あなたの私(1)
虎斑と佑が出会ったのは、乾いた空気が肌を軋ませる十二月のことだという。
彼女は当時を懐かしむように遠い目をして、白いコーヒーカップを撫でた。
「木曜日の午後だった。理由は忘れていたが当時疲れていた虎斑は、ここでコーヒーでも飲んで安らごうと考えた」
「あのバイクが突っ込んで彼女が怪我をしたっていうのは?」
九死に一生といえるだろうエピソードに、鳩は一切聞き覚えがない。話を遮るのが無礼だとは思いつつも先を急ぐ。
虎斑はそわそわと落ち着かない彼を制し、鳩が注文したウーロン茶を指で弾いた。カチンという涼やかな音は夏らしかったが、鳩の心は冷える。
「そう急がなくていい、すぐに話すよ。ゆっくり飲んでて」
固い少年を嘲笑うように、彼女は自然体のまま崩れない。
「読書を楽しみながらコーヒーを飲んで十五分くらい経った頃か。外から騒がしいエンジン音が耳に届いてね。無茶な運転をしているバイク乗りか、ぐらいに思っていたんだけど、あんまり近く、大きくなっていくものだから顔をあげた」
「本当に無茶な運転をしていたんですね」
「ああ。一体どういう経緯を辿って繋がったのかは知らないが、結果として喫茶店にとてつもない勢いで突っ込んだ。平日で人が少なく、寒い外側を選んで座っていたのは、明るいつくりを気に入っている虎斑ぐらいだった。怪我人は一人」
「佑、ですか」
「その通り。たまたま来店したばかりで、どの席に着こうか迷っているうちに運悪く。不幸中の幸いは、直撃はせず、怪我が衝撃と受け身の為に転んだ際にガラスが刺さってしまっただけであること」
ぞわっと背中に氷の塊を入れられたような感覚に震える。
乗り物事故がどれだけ危険かは、学校で散々注意されいる。ガラスが突き刺さる痛みなんて想像もつかない。
注射や紙で指を切った時さえあんなに痛いのだ。深々と肉を抉られる感覚をうっかり想像し、青ざめてしまう。
こびりつく恐怖を流すようにウーロン茶に手をつける彼を待って、話は再開した。
「それで、一番佑の近くにいたのが虎斑だった。虎斑は救急車を呼ぼうとしたんだけど、彼女、
『平気だからいらない』
っていってね。その場で足に刺さったガラスを抜き出したんだ」
「え、ええッ」
「いやあ虎斑もびっくりしたともさ。店員さんが持ってきてくれた救急箱でガーゼやら包帯やら、消毒液なんちゃらを使って手当したよ。あんなに必死になったのはいつ振りだろう」
「なんで、そんな。怪我をしたうえに危ない目にあったんだから、病院には行くべきでしょう」
至って普通のことをいっているはずだ。
なのに、家族で食事をとる際に話題にのぼったことが一度もない。
つまり、彼女は事故について報告しなかったうえ、病院からも両親へ連絡がこなかったという意味だ。宣言通り、病院に行かなかったのである。
ぼうっとしがちな彼でも、何かある度に頻繁に話す仲の良い家族という自覚はあった。
青い顔で目を白黒させる反応は正常だ。虎斑も唇の片端を吊り上げて、両の眉を下げる。
「だよね。虎斑だったらバイキンや膿が怖くて絶対行くけどな。最も佑は怪我よりもお茶を楽しむ方を優先したかったらしい。手当が終わると礼を一言。顔を合わせて言ってね、また驚いた。涙一粒流していない。何もなかったみたいに席について、注文してたよ。何を注文したかも思い出せる。カフェオレ、ミルク多め砂糖少なめ」
「なんで」
「さあ。後から聞けば『すぐにどうにかなるものじゃないから』って。頭で考えることと感じることは別だろうに」
全く、わからんね。
平坦に締めくくる虎斑の、本当の動揺はいかほどか。
身内ですら佑のあまりの『動じなさ』には度々驚かされてきたが、冷静で我慢強い子なのだと思っていた。
しかし、否が応でも痛みは身体を苛むものだろうに。大怪我をしてなお?
