(2)
理解してもらいたいことは、一つだけである。
さすがに血を口にするのは、ちょっと勇気がいると思うっていうこと。
口の中切ったことあるから、知っているのだ。あの、何とも言えない味。
あれを滲んだ程度ではなく、コップ一杯というと、中々だと思うわけです。少なくとも、心の準備が必要だと思う。
そんな理由を抱えて、ただ今抵抗中。
「ちょっとだけ待って欲しいんですが」
「もう三日待っただろ」
訳あって、ソファの背の後ろに隠れている私は、そろそろと顔上半分を覗かせている状態だった。
見る先には、レイジさんが向こう側――つまりはソファの前に立って、遥か上から私を見下ろしている。
「いい加減飲め」
レイジさんの手には、お酒が入ってそうな瓶があった。けれど、別にお酒が入ってるわけではない。
レイジさん宅には、どうも本当にお酒が入ってる瓶と並べて、血が、お酒が入るような瓶に入れられ保存されているのだ。
ゆえに、彼が現在持っているのは、血の方。
そして、私たちの間に転がっている問題は、一つ。……と、いうより、私の問題か。
血を、飲まなければならないという話。
しかしながら、だ。いざ実物を前にしてみると、中々思うようにはいかないというお話でもある。
「も、もうしばし……」
「暫しって」
何度かのやり取りを経て、本日の最終的な形が今の状況だ。
ソファの後ろにしゃがみこんで、向こう側のレイジさんを見上げて、未だ往生際悪くしているのだけれど、私とてこれでもレイジさんが言いたいことは分かっている。
だけど。
普段食事をするスペースだったりする方の机に置かれているグラスをちらりと見て、注がれている液体を今一度認識。
目を戻す。
もちろん変わらずレイジさんがいるわけで、赤い瞳と見つめ合うこと十数秒。
互いに動きを止めていること十数秒。
音が失せていた部屋に、はぁと息が吐かれる音が、耳を澄ませなくとも耳に届いた。ため息だ。
「あのなぁハル」
「は、はい!」
怒った? さすがに怒ったかなレイジさん。
動きはじめ、酒瓶を見せることを止めて、腕を組んだ彼が声を発した。
私は思わず、背筋を伸ばして返事した。
「俺だって、本当なら無理に飲ませたいってわけじゃねぇ」
彼は怒ったわけではなかったらしい。
その代わりに、諭すように話しはじめる。でもな、と。
「吸血鬼にとって血は生命線だ。簡単には死なねぇが、人間が食わなきゃ死ぬのとほぼ同じなんだよ」
『吸血鬼』――その名は全てを示している。
血を吸う種族。
血を摂取する行為は、人間の食事とほぼ同等。
血を身に入れなければならない。血が生命力になるのだ。食事を摂らないということでもないが、本質は血でしか賄えない。
身に吸血鬼が混じったと私も、例外なく、その原則に当てはまることになる。
「長いこと飲まないでいると吸血衝動が起こる可能性だってある。お前の場合、吸血鬼になって間もないから、ろくに飲んでないってことにもなってる。どのくらいで起こるか、俺には分からねぇ」
飲まなければならないことは、どことなく分かっていたけれど、そんなことが起こるとは。
単に体力が落ちるとか、まさに人間が食事を摂らなかった場合を想像していた私は、目を見張る。
だから、レイジさんはここまで言っていたのか。日にちが経ってきたから、なおさらに。
一気に、申し訳なさが倍増してくる。
「……うん」
「これから定期的に飲むことになるんだ。問題はどうせ最初だけなんだから、早めにいっとけ」
もう一回「うん」──とは、続けられなかった。
返事がされなかったことによって、眉を上げられた。返事はどうした、みたいに。
私は必死に弁解しようと口を開く。あれを聞いたら飲む。飲みますけど。
「いや本当に必要性は分かってますし、予想もしてましたし、そういう面では準備ができてるんですけどね。でも、目の前にするとやっぱり意外とインパクトあるっていうか、今までの経験が邪魔するというか、レイジさんの言ってることはよく分かってるんですよ! え、えぇと……せめてあと、五分!」
レイジさんが飲んでいるのを眺めてても何とも思わなかったけれど、自分がするとなれば話は別なので。そうなので。
両手を突き出してアピールする。最終宣言だ、とばかりに。
後から思うと、これ、昨日も言った気がするから、かなり説得力がなかったと思う。
「……ああ分かった」
しばらくの沈黙の後、見守る先のひとがそう言ってくれて、ほっとした。……が、つかの間。
