親切獄卒(1)
ベランダに繋がる大きな窓から夕日がさしこむ。フローリングの床が橙色に濡れる。
だいぶ冷めてしまった紅茶を揺らしながら、青田が焼けていく空を鑑賞した。
「そろそろ遅くなりますねえ。次で最後にしましょうか……時間は大丈夫ですか?」
「僕は今日、友達の家に行ってくるといってきたので。多分、大丈夫だと思います」
両親は友人がいることが嬉しかったのか、二つ返事で了承してくれたが。
恐らく、多少遅くなっても大丈夫、だと思いたい。携帯電話だってある。いざとなったらLAINで通知をいれておけばよいのだ。
聞き続け、確かにだいぶ精神的に疲れ、心なしか肩も重いが、気合いを入れ直す。
「そう。親御さんがいいのなら、いいのだけれど」
そういって、青田は椅子の背もたれに体を預けた。カタ、と床と椅子の足がこすれあう。
熱心な生徒になったつもりで、すっかり張り切っていたが、相手もずっと語るという行動をし続けていたのだった。
謝るべきか。いや、それはそれで相手の善意に謝罪で返すという無礼にならないか。
迷う間に、青田は「ちょっと待っててくださいね」と席をたった。
別に何を求めるわけではないが、横の二人を見やる。
何となく不安だった。許されているかどうか。疑うこと自体無礼だおともう一方で、どうしても。自分では決められない。
虎斑はいつの間にかいなくなっていた。今更、彼女の喪失に気づく。驚いた。赤羽の肩を叩こうとする。
そこで、足音が聞こえてきた。青田が向かった方とは別の場所から。ぴょこんと顔を出す躑躅色。
「おや、貴成さんは?」
「ああ、多分、アルバムをとりにいった。すぐ戻るさ」
答えたのは赤羽であった。納得して頷いた虎斑の手には、新しいティーポットがあった。赤羽は眠たげに、頬を机に乗せている。やはりせっかくの休日に、迷惑だったろうか。今日何度めかの同じ問いが浮かぶ。
だが、赤羽は面倒そうな表情を浮かべ、ただ一言。
「気にするな」
それしかいわない。
「あの、アルバムって?」
仕方がないから、謝罪の代わりに質問をすることにした。
しばらく沈黙が下りる。赤羽に積極的にたずねると機嫌を損ねそうで怖い。気安く先生になってくれる虎斑に目を向けたが、困ったように肩をすくめてしまう。
心当たりがないのだ。
「家族とはいえ、人の部屋にはいって無用に探索することはない……と思うよ?」
「いい子ちゃんだねえ、全く。見られて困るものを見つかる場所に置く方が悪いんだから、探しても大丈夫なのに」
「そ、そういうものなんですか?」
「青田ならよ? 普通より隠すの上手いだろうし? 別に大したもんじゃない。ただのアルバム。親戚だとか、友達だとか。至って普通の思い出写真集」
「そんなの作ってたんだ」
「最近は忙しくてめっきりないねえ。ま、少なくとも、お前さんがまだ十にも満たない頃にゃあ撮ってたさ」
「えーと、すると、虎斑さんが子どもの頃にあった話、ですか」
となると十年前後さかのぼった話か。体感としては遠い話だが、エイネと比べれば随分近しい。
赤羽はようやく楽しそうに唇を尖らせる。ふーん、簡単な推理だけれど、その通りさ。
感心したまま続ける。今から語ろうという話は、最初の八木尾の数年後。
当時、まだ赤羽も青田もまだまだ新人であった。
ただ、赤羽は一般公務員であったが、青田はいわゆるエリート。今こそヒラで自分と組んでいるが、本当なら上司になっていたかもしれなかったのだという。
別段、青田が失敗したというわけではない。連帯責任を取らされただけ。
そこに至るためには、まず始まりから順に追っていた方がよかろう。
始まり。今の二人に至る、きっかけ。分かれ目。重要地点。
それは間違いなく彼女だ。赤羽の同期、「高野 清美」という女性。
純金の如き美しい金髪。妖精によって、瞳に月光を一滴たらされたような金眼。女性らしい流麗なラインを描く体躯、彫像のように滑らかで白い柔肌。
けれども瞳は相手を射抜くようで、厳しさと慈悲を持ち合わせた人。
生まれも育ちも日本。肉体的な両親は不明。すなわち、《天使》であった。
美しさもさることながら、常に倫理を求めてピンと伸びた背筋は、誇り高い。あれほど裁きの天使に相応しき者もいなかろう。