(足、怪我……)
包帯を巻いたのなら、すぐに気が付くはず。一朝一刻で治りはすまい。様子から大怪我をしたとまでは思わずとも、見かけぐらいはしただろう。
記憶を掘り起し、彼女の足元に違和感があった日を探す。
「怪我ってどこらあたりですか? 具体的に足首とか、太ももとか」
「足首から膝の間」
かなり広い範囲だ。時期は半年前、まだ佑がいじめられていると知る前。学校に通っていない頃。
「あっ」
そうだ。十二月の肌寒い朝、制服で部屋を出てきた佑の左足がおかしかった時があった。普段は脛の半ばまでの黒靴下をはく。
だが、その日はいつもより長い膝までの白い靴下。しばらく白い靴下を着用し続けていたが、いつの間にか黒に戻っていた。
疑うという思考を持っていなかった当時の鳩は何も思わず、見過ごしてしまったのだ。
――あれは怪我だったのだろうか。
両親ならば気付いたのかもしれないが、本人が何も言わないので大した怪我ではないと思ってしまった、というのはありえなくはない。
こまめに取り換えていたのか、血もついていなかった。
理由を考えても、事実を知ってしまうと不自然に思える。置かれていた環境や学習状況以前に、家族として間抜けに思え、顔を覆う。
恥じ入って顔をあげられない。
「あれ、てっきり別れた後で病院にいったもんだとばっかり」
「保険証は両親が持っていますから、病院に行ったなら理由を含めて知っているはずです。ですが話題にすら出た覚えがないので、恐らく知らされていないし、行っていないかと」
「うーん。もしかすると、時間が経ってみたら案外平気で、まんまにしちゃったのかな? でも化膿してないなら自分で処置したのかも」
「佑ならありえます」
「どうして」
何故そのようなことを聞くのか、とたじろぎ、思い出語りの由来を思い出す。エピソードから彼女について予想しようという試みだった。
どうして。どこが。自問自答で繰り返す定型文。自分でやればなんともないのに、他人に言われると責められている気分になって、心に向かって跳ぶ針にしてしまう。
根底であるはずの前置きが、チクリと刺すような痛みで霧散しかける。
考えるうちにすぐに何をしていたのか曖昧になる。ここ数時間でわかった鳩の悪い癖だ。散々流されるまま生きてきた弊害か。
佑の影響かと考えたが、違う。彼女は流されるような人間ではない。どうしようもなく自分を貫く。身近な者と齟齬を起こしてでも。
「あまり自発的に話す人ではありませんでした。よく会話はしましたが、基本的に聞き役や受けて返すのが圧倒的に多くて。色々振ってみましたが、譲れない意見、信念……本当に、本音で思っていること、みたいなのを話してくれなかったような」
「ふむふむ。君の言う通り、自分を語らない子だったね」
「虎斑さんはどう思いましたか?」
「こういうのもなんだが。佑は自分に興味がない子なのかも」
「どういう意味です?」
自分に興味がない。虎斑の言いたいことがわからず、おうむ返しになった。
他人に興味がない、家族に興味がない、という人間はよく聞く。だが自分に対して無関心というのは有り得るのか。
嫌でも常にともにいて、直視しなければいけない存在。絶対に無視できない。一体いつ、何をみて どう感じ、行動したのか。全てを知っているのである。この世で一番関心がよりがちな対象では。
「悪く思ったなら謝る。ただ、彼女は自分を好きじゃなかったのかなって。普通、好きなものが傷ついたり失われそうになったら、その気配があるだけで怖くなるだろ」
虎斑の言う通り。大切なものを喪うのは恐ろしい。
だからこそ行動力のない鳩も、一度は一念発起して証拠を集めようとし、今はうちひしがれている。
「痛くて泣くのは生理現象だと思うけど、怖くてつらくて泣くのだって当たり前。でも虎斑は勿論、君の前でも一度も泣かなかったのだろう。おかしいでしょ? それに、よく言うじゃないか、好きの反対は無関心って」
「好きの反対は嫌いじゃないのですか」
「ん? けれど、例えばそもそも知りもしない人はどう思うこともできない。一緒だよ、関心を持てない人間は好きにも嫌いにもなれない」
「そういう見方もあるんですね」
人の心とその覗き方というのは、随分と複雑怪奇で多岐に渡るようだ。
