再演、あるいは
舞台は迷宮。
再演の幕は上がった。
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石造りの迷宮に、一つの足音だけが響いていた。手燭を翳しながら迷宮を歩む。手燭を持っていない、花のもう片方の手からは、するすると白い糸が滑り落ちていた。
(“迷宮”と言われて真っ先に思いつくのは、クレタ島のクノッソス迷宮......。テセウスが迷宮の怪物ミノタウロスを倒し脱出する際に手掛かりとなったのが、行きの道すがらに落としてきた糸だったはず)
テセウスは後に妻となるアリアドネの助言を受け、迷宮の入り口に糸を縛り付け糸を垂らしながら迷宮を歩んだ。
ここは魔王サタンの迷宮。クノッソス迷宮とは何ら関係無いのは分かっているが、ちゃんと迷宮から抜け出せるように、願掛けのつもりで糸を垂らしながら歩いていた。この糸も、“欲しい”と念じたら与えられたものだ。歩き出した直後に思いついて、近くに落ちていた石に巻きつけ重りにしておいた。
(そもそも迷宮は、迷路と違って分岐が存在しないことが特徴なので、糸に意味は無いんですけど......それにしても、本当に何もありませんね?)
何も無いし、何も起きない。体感ではもう三十分ほど歩いたような気がする。時折通路の広さが変わったり、心なしかゆったりと曲がった道を歩いていたりはするけれど、サタンの言ったような“攻め手”と思しきものに襲われることもなく、ただただ薄暗い中を歩いていた。
(奏さんも、この迷宮に挑んだんですよね。どうやって脱出したんでしょう......?)
変化が無ければ、どうしたって気は緩んでしまう。それはいけない、と状況と情報を整理することで、意識を集中させる。
まず考えなければならないのは、脱出方法だ。花は例としてクノッソス迷宮図を思い出す。迷宮は基本的に一本道なのだから、進む先は出口か最奥の二択であるはず。出口ならそのまま出れば良いし、最奥の行き止まりなら引き返して出口まで歩めば、必ず脱出することは出来る。
だが、そんなに単純なものだろうか。歩き続けていれば必ず出られる、魔王の試練がそれだけで済むだろうか。“攻め手”が何かだって、まだ分からないのだ。考えながら足を動かしていると、少し先に薄明かりが見えた。
(罠、でしょうか。はっきりと目で分かるほどの光は、迷宮内だと手燭と光苔くらいしか見ていませんし......)
深く暗い海に、灯りを餌にして獲物を誘き寄せる魚がいると読んだことがある。その魚と似たような罠かも知れない。ゆっくりと、音を立てないように近寄る。灯りは少しずつはっきりと見えるように変化していく。金緑の光は、見覚えのあるものだった。
「光苔......!」
苔が照らす道の奥には、見覚えのある石があった。石に巻きつけられた白い糸は、確かに自分が巻いたものだ。迷宮を歩き続けていたら元の場所に戻ってきていた、ということらしい。
(入り口も出口も存在しない......?今まで歩いて来た通路に隠し扉のようなものがあったんでしょうか。でも、それがあると迷宮の定義からずれてしまう可能性が......)
考えを巡らせるうちに、サタンの言葉を思い出した。
『道とは繋がっているものだ』
『更に言うならば、この迷宮には方角や方向という概念は存在しない』
これらの言葉も、魔王からの助言だったのだろうか。道とは繋がっているもの、歩き続けていれば元の場所に戻る。方角や方向という概念は存在しない、そもそもこの迷宮には前も後ろも無い。花が歩き出す時、“前”を選ぼうが“後ろ”を選ぼうが、いずれ同じ場所に戻るのだから。
「これは......確かに難しい問題です」
成る程、これは確かに“試練”だ。自分はこれから、入り口も出口も存在しない迷宮から脱出しなければならないらしい。
「でも、決して不可能なことでは無いんでしょうね?」
奏はこの迷宮から抜け出てみせたのだから、攻略法自体は存在するのだ。それを見つけ出せば、きっと自分もこの迷宮から抜け出せる。それにしても、とサタンの言葉を思い出す。迷宮を歩いている間、ずっと気になっていた言葉だ。
(入り口も出口もない迷宮......これがサタンさんの言っていた“攻め手”?)
しゃがみ込み、手元の糸を石に巻きつける。ひとまず一周した証を残しておき、残りの糸はまだ手元に置いておく。迷宮の道の先で白い糸は闇に溶け、この場所からではその足取りは追いきれない。
(この糸はアリアドネの糸みたいに、それから、そう。ヘンゼルの白い小石みたいに、道しるべになってくれるでしょうか)
それとも、パンのかけらのように、しるべの役割を果たせずに消えてしまうのか。
脱出方法を考えようとしても、糸口を見つけられない。というか、何が糸口になりうるのか分からない。悩んだ果てに花が頼るのは、やはり一つだった。今まで読んできた本の記述を思い出していく。サタンについて、迷宮について。光苔の灯りを横に、手燭の揺らめきを手元に、石壁に背を預けながら考え、思い出す。
サタン。神々の敵対者にして、人間の敵対者とされる地獄の長。かつては天使たちの長であったとも言われる、世界そのものへの敵対者。イスラムではシャイタンと呼ばれる悪魔は、様々な宗教に名を残した。イスラム教、ユダヤ教、そしてもちろんキリスト教。
(キリスト教......?)
そこが妙に頭に残った。何故だろう。だってサタンは聖書に登場する悪魔だ。キリスト教に関連しているのは当然のことで、そこに引っかかりを覚えるのは不思議なことであるはずなのだ。
違和感を抱えたまま、もう一度サタンの言葉を思い出す。今まで思い出した彼の言葉には状況を打開する鍵が隠されていた。この違和感を解決するための鍵をそこに求める。
迷宮に送られてからの会話、否。ベルゼブブが持ってきた茶と菓子を前にしながらの会話、否。違う、そこに鍵はない。もっと前の会話に、鍵があったのでは。
--まだ迷宮の試練を受けることすら決まっていなかった時の会話。 全てを見通すような魔王の双眸、対の紅玉が一際輝いたのは、いつだった?
ゲヘナのサタン。同一体殺しの魔王サタン。
「......あ」
目の前がパッと開けたかのようだった。そうか、きっとそういうことだ。この考察なら、この迷宮に入り口も出口も無い理由にもなる。無意識のうちに、微かな声が漏れた。
それとほぼ同時。白い糸が導く迷宮の道の先で、“闇”がぐにゃりと形を変えた。
答えへの確かな糸口、それを裏付けることに頭がいっぱいになっていた花の背が唐突に泡立った。悪寒を感じ、反射的にその場から離れる。直感に体が付いて行かず、半ば転ぶように逃げ出したその瞬間、迷宮の壁の今まで背にしていた部分が辺りを巻き込んで爆音と共に弾け飛んだ。
爆音が迷宮内に反響するのを聞きながら思わず花は絶句する。目の前で闇が蠢き、形を変えるのを見届けながら、その場に立ちすくむ。闇は影へと変わり、明確な形をとった。その姿は正しく醜悪な悪魔。それを見て、花は理解した。これが“攻め手”だ。そしてこの“攻め手”は、先ほど思いついた“答え”の裏付けになってくれるだろう。
だが、その前に。影......悪魔が一歩、足を踏み出す。答えについて考える時間は与えてもらえないらしい。明確な殺意を感じて、ここに立ち止まっていてはいけないと感じて、影に背を向けて花はその場から逃げ出した。
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