夏蜜柑
空は青く、どこまでも高い。
白い雲がもくもくと楽しそうに泳ぎ、広がる緑は葉を繁らせ、のんびりと蝉が鳴いている。
久しぶりに帰って来た田舎は、記憶と少しも違わなかった。
山に囲まれた田んぼと畑をいくつも越えた先に、母の生まれた家はある。
まっすぐに伸びる舗装されていない田舎道。
空港の近くで借りた軽自動車を走らせて行くと、古い作りの平屋がぽつんと佇んでいた。
「お母さん、着いたよ」
後ろの席でうとうとしていた母を起こし、荷物を持って車を降りる。
車の音を聞きつけたのか、がらがらと音を立てて大きな引き戸が開き、玄関から叔父が顔を出した。
「よく来たねぇ。久しぶり。八重ちゃんだよなぁ、いくつになった?」
「お久しぶりです。今年で二十六になりました」
日焼けした叔父は愛想良くあれこれ話しかけつつ、荷物を運び込むのを手伝ってくれた。
小さい頃は毎年お盆や正月に帰って来ていた祖母の家だけれど、ここ数年は色々と忙しく、足を運んでいなかった。
大学に入り、就職をしてからというもの、一度も顔を出していないことに気がつく。
最後に帰って来たのは祖父の葬儀の時だったろうか。
「八重子、先におばあちゃんに会って来たら?」
「あー……うん」
父は元々仕事が忙しい人で、私には兄弟もおらず、ここ数年田舎に帰るのは母だけだった。
祖母には、十年近く会っていないことになる。
母から「おばあちゃんが会いたがってたわよー」と言われる度、申し訳なく思うと同時に、鬱陶しいと感じたのも事実だ。
それでもやはり、私は祖母の血を引いた孫であり、初孫として可愛がってもらった記憶も忘れはしない。
長年顔を見せていなかったことに、罪悪感を感じていた。
「あー、お母さんから聞いてると思うけど、おばあちゃんなぁ、ここんとこ、ちょっとぼけがひどくてな」
「……はい」
「まぁ、会ってあげてよ。奥の部屋に居ると思うから」
叔父に促されて土間に上がり、靴を揃えて脱ぐ。
久しぶりに踏む畳の感触がざらりと靴下越しに伝わって、今更ながら、田舎に帰って来たのだと改めて実感した。
一言かけてから、襖を開く。
裏庭が見渡せる広い部屋は、お昼過ぎの夏の陽射しに照らされていた。
クーラーも扇風機もないけれど、掃き出し窓から入る緑の匂いの風が心地良い。
「おばあちゃん、久しぶり。八重子です」
祖母は昔からある揺り椅子に腰掛けて、微睡んでいたようだった。
私の声かけにぱちりと目を開けて、ゆっくり振り向く。
久しぶりに見る、深い皺が刻まれた笑顔に、胸の奥がきゅうっと詰まった。
祖母はこんなに小さかっただろうか。
「あらぁ、亜矢子。おかえりなさい。八重ちゃんはどうしたの?」
「……おばあちゃん、亜矢子はお母さんでしょ。私が八重子だよ」
「やぁねぇ。八重ちゃんはまだ五歳じゃないの」
揺り椅子の隣に腰を下ろし、そう言って微笑んだ祖母の手に自分の手をそっと重ねる。
幼い頃、私を優しく撫でてくれた大きくて暖かい手は、あの頃よりもずっと痩せて骨張った気がした。
吹き込んだ穏やかな風につられて窓の外を見やると、木漏れ日がきらきらと揺れていた。
懐かしいその庭の隅には、夏みかんの木がいくつか植えられている。
お盆に帰ってくる私に、祖母は毎年夏みかんを剥いてくれた。
しわしわの手にぎゅっと力が入って、黄金の房が顔をのぞかせると、爽やかな香りが広がる。
野菜や果物に好き嫌いが多かった私も、祖母が剥いてくれるちょっと酸っぱい夏みかんが好きだった。
「この木はねぇ、八重ちゃんの生まれた日に、じいちゃんが植えたのよ」
庭の一番端の、まだ小さく実もつけていない木を愛おしげに撫でて、祖母がそう言って笑った。
隣で、頑固で無口だった祖父が、そっぽを向いたままはにかんでいた。
「随分大きくなったねぇ」
麦わら帽子をかぶった私の頭を撫でた手のひらから、夏みかんの香りがした。
私の背丈とそう変わらない小さな木が、夏のお日様を浴びて胸を張っていた。
あれはいくつの頃だったろうか。
窓辺においてあったつっかけサンダルを勝手に借りて、庭に降りる。
季節によって表情を変える庭は、今も丁寧に手入れが行き届いていた。
きっと夕方や朝早くのまだ涼しい時間に、祖母が面倒を見ているのだろう。
思い出の中のその場所に、同い年の木はちゃんとあった。
背が随分と伸びていて、緑の葉をたっぷり揺らしている。
つやつやと輝く鮮やかなオレンジ色の実が、自慢げに実っていた。
つい、と指先で触れて鼻を寄せると、すっきりとした柑橘類独特の香り。
「今年はいっぱいなったわねぇ」
振り返ると、いつの間に庭に出て来たのか、祖母が目を細めて木を見上げていた。
「亜矢子には言ったわよねぇ。これねぇ、八重ちゃんの木なのよ」
「うん。……大きくなったね」
「そうねぇ」
祖母は嬉しそうに頬をゆるめ、夏みかんをひとつもぐ。
「どれ、ひとつ、八重ちゃんにむいてあげましょうね。喜んでくれるといいけど」
「……きっと、喜んでくれると思うよ」
にこにこと笑顔をこぼす祖母の横で、潤んだ世界を誤魔化す為に、ゆっくりと瞬く。
さわさわと風が吹き、私と同じ名前の木が楽しそうに歌う。
葉擦れの波の音が凪ぐまで、私は夏空を見つめていた。