初演 2
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“攻め手”。影。悪魔。自分と同等程度には強かった、迷宮の怪物。アレと対峙し、そして倒した。そう、倒したのだ。
【二年前】
光苔の生えたあの場所は、狭くてどうにも動きにくい。だから、移動した。自分が動けば、命を狙ってきた悪魔も追ってくるだろうと踏んでの事だったし、実際そうなった。 手燭に宿った炎の揺らめきを頼りに迷宮を走り、そうして元の場所まで戻って来た時は、何ともはや愕然としたものだ。
そうして、状況は思ったより面倒らしいと把握し、改めて悪魔たちと向き直った。迷宮を駆けながら、現状分かっている事から大体の考察をすませておいたのが功を奏したか、そこまで慌てなくて済んだのがせめてもの幸い。迷宮を訪れる前に聞いた、三千年前の大戦やら並行世界やらの話を元に組み立てた、キリスト教会の迷宮云々の考察が合っているとすれば、目の前の相手は迷宮のサタンの配下ということになるのだが。
(さて、どうするか......。相手が悪魔って事なら、悪魔祓いの真似事でもしてようかと思ってたんだがな)
手燭を手に入れる時に、魔王から聞いた言葉によれば、迷宮では望めば大概のものは手に入れられるという。かつて本で見た悪魔祓いの真似でもして、それで駄目なら殴るなり何なりで悪魔たちを倒して、迷宮から出ようかと思っていたのだが、流石にそこまで甘くはなかったようだ。
(そもそも、さっきの...悪魔の欠片みたいなのが俺の中に吸い込まれたのは何だったんだ?)
実のところ、奏自身、先程のアレが何だったのかはよく分かっていなかった。悪魔たちの前では、余裕たっぷりに振舞って見せたが、正直なところ、奏も困惑していたのだ。身体をなぞってみせたのも、体内を動いていく何かを自分ではっきりと理解するためだったし、もう一つ理由を加えるならば、何となくその方が悪魔たちに余裕と圧を見せつけられるかと思ってのものだった。細かいところに気を配るようでいて案外大雑把なのが、この男の生来の気質なのである。
まあ、特に身体的にも精神的にも不都合はないので今は置いておくと決めた。念のため、もう一度悪魔と戦う際には素手で殴るのは止めておこうとだけ胸に刻む。それよりも急を要するのは、目の前の悪魔の相手だろう。複数いたようにも思えた悪魔は、いつのまにか一つに纏まっていた。巨大な暗闇、影のような悪魔が手燭の炎に照らされている。迷宮からの脱出方法は未だ思いつかず、悪魔への対処法も明確には思いついていない。
走り出して以降、悪魔たちが会話をすることはなかった。思念での会話は、どういう理屈か互いにわからないものの、奏に筒抜けであると知ったからか、他に意思伝達の手段を持っていて、そちらを使っているのかまでは奏には分からない。先程仲間が握り潰されたことを警戒してか、悪魔たちがこちらの動向を窺っている今のうちに、この後どう動くかを決めなければならない。
(迷宮ねぇ......。出口が無い件は置いておいて、目の前の悪魔を倒すってだけなら、悪魔祓いとは別方向で攻めてみるのもありか?)
