ウィ・ウェット(5)
ウィ・ウェット編完結。次回、エピローグのち、最後の天使へ。
限界が来た。
エイネの異能は明確に、この街というひとつの文明、ある種の生命体が終ろうとしていることを告げた。
栄光と豊穣を望む近隣一帯が同盟を組み、街に攻め込もうとしている。
問題はそこではない。武力的な脅威は、この街には何の意味もないのだから。
しかし、彼らの放った斥候が、街内で悪い噂を広めている。
そのせいで街内に二つの派閥が生まれ、空虚で歪な文明に割れ目が生まれた。いや、そもそも誰もがバラバラだったのだ。
文明による利便、利便による余裕で肥え太った欲望、自意識。
人間は不足によって繋がる。そうやってできるのが共同体=街であり、国。
だが、人々は己の不足の正体を見失った。物理的な食物や時間といったものだけが、人間にとっての不足で。それさえあれば万全なのだと思っているものたち。
彼らにとって、他人との繋がりは不足ではない。むしろ不足を埋めるための行為の、邪魔者。
「……なんというか、皮肉なことだな」
眠りを失い、人の常を失ったエイネ。それでもなお、人々を思って苦しむ心は未だある。
それが何とも不思議で、微笑ましい。
「バルティを探さなくては」
夜は冷え切り、空は暗い。
何故エイネにとって大事な時ばかり、この異能はまともに動かないのだ。結局、未来を知ってしまうエイネに未知の未来を紡ぐことはできないのか。
それはつらい。
胸中に渦巻く、どっぷりと泥を含んだ水のような思いを、もっともっと奥底へと沈めていく。
今や、自分にできることは、未熟な子どもが求める言葉を与えてやることだけなのだから。
○
――熱い。頭も体も心臓も、どこもかしこも火を吹きだしてしまいそうだ。だというのに、心臓の中心で揺れる『心』とでも呼ぶべき何かは、氷のように冷たい。
少年の戸惑いが、ちくちくと突き刺さる。長くなった付き合いもあるが、離れていても感じられるほどにバルタサールの動揺――そして慟哭は大きかった。
声を目印に居場所を『塔』から特定し、ホログラムを出現させる。
「あ、あ」
「大変だったようだね。こういうと他人事のようだが……今、私の話は聞ける状態かな」
呼びかけるも、バルタサールはすぐに答えを返せない。地べたに座り込み、何かを探しているようでもある。冷たい床に手を這わせては、時折びくりと肩を跳ね上げた。
ホログラム目線に設定した視界が、不自然に瞬く。天井をみあげれば、照明が破壊されて明滅している。
「……」
指を鳴らせば、新しい灯りが出現した。一気に夜が明るくなる。どうやら室内であるらしい。
床をみれば、そこかしこに人の手足が転がっていた。生きた人間はいないようだが、逃げるか皆殺しにされたか。
バルタサールは赤い血や肉片に触れる度、驚愕し、手足を滑らせて立ち上がることができない。
「あの、エイネさん、これは」
「終わりが来てしまった。この街には平和主義者も多い。が、しかし。それよりも他者を蹴落とすばかりに、行動に迷いがなく早い者の方が多かったようだ」
彼らは耳も貸さないだろう。
歩いてもエイネの足は死体たちを通り抜ける。全て見事に爆発四散していた。バルタサールの異能によるものだ。
彼の異能は激しい感情の波から起こる。彼は確かに荒々しい一面はあるが、根はお人好し。好んで誰かを傷つけられるなら、とっくに今までの扱いに声をあげていただろう。
「何をいってるんですか」
「よそから入ってきた、そうだね、文明が欲しい人たちが、悪い噂を振りまいた。君と私、どちらが本当によき天使なのかと」
「どっちが? そんなのはエイネさんでしょ、前にも……」
「いいや、きっと、君であるべきだったのだろう。少なくとも体裁は」
宗教の天使で、より当てはまる方をと呼び名をつけ、それに従って流された一位と二位の差。文明をもたらしたのは、エイネ。『役に立ち続けている』のもエイネ。
対し、バルタサールはその異能の狂暴性、内容ばかりが押し出され、実益に乏しかった。エイネは別にそれでもよかったし、ヨハンネもそうだった。