もし虎斑のいう通りの心の在り様があり得るなら、佑もそうだったのかもしれない。
無関心だから、心身双方の痛みが何ともない。
つらくないから、泣かない。死ぬのも恐ろしくない。
それならば、遺書を読んだ時の直感も、墓での祈りで思ったことも納得できる。
墓場での連想にはまだ答えが見つからないが。もし虎斑がどうでもいい存在だったならば、友人としてやり取りなどしないだろう。
選びようもなく家族になった自分はともかく。
「そうとも。そういう見方もあるっていうだけで、本当にそうだったかはわからない」
「でも、それなら納得できることがあるんです」
一人で考えてもキッカケすらつかめなかった。そんな僕よりも、すらすら色んな可能性が浮かぶあなたのほうが彼女を分かっている気がするんです。
グラスの表面をつるりと水滴が伝っていく。まるで号泣しているかのよう。
項垂れて床に丸い影を落とす。話せる思い出話も特にこれといったものがなく、押し黙っていると何かが動いた。
床から僅かに目線をあげると、そこに虎斑の足があった。とんとん、と踵で床を小突いている。
「うーん、そうだなぁ。意見を肯定されるのは嬉しいよ? でもちょっと心配になるなー、少し虎斑の持論を言ってもいいか」
「どうぞ」
踵が床から浮き、爪先が重ねられた。ずっと見ているとどうしてか気まずくなり、ゆるやかに顔をあげる。
ばっちり虎斑と目があった。高速で反らす。
「納得は大事だよ。納得は人生で二番目に優先されるべき選択だ。生きる為に選ぶこと、後悔しない為に考えること、前に進む為に立ち止まること。なべて考え尽くさねばならない。納得の為に。うーんと、なんでそう思うと思う?」
「納得って、わからないことや嫌なことに理由を付けて、すっきりすることですよね」
「今回においちゃそうかな。後に回したって解決しない。一度迷ったなら、次またあった時の参考資料になるぐらいには徹底的に考え込んで、ひとつの型を生み出したいものだ。虎斑はそう思うんだよ」
随分とポジティブな考え。暖かく満ち足りた心になるには相応しい。合理的でもあるのかもしれないが、疲れた心には厳しい北風も同然。
「教科書でも作るんですか」
「辞書はどう? 『吾輩の辞書に』ってね。話がずれたかな。要はさ、納得しなければ結局、人生という海を渡るのに難航すると思うんだ。納得を辞書にし、海図にするには、徹底し尽くさなければならない。自分の為の資料を作れるのは自分だけ、なのについ自分には甘くなってしまう。だから、徹底だ。底の底まで鉄の靴で踏み抜いてみないと理想の答えは見えてこない」
「鉄の意思っていうやつがいるなんて大変ですね」
「大したもんじゃない。甘く生きる為に自分に都合のいい逃げ道を塞ぐ。これだけでも案外いい考えが浮かぶ」
手を振りながら締められた持論は、今までで一番難しい。矛盾だらけに思えるが、それがあらかさまだから、意図しての矛盾なのではという気がした。
「特に今回は君にとってとても大事なことでしょ。だから君がちゃんと納得できる考えを導いてほしくて。君の理想を見つけられるのは君だけだ。役に立てるのは嬉しいけれど、鵜呑みにされると申し訳ない」
「……ちゃんと自力で考えます」
「うん、協力は惜しまないよ」
きゅっとあがった両頬が憎らしい。
「いやあ生意気いってすまない」と頭をかくのは可愛いが、どこからどこまでが計算してからの行動なのだろうか。
「さてね、他には何があるかな」
「僕はまるで思い当りません」
「虎斑も思い出は幾つかあるが、心のうちが見えそうなエピソードといったらなあ」
遊園地での思い出。
ジェットコースターに乗った際に取られた写真がまた、表情がなくあたかも悟りを開いているかのようだった。
観覧車で一言も話さずに地上を睥睨し、いつにない集中具合は怖いほどだったという経験。
自主的に選んだ遊具はひとつもないという違和感。
ショッピングセンターでの思い出。
服屋ではよく選ぶタイプから全く好みでないものまで試してみた。
どんな服でも着こなして、どの服も特別気に入らなかった経験。
本屋では心理に関する書籍ばかり読み耽っていた違和感。
那谷木の公園での思い出。天気予報が外れて曇りになってしまった。
