、それを置き去りにされても、それはそれで困るのだが。
「......っ!」
息を呑んだのは誰だったのか。面白そうに、薄らと笑みを浮かべている悪魔たちでは無いだろうが、奏であったのか、リリノであったのか、ケイトであったのかは、判らない。
“お菓子の家”の扉が、ゆっくりと、内側から開かれる。
『......探しましたよ。やっと、召喚して下さいましたね』
声の主は、かっちりとした印象を与える黒い服を身に纏っていた。そして、その手には、一冊の開かれた本がある。
『マスター』
扉を開いた男の姿を見て、声を聞いて、花が驚愕したように、けれど、嬉しそうに目を見開く。それを見て、執務室にいる誰もが理解した。
この男が、“メルヘン”だ、と。
それを悟って、厳しい顔をするものもいれば、面白そうな顔をするものもいた。奏は、ふと、何かに惹かれたかのように、向かいにあるソファへ視線を流した。そこにいるのはもちろん、リリノとケイトだ。
リリノは困惑したように、映像を見つめている。気持ちは分かる、色々と唐突過ぎるこの状況、訳がわからないのは奏も同じだ。
一方、ケイトは俯いていた。少し長めの前髪が顔を隠し、その表情は読み取れない。
けれど、膝の上に乗せられた拳が、ケイトの感情を何よりも表していた。爪が食い込んで、血が出てしまいそうな、その一歩手前といった強さで固く握り締められた拳は、微かに震えているように見える。血が流れるほどに力を込めていないのは、精一杯の自制だろうか。
(これは一波乱、起きるかも、だな?)
そう思いながら、リリノにもケイトにも悟られないように、奏は、そっと視線を揺らぐ映像へ戻した。
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