破壊の異能を用いずに済むということは、それだけ街が平和であるということでもある。
しかし、民衆のいくらかは違う。
異能を使う必要がない、という平和の証明より、使えない異能だという身勝手に注目してしまう者が増えた。
自分にとって都合よい天使を持ち上げて、その功労者として特別の恩恵を欲するもの。勝手に、エイネが不遇な状況に不満を抱いていると同情したもの。
圧倒的な暴力に、対する前から怖れをなしたもの。慣習にひれ伏すことで、根拠のない安堵に身を任せたいもの。
本人の全く望まぬところで、二人の天使を巡った対立が起こされたのだ。
ここにいるのは、バルタサールの異能と性質を見誤り、侮り、痺れをきらし。夜襲を仕掛けたせっかちな者どもだ。
「けれど、こうなってしまったからには、仕方がない」
正当防衛だとしても、最早人々はバルタサールを天使とは思わないだろう。悪魔だとなじり、普段は隠した悪意をぶつける役割に変えるかもしれない。
昔と比べれば、身も心も成長したといっても、まだ思春期程度の年齢。そんな状況に立たされれば、暴走してしまう。
時間が経つにつれ、少しずつ新しい法則や倫理といった概念も育つだろうと思っていた。
実際、発達の試み自体はそこまで悪くなかったのだと思う。
魂にそびえる高く険しい崖、そこを登るより落ちる方がずっと速かった。
信じるものが報われるとは、限らない。皆、違うことを信じている。
「宗教通りにいうなれば、ここは既にソドムとゴドラか。流石に大げさかな」
「滅ぼすんですか?」
単刀直入に切り込むバルタサールに、久しぶりに苦笑した。
実際、その通りなのだが。
「ちょっと成長しすぎたなって。多少の異物は新しい可能性のうちだーってのんびり構えていたけれどね、もう、やりすぎたかなあって。これ以上混沌としていくと、そろそろ文明を超えた範疇に足をつっこみそうだ」
例えば、科学。例えば、倫理。例えば、哲学。例えば、命。例えば、戦い。
純粋な知識から、精神・無形に踏み込む。
そこは今までの、天使によって何もかもが用意される世界ではない。全く未知、全てが暗闇、ひとつ掴むのにも空虚の浪費を強いられる次元だ。
その労苦に、耐えきれるか?
あまりに大きい文明のバランスは、水がいっぱいに入った宙の甕のように、一気に崩壊をもたらす。今までのように、最低限の節度、約束を守れないのなら、彼らは最早与えられた文明を用いるに足らぬ。
知を扱うには、品が必要なのだ。
教養――将来的に誕生する『学歴』という意味ではない。知を集め、己のものとする習慣のようなもの――こそが、人を知性の徒たらしめる。
学ぶことへの慣れがない。慣れが染みついていない。ゆえに、積み上げられたものがない利器の、知の使い道をあっけなく誤る。
人は、なにゆえ人なのか。
「ちょっと、移動しよう。最期に、話がしたい」
本当は。もっと早くすれば。
それは間違っていると思った時に、すぐにやめてしまえばよかった。
――自分だって、『親への義理』といって、言い訳をしてしまった。本当は、悪意をぶつけられることが恐ろしかっただけなのに。誰も守ってくれる人がいなくて、怖かっただけなのに。
ぐだぐだと、希望を先送りにし続けた結果が、これ。
「……結局、私が悪かった。自分を他人に任せて、よいことなどない。使わぬ知に意味もない」
使い過ぎた知恵は、それ以上に愚か。
最悪の道化は、自分だったのかもしれない。高みの見物で、傍観者になったつもりで。
バルタサールが呆然とした表情で己を見上げた。
エイネはやんわりと微笑み、誤魔化す。
「『塔』に行こう」
○
高くそびえる白き巨塔。心なしか、夜中ですら蛍の如き幽かな光を放っているような気がする。
「上へ」
エイネが空を指すと、歪み一つない表面に切れ目が浮き上がり、急ごしらえの扉が開く。無言の彼は、エイネに招かれるまま箱に入る。
しかし、いつもなら上に昇っていく箱はうんともすんともいわない。
