(10)
目を開けると、腹が圧迫されていた。
ぼんやりとした目と頭で周りを窺ってみると──私は、吸血鬼の脇に抱えられていた。
……まったく、吸血鬼の血が流れていると、人を荷物みたいに担ぐのが主流になってくるのだろうか。
私は場違いにも、ときおり雑なときには吸血鬼と人間の混血のひとに、肩に担がれていることを思い出す。
「何だ起きたのかぁ? 死ねば鮮度が落ちると思い、弱くし過ぎたか」
私が起きたことに気がついた吸血鬼が、こちらを見下ろし、足を止める。
どうやら、首が折られて死んでいないのは、私をどこかに連れて帰っておいしく頂くつもりで死なせないようにわざとした、ということか。
「もう一度気絶させておけばいいか」
「は、なして……!」
まずい次はないかもしれない。
そう感じると、ぼんやりしていた頭と目が一気に覚醒した。
担がれている腕から逃れようと暴れる。腕を渾身の力で掴み、身体を滅茶苦茶に動かす。
ところが、だ。
相手が何だか忘れてたいたわけではないけれど、こんな抵抗が通じるわけがないとは、忘れていた。頭にあったところで、同じことをするしかなかったと思うが。
「……く、」
瞬間、息が詰まる。身体が一瞬浮いた。
押さえつけられていた。後ろに壁であろう感触を感じ取ってから、理解した。
「ここで少し血を吸って、黙ってもらおうか?」
肩を掴まれ、身体は固定され、足は地面には着かずに浮いている。
蹴ってみたけど、目の前の奴は全く気にしていない。「心配するな。吸血鬼にも成り損ないにもしないからなぁ」しゃべり方はどこかのんびりしているくせに、ぞっとする声が、すぐ近くで言った。
吸血鬼にはしない。どういうことだか、言っていることは分からない。
だが、とりあえず状況は変わらず、まずい。
生暖かい息が、剥き出しの首筋にかかる。ぞわ、と悪寒がして、鳥肌が立った。
何をされるのかだけは、それだけで悟った。
「ちょっ、止め……!」
肩を掴む手を掴む。
ビクともしない。当たり前か。でも、抵抗を止めるわけにはいかない。
「本気でちょっと止め……もう!」
手は駄目だ、と、急いで今度は顔に手を伸ばす。顔さえ近づかなければ……。
口を中心に、顔面に手のひらを押し付けて、ぐいぐいと押す。
しかし、そのとき、だった。
「……!?」
手のひらに、痛みが走った。
じゅる、と嫌な音がして、痛みの中心を吸われるような感覚が。ざらりとした熱い感触も。
今度は腕から鳥肌が立った。
手から、手首に何かが伝い、地面に向かって落ちていく。
血だ。
噛まれた。
血を吸われている。
反射的に理解した自分がいて、とっさに手を離した。
そうして再び見えたのは、赤いものがついた唇を、舌で舐める吸血鬼。
「ああ、この味だ……」
ぎらついた目はどこか狂喜に満ちており、普通ではない、と感じた。
こわい。こわい。駄目だ。
両肩をつかんでいる内の片方の手が、首にかかる。
牙を露にした口が開いて、また近づいてくる光景を目にして、私はとうとうぎゅっと目を瞑る。
……瞑ってどうする。
「――噛むなって言ってる……!」
目を一思いに見開き、恐怖しか与えてこない目を正面から捉える。効け。
刹那、赤い目が揺らぐ。
肩への圧迫感と、支えていた力が消えた。
「いった」
地面で、尻を強かに打ち付けた。
痛みが走ったが擦っている暇はなく、即座に上を確認すると、吸血鬼がよろめいていた。
すっぽり被さっているフードが落ちて、ダークブラウンの髪がこぼれ落ちるが、それとは反対に、目は手で覆われていて隠れている。
でも、安心なんてするわけがない。
痛みを訴えてくる手を恐る恐る確認する。真っ赤に染まっていた。
傷は浅い、か? きれいな切り口だから、血が出ているのと、吸われたから――思い出して、震えが走る。
