(1)
いつからだったか。最近だと思うけど、眠りに落ちるときに、おじいちゃんの子守唄が聞こえなくなるときがある。
そのときに限って、よく分からない夢を見る。
真っ白い、ひたすら真っ白な場所。
そこに、私はたぶん横たわっている。たぶんと言うのも、上下を判別できるものがないんだ。
だから、仰向けだっていうのは思っているだけで、もしかしたら私は立っているのかもしれない。
身体を動かそうにも動かせない。全くだ。これが金縛りっていうものなのだろうか。
その夢を繰り返し、そして、目を開ける直前、微かに子守唄が聞こえる。気がする。
*
おじいちゃんと暮らしていた私だが、おばあちゃんの顔は写真でしか見たことがない。私が生まれる前に亡くなったからだ。
でも、おばあちゃんの好きな食べ物とか色とか、色々知っている。おじいちゃんがよく話してくれたからだ。
おじいちゃんによると、おばあちゃんには一目惚れしたようで、おばあちゃんは絶世の美女だったらしい。大抵そんななれ初めからはじまるのは、おばあちゃん尽くしの話。
おじいちゃんは、おばあちゃんの話をするとき、決まって最後に染々とこう言っていた。「ハルカ、恋っていうのはな、人生を変えるんだぞ。ハルカにも、いつかそういう人が現れるよ」
つまり何が言いたいかと言うと、まあ、私にそれが訪れたわけでは、ない。
友人が、恋をした模様です。
長期休暇ももう半ば。
そもそもの話自体は、遡ること一週間前のことになる。
私はその日、L班に行くのではなく、同じ敷地内の解剖の助手のバイトをしていた。組織は一年中、どこも人手不足なのである。
そのバイトも午前だけで、午後は完全にフリーだった。
午後、家に帰る道の途中、ポケットの中の通信端末に着信があった。
『ハルカこれからなにか用事ある? 時間空いてる?』
通話状態に入るなり、これだった。
「空いてるよ」
『じゃあ学校の近くのいつものハンバーガーの店集合ね』
「え、いやでも私」
『緊急会議よ!』
電話を耳に当てながら歩き、馬鹿正直に答えた私は、ちょっと待って行かないよと声を上げかけた。が、その重要度が高そうな言葉に、声も足も止まってしまう。
『二十分後ね!』
完全には了承しない内に、通話は一方的に切られた。
「……緊急会議って……なんの」
端末を見下ろし、呟いても、電話は切れたので答える声があるはずはなかった。
……休みの計画とかだったら許すまじ。それから二十分じゃ無理だ。
私は一度家に帰るべく、端末をポケットに突っ込んで走り出した。
それから何十分経ったか。
服装は、膝上丈のスカートに薄い生地の白いパーカー、スニーカーで、走って走って、全速力で学校の近くの通りのハンバーガー店に駆け込んだ。
「お一人様ですか?」
「いえ、先に友人が」
「ハルカこっちこっち!」
笑顔の女性の店員さんに、店内に視線を移しながら、探してもいいですかと許可をとろうとしていると、そんな声が。
視線を、引っ掛かったところに向けると、そこには席から立ってこちらにぶんぶんと手を振る友人の一人がいた。
どうやらもう集まっているらしい。
店員さんに軽く会釈してから、テーブルの方へ向かう。テーブルには、友人三人が注文を終えて座っていた。
「遅かったじゃんハルカー」
「バイトの帰り道だったから、ごめん」
「え、すげーいいタイミングだったな」
「そうだね。私注文してきていい?」
「うん。そうしなそうしな」
言葉に甘えて、カバンを置いて、財布だけ持って注文するカウンターへ向かった。
「で、緊急会議って」
何?