もしかしたら、それで迷宮に出口が出来る、もしくは迷宮そのものを崩壊させることができるかもしれない。
(この迷宮が俺の考察通り、“迷宮のサタン”の力を利用して作られたものなら、恐らくここでは“概念”が重視されるはずだ)
並行世界のサタンは、迷宮という概念に縛られてこの箱庭に訪れたのでは無いか。ならば、そのサタンの力を持って生み出されたこの場所では、“概念”こそが何よりの力を持つだろう。何たって、この迷宮そのものが、“サタンの迷宮”という概念なのだから。
--それなら、“サタンの迷宮”という概念そのものを壊して仕舞えば良い。
概念という言葉を言い換えるならば、『物事の定義、認識を大まかに言葉で表したもの』である。“とある並行世界のサタンの力で成り立った迷宮”というのがこの場所についての奏や悪魔たちの認識であるなら、それを塗り替えて仕舞えばいいのだ。『物事に対して抱く共通した大まかな認識』が概念であるなら、『共通した認識』を消して仕舞えばいい。
そして、新たな認識を埋め込む。
“とある並行世界のサタンの力で成り立った迷宮”。この中で一番強く認識されているのは“迷宮”だ。奏、サタン、悪魔たち。全員がここを迷宮だと認識している。それを塗り替えるのは困難だろう。だから、狙うならそれ以外だ。この迷宮を、“並行世界のサタン”の力によるもので無く別のものに塗り替える。
別のもの。何に塗り替えるか。
(迷宮、そして目の前には異形の怪物。御誂え向きの神話があるんだ、利用しない手はないってもんだろ)
恐らく、最も有名な迷宮。クレタ島、クノッソスの迷宮の伝説。ミノス王の妻パーシパエーの子、牛の頭をした異形の子はアステリオスと名付けられるが、その名で呼ばれることは殆ど無かったという。ミノタウロスと呼ばれる事になった彼は、王命により造られた迷宮へ閉じ込められる。そして、生贄に捧げられた少年少女のうちの一人、英雄テセウスの手で悲劇の生涯を終えるのだ。
テセウスがミノタウロスを打ち倒すのに用いたのは短剣だったと言われている。後に妻となるアリアドネに、糸とともに授けられたものだ。今短剣は手元に無いが、幸いなるかな、望みさえすれば魔王様が与えてくれるだろう。
“サタンの迷宮”から“ミノタウロスの迷宮”へ、この場所についての認識を塗り替える。“サタンの迷宮”にいる異形が悪魔だとするなら、“ミノタウロスの迷宮”にいる異形は、短剣で命を落とした怪牛で無ければならない。悪魔に、迷宮に棲む異形に、クノッソスの怪物という概念を与える。迷宮の怪物は短剣で命を落としたのだから、この迷宮の異形の死因も同じで無くてはならず、また同じことが行われるべきなのだ。
認識を変える方法なんて知らない。自分の中の認識を変えるだけなら、強く念じれば何とかなるかもしれないが、サタンと悪魔の認識まで変えなければならない。一瞬で良い。“サタンの迷宮”という認識を、概念を曖昧にさせ、そこに“ミノタウロスの迷宮”を刷り込む。一瞬でもそれが出来たら、こちらのものだ。
......そもそも“迷宮のサタン”の考察があっている確証すらない。けれど、思いついたことを試さなくては何も始まらないだろう 。
(......さて、と。んじゃまあ、やってみますか)
いつでも動き出せるように軽く引いた足が、迷宮の床を鳴らす。奏の動きを見た悪魔が、警戒するように騒めいた。
(短剣を)
まだ、声は出さない。この後最大限に意識を引きつけるには、まだ声を出してはならない。武器を求めて心で念じれば、右手の中にひやりとした重みが生まれた。
--ああ、これが要だ。この重みこそが、迷宮の怪物を倒す鍵なのだ。
望み通りのものを与えてくれたサタンはもちろん、悪魔の関心も大きくこちらに向いているだろう。今だな、と思った。この手に握られた煌めきを見て、悪魔は何を思ったのか。それを知ることはないだろうと思いながら、奏は口を開く。
「......サタン。この迷宮の正体は、“ミノタウロスの迷宮”だろう?」
余裕たっぷりに、愚かにも自信に満ちた態度で誤った解答を口にしてみせる。
「ふ、」
奏と悪魔しか存在していなかった迷宮に、サタンの笑い声が響き出す、その刹那。ぐんにゃりと、奏の正面にいた悪魔が形を変えた。
『--これ、は』
悪魔の言葉、思念が最後まで紡がれることは無かった。奏の目の前にいるのは、牛頭の異形。誤答だとしても、意識を引きつけられればそれで良いのだ。奏、サタン、悪魔。全員の脳裏に、“ミノタウロスの迷宮”という概念を認識させる。
“サタンの迷宮”の認識より“ミノタウロスの迷宮”の認識が勝った今この時だけは。
「こここそが、“ラビリンス”ってわけだ」
牛頭の異形、ミノタウロス。怪物へと姿を変えた巨大な闇を切り裂いたのは、白銀の短剣だった。
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