逃げなければならない。
「一瞬、……意識が飛んだぞ」
赤い目が、二つ。指の間から現れた。
私は息を飲む。
吸血鬼は、ゆらりと曲げていた背を伸ばし、目を瞬きながら、私をを見下ろす。
「酷いなぁ。君、特殊能力保持者の人間か。あ、もしかして普通の人間より何か分泌されてるのか? 君の血、甘い。まるで麻薬みたいだぞ……まあ、吸血鬼に麻薬なんて効かないんだが」
にたりと笑う口から鋭い歯――牙と称すべきそれが、覗く。
赤いものが、付着している。私の血だ。
私はじくじくと痛む右手を握り込ま、座り込んだまま動けない。
立って逃げるべきだ。それは分かっている。
逃げても相手は吸血鬼だ。
吸血鬼。
「本当に、探した。人間の血の中にもそんなに美味なものがあるのかと思ったからなぁ。全部が全部というわけではなかったようだったが。特殊能力保持者だっていうなら、納得かもしれないなぁ。無差別に血を吸っても無理なはずだ。一応寄せはしたのも、無駄だったということだ」
「……?」
「つまり、とりあえず君の血は僕の好みだっていうことだ。キープしておきたいくらいに」
目の前にしゃがみこまれて、一気にその色彩が近くなる。
同じような色なら、何回も見たことがあるはずなのに、どうしてこうも受ける印象や抱く感覚が違うのか。
それはもちろん、レイジさんはこんなことをしないからだ。
「君、僕に飼われる気は?」
「……は?」
「あぁ、返事は必要ないか。どのみち、持って帰る」
手が握られた。否、手に、鋭い爪が立てられ、傷を深く抉られる。
「う、あぁ――――」
意図して抉られることによる、激しい痛み。
深く、深く異物が入り込んでいる。
気持ち悪い。痛い。
気持ち悪い。
「すまないなぁ、君の血が美味しいから、もう少し味見がしたくなった」
「――――!?」
涙が勝手に出てくる。痛みが原因か、それとも恐怖か。
ぼんやりした視界で、ぼんやりと浮かぶ二つの赤い目が認識出来た。
次の瞬間、目が覚めたようになった。
この目は、嫌だ――!
ず、と手から一気に異物が引き抜かれた。それによる激痛に襲われる。
しかし、それよりもっと深刻な、新たな痛みが生じていた。
目が痛い。開いていられなくて、ぎゅっと瞑る。
無意識に、特殊能力を使ったのだろうか。自分のことながら不明だ。本能というものか。
それにしては……この頭痛は、何だ。
目の痛みと一緒に──いや、それより僅かに先に表れた痛みがあった。感覚的には目よりも痛く、私は目より頭を押さえている。
頭痛持ちなんかじゃない。けれど、頭は内部から充満するすさまじい痛みを抱えている。
吸血鬼に、どこかにぶつけさせられたのだろうか。
目を閉じていても、目の前がちかちかする。
逃げなければならない。前方にあった存在感がなくなった気がするけれど、感覚のみで、勘違いである可能性が大いにある。
逃げなければ。でも──。
頭を抱える私は、こんなときにも、こんなときだからこそ、あの世のおじいちゃんに思いを馳せた。
おじいちゃんおじいちゃん、もしもこの世界にあの世というものがあるのなら百パーセントそっちにいるおじいちゃん……私は次に目が覚めたとき、どうなっているか全く分かりません。
でも、逃げなければならないということは、頭の隅っこどころか根幹で分かっているのに、身体は言うことをきいてくれそうにもないんだ。
逃げなければ、ならないのに、耐え難い痛みにより意識がどんどん定かではなくなっていく。
目を閉じているから、視界は元々暗いけれど、もっと、暗闇に飲まれていく。
おじいちゃんが最期にまで歌ってくれた唄が、頭の中、遠くで聞こえた。
子守唄。小さい頃からずっと歌ってくれたそれが、遠く、遠くなっていく。
────途切れる
ほぼ同時だったろう。ぷつん、と意識が途切れた。