席に滑り込み、ジュース片手にストローをくわえて喉を潤し、尋ねる。
リンゴジュースが喉に染み渡ることよ。
カラリ、と氷が涼やかな音をたてる。
「ハルカの空いてる日、聞こうと思って」
「んで、俺らのバイトの休みを擦り合わせる」
「え、それだけ?」
それ、電話で済んだんじゃ……。緊急じゃないんじゃ……。
隣と前の友人に呼び出し内容を明かされて、『緊急会議』と呼び出された私は疑問に思うんだけど、間違っているかな。
「それはその内」
「その内」
「その内って何それ」
「それより休みいつよー」
「いっそ日程表作ってくれ」
「それがいいな、それでいこう。よしハルカ、日程表」
「作るわけないでしょ」
一人が机をバンバン、一人は手を差し出し、一人は日程表提案者にそれだと指を差す。
そして私は彼らを止める。落ち着いてくれませんかね、あなたたち。
「休み言うから待って」
「何だよおもしろくねー」
「日程表……」
「待ってくれないの?」
カバンから小さなスケジュール帳を引っ張り出して、ページを開く。それでもって、それをそのままテーブルの上に出した。
印しかつけていないから、そのまま見せても何ら支障はない。
しかし、私のスケジュール帳を覗き込んだ友人たちはなぜか奇妙な表情をする。
「……ハルカ、あんた会社員?」
「右に同じく」
「前に同じく」
「……会社員だったら、こんなにポツポツ休みないよ? たぶん」
今日だって午前だけだし。
それに仮にも犯罪を扱う職場にいるのだから、は言えないこと。
だけど、だ。スケジュールを見て、ちょっと沈黙が流れるのは解せない。
だってまとまった休みだってあるんだから。普通のバイトとあまり変わりはないはずだ。
「まあ、確かにな」
「でもハルカ、この前またちょっと入院してたんでしょ? 大丈夫なの? 今のバイト先」
ちら、と見られたのは私の手だと思う。
数日前まで、この手にはさすがに隠しようもなく包帯巻いていた。
しかし、吸血鬼に噛まれたり何やら裂かれた皮膚も今は元通り。お医者さん万歳。何かよく分からない色をしていた薬万歳。
それを見られていた私は、傷痕一筋もない手を振ってみせる。
「大丈夫大丈夫。でも、今年はついてないのかも」
「何それ、もう……」
「それより、日程合わせるんでしょ?」
「今度俺がバイト紹介してやるよ!」
「なんであんたなのよ」
「この際皆でバイトしようぜ!」
「ねえ日程は?」
変な方向に話が向かい始めたから、一生懸命話を戻そうとする私。
……それにしても、心配してくれて、ありがたいと思う。入院ごとは避けなければならないと改めて思います。
「ここまとまってるな。とりあえずここは絶対空きな」
「あー、ここいい」
何やかんやを経て、各々自分のスケジュールを私のスケジュールと擦り合わせ出した。
「ここ空いてる?」「俺空いてる」「うん同じく」「じゃあここら辺ね」「そうだな」「よし決定」「まだ先だから計画はじっくり練れるな」「確かにー」……私もその休みは死守しなければならないみたいだ。交わされる会話に、脳内にメモを残す。
いや、友人の一人が「ここ絶対空けたままね」と印をつけてくれた。ありがとう。
「あ、ここ」
「ほんとだ」
しかし、急に何だか妙な空気が流れた。
特に、一人がなぜかぴたりと黙る。
「え、何?」
スケジュール帳が返却されて、カバンにしまいながら疑問を向ける。
しかし、友人たちはスケジュールをしまい、誰も何も言わない。そして、沈黙。
ざわざわと、周りの声がしばし、私たちの席に流れる。
「では、会議を始めたいと思います」
何だ、何だと思っていたら、唐突な言葉が発せられた。
「え、何いきなり」
というか、会議ここから? 『緊急会議』という電話での言葉を思い出した。
今までのは前振り?
目の前の友人は、私の戸惑いに構うことなく、かしこまった口調で続ける。
「では、本日話し合う内容をどうぞ」
どうぞ、と振られたのは、もちろんというか私ではない。
私の斜め前の友人だ。心なしか、緊張しているように見える。
ハンバーガーを食べる雰囲気ではないのは確かだ。
何だ。一体何を話し合うというんだ。
「実は、」
手で示されると同時に話を振られた友人は、ようやく口を開いた。私は知らず知らずの内に息を潜めてしまう。
この空気は、まさか――
「好きな人が出来た」
「……へ?」
深刻な顔で深刻な声で告げられた内容は、私が頭に巡らせた予想よりも遥かに軽いものだった。
私は、転校とか病気とか考えてしまっていたのである。呆けた声を出したのは、許してほしい。
だって、『好きな人』って……そんなに深刻な顔をすること?
「それは、おめでとう」
ひとまず祝福しておいた。
恋っていいことなんでしょ? おじいちゃんが言っていた。私は生まれてこのかたまだないんだけど。いつか出来るといいな……って、今は私のことじゃない。
「ありがとう……じゃねえんだよ」
勢いのないツッコミが返ってきた。
おや、いつもは元気な彼が悩んでいる様子だ。テーブルの上に肘をついて、顔を覆っている。乙女か。
「では報告致します」
「眼鏡なんてかけてたっけ?」
隣の友人がかしこまりスタイルを崩さずに話し出したから、恋をした友人から目を離してそっちを向く。と、どこから取り出したのか、黒い四角いフレームの眼鏡を着用していた。
目、すごく良かったよね。伊達だね?