突然、レイジさんが手にしている酒瓶から直接血を口に含み、瓶は無造作にテーブルに置かれる。
え? と、私がレイジさんの行動に呆けている間に、彼はソファに乗り上げ、その姿がぐっと近づいた。
「え」
間髪入れずに長い腕が伸びてきて、反射的に避ける暇があるはずなく――避けようなんて思わなかったけどそれはそうとして――二の腕を捕まえられた。
問答無用で手を引かれて、レイジさんがすぐそこに迫る中、頭の後ろにも手が回ったと分かった。頭が引き寄せられたから。
次の瞬間、
「――――!?」
口が塞がれた。
何に。至近距離の赤い目で分かる。レイジさんのそれで。
その上、私の思考が強制停止していることなんてお構い無しに、塞がれただけではなく、口を割って入ってくるものがあった。
瞬く間にこじ開けられた未知の感覚に、思わずぎゅっと目を瞑った。
そのせいか、直後流れ込んでくる液体の流れが生々しく感じられた。重なるものの感触もまた、意識せざるを得なくなって、わけが分からない。
おそらくこれで口が自由だったら「え?」の一つや二つ言ってたと思うけれど、そうできない状態だ。
しかし、口だけは反応して、わずかに自分から開いてしまった。
刹那、頭を固定している力が少し強くなり、ますます密着したことを感じ、液体は口内に溜まっていくばかりになり……。
私はとうとう、ごくん、と「それ」を飲み込んだ。
するりと身体の中に入っていった液体は、全身に染み渡るような感じを覚えた。
率直な感想を述べると、はじめての、飲み物としての量の血は、不味いとかいう嫌悪感は皆無だった。
どうやら、味覚も吸血鬼仕様に変化したらしい。良かった良かった。
要するに、最初の一歩を踏み出す勇気が必要であっただけで、吸血鬼となった身が受け付けないはずがなかったのだ。
気がついたときには、口は自由になって、息を吸い込んでいた。
時間にしてどれくらいだったかは不明であるものの、短くはなかったようだ。
自覚したら、少し苦しいくらいだった。
「死なせねぇために吸血鬼にしたってのに、別の理由で死んだら間抜けな話すぎるだろうが」
そう言ったレイジさんとは息がかかるほど距離が近かったけれど、私たちは確かにソファ越しにいた。
私は、強制的に中途半端に浮かされている不安定な体勢のはずが、崩れ落ちると感じないくらい安定して支えられていた。言うまでもなく、レイジさんの腕によって。
と思ったら、我に返って自立する前に、軽々と持ち上げられてソファ越しを卒業する。
落ち着いた先は、レイジさんの隣だった。
「万が一吸血衝動が起こったって俺でも噛めばいいが、ならないに越したことはねぇんだ」
私の口元を、レイジの親指が拭った。
指が離れると、赤いものがついていて、舐められるまで目で追って、私はようやく我に返ってきた。
「て、手間をおかけしました……?」
「荒療治で悪かったな」
「いえ、とんでもないです。はい」
目を瞬かせるやら何やらで、忙しくしながらとりあえずお礼を言った。
「……ん?」
そのあとに、何が起こったか思い起こす。猶予をもらえると思ったら、全くそんなことはなくて……。
問題にしていた当のものは口内に注ぎ込まれて、飲んだ。不味くなかった。それは解決。
では、今気になるのは?
「あ、え? ん?」
首を傾げ、改めてレイジさんを見上げると、彼は頬杖をついてこっちを見ていた。
目についたものは、珍しくも赤の双眸ではなく、少しでも開くと鋭い牙が覗く唇。
紛れもなく、初キスだった。
荒療治という名の手段ではあったろうが……思い返すと、間違いなくそうである。
そこまで考えて、だんだん直視するのとされるのが何だか照れてきてはにかむと、それを隠すために抱きついた。
出来事を自覚したら、一拍経って、心臓どきどきしてきて、嬉しいようなそんな感情が生まれてきた。
「どうした」
「なーんでもないです」
「そうかよ」
引き剥がされることはなく引っついたまま返答すると、どこかぶっきらぼうに聞こえる声とは反対に、優しい手つきで撫でられた。
ちらと顔を上げると、そのひとはすぐに気がついて眼差しをくれる。
次いで、にやりとその口が弧を描いた。
頭に乗せられた手が頬を経て、顎にかけられ――今度は「荒療治」でも何でもなく、意図的に降ってきたものは軽く触れ、離れていった。
私はまた目を何度か瞬き、それからレイジさんと目が合って、笑った。
それまでの血を巡ってのことなんてなかったみたいに。
とりあえず、血は不味くないということが分かったので、その日から大人しく飲むことにした。