「バルティ、気が動転していてすっかり言った気になっていた。今、私には君にあげられる選択肢が二つある。君自身で新しいものがあれば、そうしてくれて構わない」
「その二つって?」
「一つは、このまま塔に昇り……一度、全て真っ新にしてしまうことだ。もうひとつは、ここにある機械を使って、君を遠くに送ってしまうこと」
「遠くってどこまで。あそこにある山の向こう、それとも海の先?」
「大陸を二つ、三つ越えた先。言葉すら違う国になってしまうが、結構有名になってしまったから。新しい生を歩もうとすれば、それぐらいした方がいい」
「じゃあ、もうひとつ」
バルタサールは箱から出ない。虚像の天使を直視することを避け、つるりとした床に目を這わす。
「どうして壊す必要があるの? 逃げちゃえばいいのに」
「もう逃げられないからね。私は、本当はもう、ここから動かない」
ホログラムに心をのせれば、どこへだって行ける。ここに残した道具は無防備になる。
それを防ぐために。エイネの過ちを、腐った知恵の実を、種にまで戻してしまうには。
エイネの心が死んでも『塔』はなお遺る。ロックを掛ければ多少は長持ちするだろうが、永遠ではない。
遅かれ早かれ、知恵の門は荒らされる。現状、人類に存在しない合成物質でできた『塔』を内部に保管された資料ごと破壊するには、同じく未来技術を以って行う自滅のみ。
「『そこまでしなくていい』。その思いで、どこまで泥沼に落ちただろう。技術を渡すことだって、最初はそういう気持ちだった」
誰よりも、異能に溺れていたのはエイネ。
理屈を問うことばかりうまくなり、本当は何も見えていなかった。身体を失い、全ての凹凸が消え失せ、直立する。他者を見ることに優れ、己を見下ろすことも危うい。
実に、エイネに相応しい異形であった。
ぽろぽろと壊れていく、蓋。エイネが無意識のうちに被せていた仮面。
今まで慕ってくれたバルタサールには、申し訳ない気持ちがないでもない。けれど、最後の最後くらい。
いっそ己を壊すこと、全てをまっすぐに見たい。そう思ったのだ。
――私の、完全な我儘。
「エイネさん、扉を閉じて」
「いいのか」
「遠くに行っても、やることない。目の前のことを捨てたら、心が自由になっても、心はここに囚われてしまう。そんな気がする」
うつむいたままの顔は見えない。塔内であれば、どの角度からでも見れる。エイネは、無性に少年の表情が見たくなった。
だが、それは応えてくれた彼への、侮辱である。
エイネは黙って扉を閉じた。
「他にも隠してることあるでしょ」
自棄であるとはすぐにわかった。吐き捨てる口調は、初めて会った時のことを思い出す。あの時は、とてもよく晴れていた。
「うちの母さんのこととか、さ」
「……」
「いってね。『最期』くらい、全部知っておきたい」
「……ヨハンナさんは、お父さんを、トシュテンを殺した」
それを知ったのは、体が完全な異形になる寸前のこと。エイネの異能が教えてくれた。
トシュテンが消えたあの日、彼は《天使》のあり方についてヨハンナと言い争いになり。興奮するヨハンナをなだめようとして、崖から足を踏み外した。
崖といってもそう高くはなかった。だが、枝が腹部に刺さってしまい、身動きが取れず。すぐに助けを呼べば、それこそエイネを呼べば十分に救えた。
しかし、ヨハンナは迷ってしまったのだ。
トシュテンがいなくなれば、エイネが才能を存分に扱えるのでは、と。
『エイネは現状、トシュテンのもとでこじんまり、最低限命を救えればよいと思っている』
自分たちとは百八十度異なる親子の会話に、そう悟ってしまっていたから。
それでも一時は、命優先とエイネの元まで舞い戻った。戻る間に、時間はだいぶ経過してしまったが。
ゆえに、エイネにきかれた瞬間。彼女には、二つの返答があった。
「トシュテンさんが怪我をしています、助けてください」
「トシュテンさんは、後で帰ってきます」
そこで、再び悪魔が囁く。
こんなに時間が経った。もう、トシュテンは助からない。
ならば、下手に悲しませるよりも、このまま。誰も、何も、知らなかったことに!
