根雪の恋人
夜勤明けで疲労困憊の体に、真っ白で冷たいものが降り注ぐ。
しんしんと雪が降り積もっても、幼少期の頃のように飛んだり跳ねたりは出来ない。
人目がどうこうではなく、単純に寒いし歩きにくいし寒いからだ。
はぁ、と吐き出す息は、よりいっそう白く染まり、鼻や頬なんかは真っ赤になる。
それこそ肌を刺すような寒さに、ピリピリと痛み出し、手はポケットの中に突っ込み、早く帰ろうと足早になった。
足を取る雪を蹴り上げるように競歩で帰路を進み、自宅のある一軒のマンションの前で、ぴたり、足を止める。
やっと家に着いた、などと言うことではなく、マンションの出入口の前に、鮮やかな黄緑色の傘を差し、しゃがみ込んでいる不審者がいた。
しかもその不審者の足元には、歪な雪だるまがいる。
ご丁寧に顔も腕も付いていた。
見覚えのある芸術作品に、傘の隙間から見えた赤いダッフルコート。
マジか、呟きが出たのは反射と言っても良い。
「……よぉ」
「いやいや。君ね、何してるの」
駆け寄った不審者は、嫌と言うほど見覚えのあり過ぎる男で、いつからそこに居たのか、頬も鼻も、何なら耳も真っ赤だ。
痛そうな赤に顔を歪めるも、本人は鼻筋に沿って落ちる眼鏡を押し上げ、ああ、まあ、と言葉を濁す。
手袋なぞしていない無骨な指先も赤くなっており、マジか、を繰り返してしまう。
傘に積もった雪を落としてやり、いつから居たのかと問い掛ける。
折角ポケットに突っ込んで温めた手を、目の前の赤い頬に添えれば、ゾッとする冷たさだ。
まるで氷水に手を浸したような冷たさに、唸り声を上げてしまう。
驚いたように眼鏡の薄ガラス越しに目を丸めるその男。
間の抜けた顔に米神が痛み、いつから居たのかという答えを貰うよりも先に立ち上がらせる。
その時、名残惜しそうに雪だるまを見るので、米神を通り越し頭全体が締め付けられるような痛みを感じた。
最早言葉を発するのも面倒で、片手で男の無骨な手を掴み、もう片方の手で雪だるまを拾い上げる。
その時の男の、少しばかり安心したような、はにかんだ笑顔と言ったらもう。
***
男をリビングに招き入れ、手に持った雪だるまをベランダに置く。
生憎、冷蔵庫も冷凍庫もそこまでの余裕はなかった。
「それで、合鍵どうしたの」
タオルを引っ張り出して来て問えば、キョトンとした顔の男。
ああ、思い出したように手を打つが、その答えは「忘れてた」なのでどうしようもない。
丸で思い立ったが吉日のように、家を飛び出して来たその男は、私が髪を拭いている間も、ソファーに身を沈めながら私を見る。
「……何」
「赤いな」
着込んだままのコートを引っ張られ、前のめりになれば、鼻と鼻がぶつかる。
瞬きをするが距離を離すつもりはないらしく、鼻歌交じりにタオルの乗せた髪を乱雑に拭われた。
「痛くねぇの?」
「いやいや。どう見ても君の方が痛そうだよ」
頬を指先でなぞられ、問い掛けられたが、その指先の冷たさに眉を寄せる。
一体どれくらい居たのか、再度聞いても答えははぐらかされてしまう。
いつまでもコートを引っ張られ、腰を折り曲げた状態では体が辛いので、その場に座り込み顔を離しながら、男のコートを脱がす。
傘を差していたために、コートには水気らしい水気は見られない。
その代わり、触れれば布地でもひんやりとした冷気をまとっているが。
「ねぇ、本当、マジで何でマンションの下で立ち往生してたの。今日、何の約束もしてないよね」
ソファーの背もたれへコートを投げる。
男の手は既に自分の膝に置かれており、私は頭の上のタオルを取り除く。
すっかり水気の取れた髪は、乱雑に拭われたために毛先が絡まっている。
「起きたら明るかったし」
「私はさっきまで夜勤だったけど」
「そしたら雪降ってっし」
「積もってたしね」
「そしたら、何か、何つーか」
私の目を見て話していたというのに、ゆっくりとその視線が下がり、言い淀む。
迷うように視線をズラし、一度唇を引き結ぶ。
母音のみの呻き声を漏らしたかと思うと、寒さ以外の要因で頬を染めている男がそこにはいた。
「会わなきゃ、と思った?」
「何で疑問符なの」
恥ずかしい台詞だとは思うものの、それよりも突っ込む場所を見付けてしまい、濡れたタオルで男の腕を引っ張叩く。
大袈裟に悲鳴を上げる男だが、その顔は非常に楽しそうである。
「雪降ってんぞ〜、と思ってさぁ」
座り込んだ私を再度引き寄せ、肩口に顔を埋めた男は、なんて愛らしいのか。
歳下を甘やかしている気分になるが、実際のところ、私とこの男は同い歳である。
だと言うのに、まるで子供の様だ。
それこそ、雪が降っただけで喜ぶ子供。
飛んだり跳ねたり、下手したら犬のように雪の中を駆回るのではないか。
それはそれで、笑える。
ふはっ、と吹き出しながら、男の厚みのある背中へと腕を伸ばす。
ダッフルコートに包まれていた体の方は、予想よりも暖かかった。
背中を撫でてやり、聞こえる心音に合わせて叩いてやる。
「ところで、私は夜勤だったわけだが」
「おう」
「仮眠程度しか取っていないわけだよ」
「……おう」
「しかも体は冷えているし……。可能ならば、ホットミルクでも飲んで、一度ちゃんと眠りたいのだが?」
男の額が、肩の骨を削る。
ゴリゴリ、強い力で擦り付けるのは止めろ、と悲鳴を上げた。
動きを止めた男が、私の脇に腕を差し込み、おお、と思う間に立たされる。
ならばホットミルクの用意をしよう、身を翻したものの、背中にはべったり張り付く男。
むしろ暑苦しさすら感じそうな距離感だ。
隙間なく引っ付いた男は、俺の分も、と声を上げ「俺も二度寝する」と、今度は背骨を削ってきた。