ウィ・ウェット(2)
肌を柔く揉む寒風。表皮に滑り込む冷気。
秋に差し掛かる頃には、毎年訪れて街中を渡り歩く。自然のマレビトだ。
わが身を通り抜ける間、ふわりと魂が肉体から浮き上がるような感覚がする。
エイネは、その時間がとても好きだ。新しい今日が来た、という気持ちになる。
隣でのんびりと弁当を食む男を、少し大きめの声で呼ぶ。
木々が所せましと茂る森では、落ち着いてなだらかなエイネの声もやまびこのように響いた。
「今年は冷える。冷害という域にはならないけれど」
「それはよかった。エイネ、他には何かあるかい?」
「ううん。言われてみると、でも……なんでかな」
エイネが一歩踏み出す。とたん、つんのめった。固くも緩和された衝撃が爪先にはしった。
足元を見下ろせば、湿った大地のうえに口を開けたネズミが転がっていた。
かかとで転がしても反応がない。死んでいる。冷え切って、完全に魂が肉体から切り離された抜け殻。
「なるほど」
「?」
「お父さん、帰ろう。今年は大変だ。準備をしなくちゃならない、幸いまだちょっと時間はある」
切り株に腰をかけていた《親》である男――トシュテンに駆け寄り、せかすように手を掴む。
弁当を食べるためにさらされた五本の指は氷のよう。しかし、エイネがぎゅっと握っていると熱が移って温まっていく。
「ね、帰ろ」
「……嗚呼、まあ、そうだな。そうしよう」
勝手に次々と『知っていってしまう』エイネの言葉は、時々トシュテンにはわからない。
しかし、エイネはトシュテンの子どもなのだ。親なら、信じてやるのが大切だろう。本当に大変なことなら、きっと言ってくれる。
そう思い、喉元まで出かかった質問が出ることはついぞなかった。深く問うこともなく、ひかれるまま後をついてくる彼に、天使は少しだけ微笑んだ。
○
森を出て、揃って空を見上げた。家を出た時から、太陽が輝いている箇所の緯度が変わっている。そのていどの時間をかけ、二人は村へ戻ってきた。
太い丸太で作られた、無骨な門が小さな村をぐるっと囲んでいる。侵入者予防に、先が錐のように尖った入口。エイネも一役買った特別製だ。しかし、ゆえに村人はなるべく正門を使おうとしない。
村に足を踏み入れる。とたん、いくつもの視線が二人を貫いた。決して好意的なものではない。生まれたときからこの村の民だというのに、歓迎されていないのだ。
森で獣にでも襲われ、帰ってこなければいいのに。そうとすら思われていたに違いない。
――実際、錐の門ではじきたいのは《天使》という異物なのかもしれないな。
記録される出来事であれば何でも知っているエイネだが、人の心を直に見通すことはできない。
確かに、エイネは異物であった。
しかし、それがどうだというのだ。この世で異物でないものなどない。
エイネもそうだし、トシュテンもそうだ。
忌避の目、奇異の目。くるくる回る眼球が、どこの誰を見て、何を脳裏という網膜に映しても、エイネとトシュテンは変わらない。変われない。
『化け物が帰って来たぞ』
呟きが、《天使》の耳に届く。そちらをチラリと見やったが、声の主は知られたことに気づきもすまい。なにせ、数十メートルも離れた場所にいるのだから。自分の呟きが知られているとも思っていないはずだ。
「如何したんだ、エイネ?」
少し曇った子どもの顔を、親が覗き込む。彼は村人の感情の機微はそこまで気にしないのに、エイネのそれはやたら気にする。村人たちの態度は彼にとって許容しがたい不当なものであるからだ。
エイネは彼ほど気にしていない。トシュテンが怒ってくれる。
加えて、村人たちの態度は麻布だ。ごまかした欲望を集団心理で後押ししただけ。頑丈でとげとげしいのに、存外頼りない。
幽かに苦笑し、
「直接語った時に得られない利益を惜しむ。二兎を追う人さ」
つい、また意地悪をしてしまう。首を傾げる父親に、自分までも困った顔をして、最後に誤魔化すように笑う。
子どもの悪い癖。絶対に答えられない、わからないとちゃんと理解しているのに、使ってしまう。知識自体は所詮異能によるものだ。優越感などない。
あえていうなれば、確認、だろうか。
「ごめんね、お父さん。でもね、ちょっと、楽しいな」
自分が知らないことを――心を――誰かと考えられるのは、この時だけなのだ。なんとも不揃いで愉快な話。
「また、悪口か?」
「一応ね」
自分と違うものを見つけて、受け入れられず、受け入れようともせず、積極的に排他しようとする動き。
しかし、エイネの異能がもたらす恵みが惜しくもあって。媚びるのはプライドが、虐げることは欲望が邪魔をする。エイネは一見して、見目麗しいために余計に。
性別がはっきりしていれば、『異性』としても消費されていたかも。
その『可能性』は、生まれた頃から知っていた。人生を左右しかねない要因だったからだろう。
この事実は、エイネとトシュテンの性質が、出現時点でほぼ不変といえるまでに、強固なものであったということでもある。
エイネは知っている。自分たちを変えるのは、いつだって知識から生まれた恵み。かといって、恵みは世界を変えるとは限らない。そして、自分が変わったとしても、それは教養や品位の問題であって、人格そのものが変わることはそうそうないのだ。
彼らがいくら二人を道具にしたてあげようとしても、無理。
と、ずっと思っていたのだが。
エイネのハイエイドな異能にも限界があるらしかった。容量や性能に多少の差があっても、結局は人間の脳味噌とほぼ一緒だ。
時に、重要な情報であっても処理が追いつかない時がある。
あるいは、運命というものかもしれなかった。神様なのかもしれなかった。
思し召しを回避する可能性を得るためには、まず対峙しなければ。
そのためにはなんにせよ、早く帰らなければいけない。
○
木と石で作った簡素な小屋。村の中心からは外れているが、郊外というほどでもない。立地はそう悪くない。家の数も他の場所と比べると多い。しかし、人のすみかの数と裏腹に、一帯は閑散としていた。
エイネが現れたから。或る一家は引っ越し、また或る家族は近しい別宅に身を寄せた。
大地に連なる祖を持たぬ。根無し草より連ならぬ。
悪霊のようにたちのぼった怪異では? 神秘と見せかけて人をだます悪魔では?
はたまた、吉兆をもたらす異変では? 人間の域を超えた利用価値があるかも?
なんにせよ、彼らは人と同じ生まれを持たないエイネを『身内』としては考えなかった。新しく生まれた子どもだと考えたのは、トシュテンだけ。
他者と異なる見解を示し、譲ろうとしなかった父親。妙に落ち着いて、性別を隠す子ども。
自身を普遍的な正義と信じる村人と、違和を覚えるも異物を庇う義理のない村人。
そうして恐怖と保身といった各々の感情から、賑わっていた一部は閑散とした空きスペースとなった。
直接の嫌がらせは、エイネが怖くてできない。二人で心穏やかに過ごすには、この小屋さえあれば十分だ。
しかし、わざわざ訪ねる者もない二人の家の前に、尋ね人があった。
見慣れぬ二人の若者である。かたや、痩身の乙女。かたや、火を透かしたような赤毛が眩しい少年。
「こんにちは」
目を丸め、咄嗟に言葉が出ないトシュテンの代わりに、エイネが挨拶する。
これこそが愛すべき災厄である、と知りつつも。にこやかに。