高野と赤羽は同期で、不思議とうまがあった。赤羽は少々血の気が多く、反対に高野は法による統治を望んでいたから、反発することもあったけれど。根っこにある性質が似ていた。お互い『熱血』だったのだ。
警察学校を卒業してからは、直接顔を合わせることは少なくなってしまった。彼女が《天使》であったためだ。詳しい話は聞いていない。メールなどのやり取りのなかで、ふと強い不満を感じた。それでおおよそ予想はつく。
美しく、気高く、珍しい。
彼女の性格上、特異な立ち場というのも気に食わなかったに違いない。
「んで、ここからアキ……青田のアルバムの出番というわけさ」
この時点では、青田は二人と知り合いではなかった。
しばらくしてのこと。
赤羽が所属していたのは生活安全部。少年・保安・防犯をつかさどる部。そこで上司となったのが虎斑の父(ただ、経験や任された事件の違いもあり、まだそう話す機会は多くなかった)。
語られる事件があった時勢。八木尾の事件によって《天使》に対する人々の在り方が大きく揺さぶられ、荒れた。無数の人々が騒乱の渦にのまれ、傷つき、答えの見えない未来に疲弊した。
大きく心臓を鼓動させ、ひたすら変化を待って耐え忍ぶ一分。心身を削る一秒、一分が気が遠くなるほど重ねられ、数年が経ち。吹き荒れた差異の暴風が、時折髪を巻き上げる程度に凪いできた頃。
注目の的として晒されてきた《天使》と家族たちが、ひそまず呼吸をできる時間の訪れに喜んだというのに。新たな波乱が這いよって来ていた。
西洋で活動していた「《天使》崇拝教団」とやらの支部が日本にできてしまったのだ。要はカルトである。
あちらでは地道に、怪しまれ、疎まれつつも、静かに己の信条を守っていたらしいカルト。
八木尾の一件にあてられたのか、日本のそれは数年をかけ、大きく変質した。
凶悪に。善の輝きに満ち。いっそ邪悪なほど。信者の血肉わき踊る有様の。
彼らによって、まだふよふよとした生暖かい正義感に浸かっていた青田、赤羽、そして高野の精神は壊れるほど揺さぶられることになる。
生活安全部では少年事件の防止・捜査以外にも、麻薬や覚せい剤の取り締まりなども含まれる。
カルトは独自開発した麻薬を所有しており、若い世代を中心とした中毒者が増加。
虎斑の父と赤羽も一大事件に駆り出された。が、数週間して突然環境が変わった。
混迷する社会。不安に揺れる人民。ゆらぐ警察の威信。
いつだって、暗い場所には明るい灯りが求められる。例えば、希望。例えば、夢。例えば、偶像。神。絆。愛。家族。キラキラして幻想と欲望にあふれたもの。
現代の偶像――アイドルとして、《天使》高野が担ぎ出されることになったのである。
やはり、不服だったろうが。
「彼女が踊る舞台、観客の心に光を投げかけるステージが用意された。愉快な神輿」
ドラマでよくある、特別捜査チーム、というやつ。いかにもドラマティックな。ノンリアルを馬鹿にして愉悦に浸りたい人間のかっこうの餌。
若く、運動神経抜群。何度も現行犯逮捕を行ってきた実績があり、剣道の腕もたつ赤羽。
どこからともなく必要な情報を集めてくると、捜査能力に定評のある虎斑の父。
顔立ちが整っており、成績優秀。将来は管理職と目されていた青田。
そこに《異能》を有し、神秘的な美貌を魅せる――正義の天使、高野。
他にも何人かいた気がするが、気が合ってよく話したのは、この四人。業務以外で深くつながったのは。ただ犯人を捕まえるという作業以外に、その性質を見ようとしたのは。
「うえからしたらお飾りだったんだ。でも、楽しかったよ。不謹慎かね?」
同志がいるというのは、たとえどんなに大変でも、嬉しいものだ。
そういう意味では、最高の時間だった。
麻薬の行先を捜査して、時に果敢に突っ込んで、叱られて。
きちんと考えろと、虎斑の父に何度説教されたか。最も、虎斑の父もそこそこギリギリの行動に出る人物だったが。
そういう意味では、他の仲間に多大に助けられていたのだろう。迷惑をかけていた、間違いなく。申し訳ない限りだ。
それでも、やはり、無情にも。自分たちにとってあの頃といえば、この四人なのだ。あの頃も、今も。
青田、赤羽、虎斑の父、高野。四人。
「だが」
ここに、高野はいない。
虎斑も知らない。
彼女に会えるのは、アルバムのなかだけなのだ。
今から写真とともに蘇るのは、灼熱とともに散った彼女の願い。