(4)
遅い。嘘、早かった。
だって私が逃げていられた時間は、実はすごく短い。
おそらく十分くらい。もしかすると、切るかもしれない。
壁際に追い詰められてから、口からでまかせでごねていられた時間は、それこそ短かったと思う。五分未満ではないだろうか。
私に、特別な弁舌能力が無いことが判明したわけだ。
さらに私が愚かにも反対方向に走った分、距離が離れてしまっていたので、場所も探さなければいけなかったはずだ。
だから、言ったんだ。レイジさんの足が速いだけだって。
上の方から一体を踏み潰しつつ現れたレイジさん。
そこで一名はリタイア。未だに壁際に座り込んでいる私の、目の前の地面にめり込んでいる。ぴくりとも動かない。
身体を覆っている殻の、蹴られた部分であろう部分が粉々に砕けている。
刃物がこっちに向いているので、私はそっと足を動かして、ずりずりと地を滑り距離を置く。
あとの二名はというと、突然の立場の反転にみまわれた。
抵抗する間もなく、あっという間に、まさに今、三名目が蹴りを受けて綺麗に放物線を描いている。
二名目の末路は、瞬時に頭部を掴まれて地面にめり込ませられていたというものだった。一体目とほぼ同じ運命を辿ったのだ。
三名目は、めり込まないだけましかもしれない。
その最後の一名がちょうど落ちる鈍い音がする。ちょっと離れたところに落ちたようで、私には暗くて、どんな状態かは見えない。
ああ、でも、蹴られた時点で酷いありさまかもしれない。
そんな風になったこの場で立っているのは、ただ一人。
足の速さを取っても、力の強さを取っても、身体能力全てがずば抜けている、その人。
振り向いて私の方へゆったりと歩いてくるひとの姿をよくよく見ると、服装が軽い。
黒いズボンにTシャツ。完全なるプライベートタイムに突入していたのかもしれない。
足が長いからか、歩いてもすぐに私の前にやって来たレイジさんは立ち止まった。
「さっきぶりだな」
「そ、ですね。……ありがとうございます。早かったですね」
投げ掛けられた言葉に、どうにか口を動かして答え、回りにくい口を動かしお礼も言って、私はようやく大きく息をつく。
死ぬかと思った。今回は本当に。絶対寿命が縮んだ。
刃が振りおろされた瞬間に凍った心臓は、今になって忙しなく動き出す。
「何怪我してんだお前は」
「転びまして……」
前にしゃがみこんだレイジさんに、息を吐きながら答えていたら、ぽんぽんと頭をたたかれる。
「悪かったな、遅くて」
「――そんなことない……ですよ」
がば、と顔を上げると、独特の赤い双眸が見返してきていて、付け加える。
恐怖の名残が一気に流されてゆくことを感じる。もう大丈夫だと。
けれど、また、助けてもらってしまった。
止まったような時間が流れたのち、レイジさんが立ち上がって、一気に距離が開いた気がした。
それにほっとしているのか、残念に思っているのか、自分でも明確には掴めず、こつんと後ろの壁に頭をもたれさせていると、
「ほら」
差し出された手があった。
手の主はもちろんレイジさん。つかまれということだろうか。
ちらりと遥か上にある顔を見上げ、片手をそろそろと上げる。その手に掴まる直前に一度躊躇すると、逆に掴まれた。
大きな手に掴まれて手が引っ張られ、ふわりと身体が持ち上がり、何とも軽く起き上がれる。
今日は全力疾走の連続だったから、明日は筋肉痛だろう。足が棒みたいになっている。
私を引き上げたレイジさんは、手を離し、身動き一つしない三名に向かって歩いて行った。
「これでよし」
三名を一ヶ所に集めると、レイジさんはベルトにつけて持ってきたらしい長い鎖を取り出し、犯人含め全員を一本の鎖に順に縛っていった。彼らは未だ気絶している。
満足そうに見たレイジさんは、今度はこっちを向いたかと思うと、
「わ」
私を肩に担いだ。一気に視線が高くなる。
「レイジさん……帰りたいんですけど」
「始末書と報告書、誰が書くんだ」
帰宅願望が即答で却下された。
下を見ると、じゃら、という音がした。レイジさんが鎖を手繰り寄せたのだ。
鎖の先に、腕が刃物の三名が連なる。改めて、何とも言えない光景だ。
「始末書は自分で書いてください。私何も壊してないんで」
レイジさんが三名をぶちのめす際に叩きつけた地面には、亀裂が入っている。彼らが、殻っぽいものに覆われていたことが原因の一つであるだろう。立派な亀裂だ。
そして、したのはレイジさんだ。
……まあ、別にいいか。
このまま一人で暗い中帰るのは、さっきの今では少し心もとない。戻って報告書を書いて、明るくなるまでソファで寝ていよう。
レイジさんはいてくれるだろうか。
「そうしたら送ってってやるよ」
「…………えっほんとですか!」
「ああ」
「やった、ありがとうございます」
思わぬ言葉に、小さな喜びが生まれた。
「レイジさん、ついでにこの体勢の改善を要求します」
「そんなにこいつらと並びたいか」
「う、それは嫌……っ」
言葉の途中で息が詰まった。次に一瞬の浮遊感。そしてまた息が詰まる。浮遊感。
これが不規則なリズムで続く。
私を肩に担ぎ、三体が繋がった鎖を持ったレイジさんが建物の屋根に飛び上がり、屋根から屋根へと跳び移っているからだ。
舌を噛みかけた。と同時に納得。だから上から現れたのだ。全く障害物のない屋根の上。それは早いだろう。
レイジさんは、人間ではない。
尋常ではない足の速さ。一蹴りで犯人を何十メートルも飛ばしたり、壁にめり込ませたりする力。外見で言うと、鋭すぎる歯や少し尖った耳や赤い瞳と言い、実は異なる種族の血が入っている。
世界が交わってから、徐々に人間と他の種族との間の――つまり両方の血を継ぐ――混血の子どもの例が確認されるようになった。
レイジさんは、吸血鬼と人間との間に生まれた混血吸血鬼だそうだ。
人間の何倍の身体能力でもって、屋根から屋根へと移るレイジさん。
落ちるとただでは済まない高さとなり、私は彼の肩にしがみつく。
たぶん、落ちそうになったら、報告書も始末書も書きたくないレイジさんが拾ってくれると思うけど、万が一落ちるとまずい。
下では気絶中の三名が重そうに揺れ、時折ぶつかっている。どれだけの力で気絶させたのだろう。想像するだに恐ろしい。
レイジさんの拳骨は痛いからなぁ……。
私へのそれは加減はもちろんされているだろうけど、痛いものは痛い。本気ですれば如何様になるのだろうか。
などとのんきに考えながら。
暗い暗い夜の街、下で灯りを提供する、街灯の光の届かない屋根の上。
遠くの方の星の輝く空をぼんやり見ながら、私はのんきに揺られていた。
あれ、もしかして明日は休みになったのかな。