正しくはなかったのかもしれない。だが、面と向かって罵る気持ちにもなれなかった。
それほどの激しい感情をもつ力が、既にエイネにはなかったし、悪行にも正義はあると知っていた。
手の甲が真っ白になるほど拳を握りしめるバルタサールに、彼の母親をなじるような真似はしない。
その話は通過点であって、エイネにとっては終わった話なのだと、次を続ける。
自分の為の話を。
「《天使》は、心の生き物だ。身体ではない。きっと、我々は湿った水銀のようなものでできているのだと思う」
今まで誰にも話さず、己の中で漠然と、詩のように編んできた仮想を騙る。
きっと、学者に話せば「貴方らしくもない」と鼻で笑われてしまうようなこと。
「心は流動する。例えとどめようとしたところで、感情に従って変質することを避けられない。身体の制約を、最初、私たちは持たないんだ。それは定められた型から完全に解放されていると同時に、精神が血管そのもののように全身を巡っていることを指す」
寝言じみてぽろぽろ、ぽろぽろ。唇から、泡が弾けるように。唇を言の葉の真珠が転がり落ちるように。
「精神こそが、全て。魂であり、血肉。想いがひとつ芽生える度、熱い血を送る心臓が出来上がっていく。
本当は、これは人間と一緒なんだ。人は心と肉が一緒に生まれ、それを命と呼ぶ。私たちは心が先にあり、感情が肉を作る。それだけの違い」
「じゃあ異能は? 皆、違うっていうじゃないか」
「異能は、肉体に縛られる人間よりも、ずっと深く精神のあるところに繋がることができるから。人はその分、いくらでも心を変容させられる。二本の足で大地に根をはり、器用な腕で遥か遠いものを引き寄せることができる。他人だとか、知識だとか、非合理の実現とか。
天使は、その能力が弱い。だから、親という導き手が必要だ。人間は皆、先生なんだ」
――最もこれは、私の体感から生んだ仮説。案外、真実はでらためかもしれない。
エイネは自嘲する。久しぶりの心からの笑みだった。
自分でも、まるで根拠のない話だと思った。なのに、一言告げる度、身体が軽くなっていく気持ちになるのは何故だろう。
このホログラムは本物のエイネではないのに。
「私たちは、人間と同じ。心のある生き物なんだ。だから、この街は、私たちは、今の世界に相応しくない」
釣り合わない。自分で生み出したものに、追いつけない。
酷くのろまにやってきた絶望。微睡みのなかで、急に背中にナイフを刺された心持。
心は、賢くて、愚かで、醜くて、美しい。
自分もそこにいる。やっと、ようやく、実感できた。
それが堪らなく嬉しい。ゆえに、心もつ、手足ある生き物が愛おしい。
「頂上に着いたら、そこである道具を使う。対象はこの塔だけれど、余波で軽く街が吹き飛ぶ」
「全然実感できませんね」
「君も手伝って。一人はちょっと、寂しい」
本当に、今更ながら弱さを吐き出して。最悪の先輩だ。
それなのに、お互い、こんなに迷いがないのは。
ずっと前からそうしたかった。これに、違いない。
世界で誰より強かで、弱く、叡智と愚鈍に振り回された二人による文明の浄化。
それが、正義ある悪行であったか。全てはのちの人間に丸投げされた。