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P.B.S  作者: 春秋夏冬
一章 魔王の試練
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初演

 ---



【二年前.初演】



 --暗く冷え切った石造りの通路に、不意に男が現れた。光苔が放つ金緑の光を正面に立つ彼を、背後から闇が見つめていた。闇は、男が光を遮ることで影となって姿を得る。けれど、姿を得ても影は影。微かに揺らめく光に翻弄される、儚い存在だ。


 本来なら生命の影すら一切見受けられない場所に現れた男。纏った上衣の袖口は少し捲り上げられており、健康的な肌色が覗いた。


「---」


にい、と笑みを浮かべ、男が何かを呟く。さらりと吐かれたその言葉は短く、影には上手く聞き取れなかった。男の呟きの直後、ゆらりと橙と赤、それに金の混ざったような熱が迷宮内に現れた。男の手に収まったそれは、よくよく見ると手燭、その炎で、影は先程男の口にしたのは、それに類するような言葉だったのでは無いかと推察する。


『生者だ』


迷宮に潜む影たちが、ざわざわと人には聞こえない声で、歓喜を謳った。


 その男は、ちょうど少年と青年の狭間を生きていた。鋭い瞳は垢抜けない幼さを、一切の油断のない立ち姿は境地に達した仙人のような落ち着きをも感じさせる、不思議な男。彼はただ通路だけが存在する、異様とも言える空間を落ち着いた様子で見回した。微かな音すら立てずに、周囲の気配を探っていた。


 --また、来たのか。


 --だがアレは、我らとは違い、人だぞ。


 --魔王め、今度は人を喰らいおったか。


『嗚呼、憎らしい。魔王め、魔王め。同類でありながら、我らを嘲笑い愚弄し喰らい尽くし、迷宮へ閉じ込めた。嗚呼、憎らしい悪魔め』


 怨嗟と忿怒、少しばかりの嘆きの篭った恨み言。影によって永劫繰り返されてきたそれを聞くのも、また影だ。ふと何かに気がついたかのように、男が闇の方を振り向いた。


 --まさか、我らに気付いているのか?


 --有り得ない。あの男は人だろう。


 影たちの議論は一層活発になる。ざわりざわりと空気が揺らぐ。けれど、何も問題は無い。アレに我らの声は聞こえていない。だってアレは人なのだ。人は我らの糧だ。糧となる弱者が、己を喰らう強者と同等であることは決して無い。あの男は弱者で、我らこそが強者。なればこそ、アレに我らの声は届かない。


 --アレは人だ。アレは糧だ。


 --そうだ、糧だ。喰ってしまおう。


 --ああ、懐かしい、生者の肉だ。


 --生き血を啜るのはいつ以来か。


 --魂だ。甘く、苦く、蕩けるような......魂だ。


 男は何も言わずに、闇を見つめている。『愚かな』と、ある影が嘲笑った。『既に我らは闇にあらず』『貴様の存在により、影として形を得たのだ』影はざわめく。嘲笑う。死角から襲いかかる事など容易く、男が影の糧となる事は確定している。


 ある影がそっと、男の心臓に手を伸ばした。影にきちんとした腕など存在しない。どろりでろりと腕は揺らめく。ゆらりふわりと腕は蠢く。するすると伸びる異形の腕は、あと僅かで男の服を掠めるだろう。そのまま身体を貫いて、紅に染まった心臓を取り出す。簡単な事、男を喰らう事に対しての影の総意だった。


 刹那のうちに、橙の光が揺らいだ。


 否、揺らいだのは影だ。男は瞬きのうちに身を翻し、影の腕を掴み取った。男の袖口から覗く肌色が、力を込められて僅かに色を変える。もう片方の手に握られた手燭の炎が、揺らめく橙を辺りに撒いていた。


 影は何が起こったのかも分からず、掴まれた己の腕の最期を見届けることになった。影を捕らえた男の右腕の筋が動き、刹那のずれもないうちに影の腕は握り潰された。


 いや、握り潰されただけではなかった。音も無く弾けた腕の残骸は、即座に男の右腕へと舞い戻り、その腕の中に()()()()()()ようにして消えた。黒い淀みのような、痣のようなそれは、心臓へと戻る血液の流れに乗るように、男の腕を上っていく。袖が捲られているのは肘の下まで。その先の淀みの旅路は外からでは伺えない。けれど、男の左手の人差し指がすうっと右肘から肩、肩から心臓への道を辿ってみせたものだから、影たちは淀みが何処へ辿り着いたのかを知った。


 影を、淀みを、体内の核である心臓に取り込んでなお平然と立っている男に、影たちは酷く動揺した。『何故死なない。何故我等の欠片を体内に取り込んで、あの男は今も生きている』影たちは疑問を共有し、それを解析しようとして、けれどそれは叶わなかった。


 --何故、アレは至極楽しげな笑みを浮かべている?


 影たちは何が起こるのか、ただ恐れて男の一挙一動を注視する。


「へえ、影にも実体はあるんだな?」


 腕を失った影が耳障りな悲鳴をあげる中、男はようやく口を開いた。


「お前らがサタンの言ってた“攻め手”だろ。っはは、お前らの“内緒話”、全部聞こえてたぜ。随分と好き勝手に言ってくれてたなァ。誰が“糧”だって?」


「あとお前、煩い」悲鳴を上げ続ける影に、再び男の拳が迫る。『彼奴との繋がりを断ち切れ』と咄嗟に別の影が判断する。一つの闇から生まれた影たちの間にある繋がり。人で例えるなら、母と胎児を繋ぐ臍の緒のようなものだろうか。拳が直撃する寸前、影と影たちの繋がりは絶たれた。『何故』と他の影に問いかける間も与えられず、腕を失った影は、他の一切も男に砕かれた。砕かれて出来た影の欠片は、また男の心臓への道を辿ったようだった。


 --何故、何故人が、我らの思念へと介入出来る......?


「俺が知りたいくらいだな。そもそもお前らが何なのかだって、俺は知らないんだ」


「俺が知ってるのは、そうだな」影に囲まれながらも、男は落ち着き払った様を崩すことなく言葉を続ける。


「ここが“迷宮”であること。『迷宮を踏破せよ』ってのが魔王様......サタンからの試練であること。まあ、踏破ってのが言葉通りの意味かは、正直疑ってるが。そして、お前たちがどうやらサタンの言う“攻め手”であるらしいと言うこと」


 男の笑みは一層深くなり、それと同時に彼の纏う空気が変わっていくのを影は感じた。


「お前たちは俺に対して敵意、少なくとも害意を抱いているんだろう? 何たって殺そうとしたんだしなァ? なら、俺とお前たちがやることは一つだ」


 これは、男の纏うこれは、殺気では無い。敵意でも無く、害意でも無い。好奇心か、はたまた愉悦か。何て、何て楽しそうな笑みを浮かべているのだろう。男の笑みは、とある影の中に小さな羨望を生じさせた。


「俺は魔王様の試練を受けた。だから、この迷宮を踏破しなけりゃならん。と言うか個人的にも面白そうなんで踏破したい。だがお前たちは俺を殺そうとし、俺の行動の邪魔をする。互いの意志は相容れず、そして穏便に対話で解決する気なんか無い。いきなり襲われた俺には当然無いし、そっちだってそんな気があったら、いきなり襲っては来ないもんな」


 だから、戦うしか無いよなァ。


 炎の光を受けて爛々と輝く瞳に、いっそ狂気すら感じてしまうような愉悦を浮かばせて、男は、そう言って笑った。


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