「彼が好きになったのは、学年が一つ上の先輩です。出会いは後々聞くとして、まあ色々省くと、一週間後にデートに誘うことに成功した模様です。以上です」
「ご苦労。こちらの持っている情報は以上なので本人に窺いたいと思います」
見ると、前の友人は丸眼鏡を着用していた。もちろん、普段はかけていなかったはず。
「じゃー聞こう。お前もう付き合ってるのか?」
「そうだそうだー。キリキリ吐きなさーい」
ごっこは止めたらしい。
眼鏡を外して、口調が戻る二人。
そしてその眼鏡はさっきのためだけに持ってきたのかな? 何食わぬ顔でカバンにしまっているけど。
「……まだ」
「おう声もうちょい張れー」
「待って、もうちょっと待ってあげて」
顔を覆った手から、目だけを出した恋した友人は小さな声で呟くが、隣の友人が容赦しない。
好きな人が出来た友人の変貌も変貌だが、きみはきみでどうしたんだ。一人いまいち事態が飲み込めていなかった私だったが、思わずそれを宥める。待ってあげようよ。
「……まだ告白もしてないから。そのときに告白しようと思ってる」
「それで?」
一つ言ったと思えば、すぐに質問が飛ぶ。
それで?って大分雑な促しの仕方である。
「――俺こんなこと初めてでどうしたらいいか分かんねーんだよ! 俺どうしたらいい? 振られたらどうするー」
ばたん。
早口に言い切った友人が、顔面からテーブルに突っ伏す。力を使い果たしたかのようだ。
テーブルに、また沈黙が落ちる。誰もハンバーガーに手をつけない。
………………。
「最初っからキリキリ言いなよ」
「一緒に悩んでやるって」
空気を破ったのは、容赦のなかった友人二人だった。さっきまでの声音は捨てられ、心なしか空気が和らぐ。
「まあ友達だしね」
私もやっとハンバーガーに手を伸ばすことが出来ながら、同意する。
相談されたら断れない。
どうやら、友人は好きな人ができて、それが初めてでとても参っているらしい。かなり弱ってる。
……恋って怖い。おじいちゃん、本当に恋とは良いものですかと聞きたくなる。
「お前ら……」
「じゃあまず分析から入ろっか」
顔を上げて若干目が潤んだような友人の、感極まりはじめただろう言葉は遮られる。
ここは変わらず容赦ないんだね。
私も特には突っ込まずに、同じく恋した、今は涙ぐみそうな友人をスルーする。彼がこの会議の中心であるはずなのに。
「まず精神部分から行くと」
「そんなことグダグダ考えても仕方ないよなー。だって相手の心はいくら考えて悩んだって分からないんだし」
前の席の友人の、どこか悟ったような見解。
どうしたの。悩んだ時期でもあったのか。すごく気になったけど、それもここは黙っておく。
「だからって相手に気に入られるために繕っても、後でボロ出しちゃうだろうから、無理してカッコいい奴になろうとするなよ。だからって気を緩めすぎるのは何だし、まあ、そこら辺はほどほどにしとけばいいんじゃない?」
「ほどほどにってどのくらいだよ」
「ガチガチに緊張しすぎないで、自然体でいけってこと」
いつもは細かいことは気にしないけど、恋をした現在ばかりは何かと気になってしまうらしい友人。
私は恋人などというものはいたことないから、ハンバーガーをもそもそ食べて会話を見守る係。
ハンバーガーはまだ温かかった。良かった。美味しい。
「振られるとかもね、悩めばいいけど、悩んでも結局分からないんだからくよくよしない」
「やるって決めてるならやれよ。やらないで止めるよりはいいだろ。当たって砕けろ! 以上」
「いい加減か」
ハンバーガーを消費している私に言えることではないが、つい口に出してしまった。
当たって砕けろって、砕けろはダメだろう。
「俺は、一体……」
「えー、ではここで、会議の終わりに一言激励の言葉をもらいたいと思います。ハルカ君」
「え、私?」
強制的に緊急会議(?)を締めにかかる友人。最後に話を振られたのは私。ジュースを吹き出しそうになった。
「ハルカ発言少なかったから?」
「えぇぇ、皆も好き勝手言ってた」
だけじゃ……。
小声で隣の友人とやり取り。
だが、確かに発言していなかったのは本当なので、渋々口を開く。激励の言葉って何なの。やったことないよ。
会議とは名ばかりで、言うだけ言われて途方に暮れている友人の視線を受けて、かけるべき言葉を探す。
えーっと……。
「健闘を祈る」
私もごっこ遊びに感化されたらしい。口調がおかしくなった。
だけど、あながち選択は間違っていない言葉だろう。友人が不幸になったり、落ち込んだりするのは見てられないからね。普段が元気な分。
心持ち、応援いたしましょうとも。
ただ、私は何もすることができないので、健闘を祈るしかない。当たって砕けろ!