転んで怪我をした少女に素早く近づき、手当をした経験。
散歩中に犬とすれ違い、撫でようとして吠えられたが、鉄仮面のまま撫でていた違和感。
「こんなとこかなあ」
虎斑はもっと捻りだそうと首を捻っているが、鳩からすれば十分である。
日常的で平和な時間に思えても、かけがえのない思い出が、経験が、違和感が――ヒントが隠れていた。あっさりと忘れてしまった愚かさが悔やんでも悔やみきれない。
とんとんとコメカミを叩き、記憶が零れ落ちてくれないものかと期待する。ハタキでホコリを落とすように。とんとん、とんとん。
刺激が痛みにまで高まり、眉間に深い皺が刻まれたタイミングで
「そんなに思い出したいのなら、えー、どこだっけな、ほらあそこ、あそこだあそこ、行く手もあると思うんだが、何て名前だったかな」
「行く?」
「ちょっと待て、ここまで出ているんだ。ここまで」
胸元をチョップしながらバッグからスマートフォンを取り出し、操作する。人差し指でひとつひとつ、確実だが鈍い指先の動き。
「あ、わかったわかった! 『エンデュミオン』だ」
「えんづ、えん、エンデュミオン」
慣れない発音に苦心する。似た字面で『エデン』なら知っているが、『エンデュミオン』とはなんだろう。
「睡眠によるセラピーを行う店だよ。好きな夢を見せてくれるって近頃評判だね。個人的な興味もあって近々行こうか迷っていたんだが、君さえよければ一緒に行かないか」
「催眠による、なんですか。あるんですねそんな店が」
「もし催眠術ならば都合がいい。思い出させてもらえる」
思い出せる。警戒はあったが、そのチャンスはあまりにも魅力的だった。
テーブルに無造作に置かれた、シルバーのスマートフォンに顔を向ける。
「近いんですか?」
「交通の便がいいとは言い難いが、穴場っぽくてまたいいんだって。予約を入れておこう、いつにする?」
鳩が乗り気になりだしたと察すなり、置いたばかりの機械を取る。スピードはあがらない。
両手の指でぽちぽちとタップするリズムの間抜けさは、慣れない玩具に触れる幼子のようだ。
――期待はせずに……なんでもやってみよう。
いつも朗らかな笑みを浮かべている虎斑に触発されたのかもしれない。
久しぶりにむくむくと挑戦心が湧いてきた。質問してばかり、応じるばかりでは男が廃る。
走りたがらない馬の尻に鞭を叩きこむのと同じく、情けない悲嘆に対して叱咤した。
「ところで、君は佑の傷に全く気付かなかったのかな? 素人の手当てじゃあ痕とか残るんじゃあないの」
グラスの中身も飲み終え、席を立ったところで一声。
せっかく入れた気合いがまた萎しぼむ。気合いをいれたところで、まだまだ鳩は鈍い。
虎斑の問いは至極もっとも。
顔を赤らめて俯うつむくしかない。
今、こうして記憶をたどるまで、見たものを見たままにし続けてきた。その意味や意図を探ろうとしたことはない。
「いつもと靴下が違うな、って思った時があって。それかなあと」
佑はいつも同じ格好をしていた。毎日全く形、色の服という意味ではない。
月曜日から金曜日までは制服。休日は私服。その私服もまず青い服を着て、次の日には白い服、その次には薄桃、そうしてまた青い服へ。
このように完全にパターン化された組み合わせ。それこそアクセサリーに靴下まで『決まりきっていた』。
寒さの厳しい冬以外、春夏秋は全く同じローテーションで過ごす。
露出も好まなかったのだろう。たいていは制服と同じくらいの長さのスカートに、制服で指定されているものと同じ長さの靴下。
あのシャツならばこの靴、この靴下、このはき方、といった具合に。その形は絶対不変。
だからこそ『いつもと違う靴下』が強烈に印象に残ったのだ。
「その部分はわざとか偶然かいつも隠れていて」
「お風呂とか、遺体確認の時は」
「う、あの、その……家族とはいえ年齢の近い男女、素肌をじろじろと見るのは……。遺体の時は、顔しか見れませんでした」
これは自分のへたれた部分のせい。いや、しかし、両親ならば見ていたのではないか?
自分のために情報を伏せていたのかもしれない。
「本当、情けないです。すみません」
「気にするほどのことでもないでしょ。むしろこちらもすまないね」
そういって虎斑は頭を下げた。