ウィ・ウェット(1)
「ちょっと、ちょっとだけ、休憩させてください」
「おお、若いねえ。気分悪くなっちゃった?」
にやにや煽る赤羽に、鳩は憎しみを覚える。
誰かが嫌だと思ったことは何度もあるが、これはそれとは全く違う。新種だ。なんだこの気持ちは。
八木尾 夕映菜の気持ちを考えると、今にも嗚咽しそうになる。胃に収めた紅茶が「もうたまらん」と出ていきそうだ。
口元を抑える鳩に追撃しようと開かれた唇に、誰かがきつね色の菓子を詰め込む。
露出の多い腕。大人にいじめられる子どもを見かねた虎斑だった。
「赤羽さん、クッキー食べててくれる?」
「アッハイ」
「鳩くん。洗面台ならあっち」
「ありがとうございます、失礼します……」
駆け足で飛び出していく鳩の背を見送り、少女は嘆息する。
大人げない大人二人。悪趣味だ、とでもいうように流し目で見やった。対し、青田も赤羽もほけほけと笑いを崩さない。
「よりによって、《天使》が人間に裏切られる話だなんて」
「えー。だって今、幸せそうじゃなーい、彼? そういう時に苦労しておいた方が楽じゃん。どうせもう終わった話、実際あった話。つらいものは視さえしなければ平気とか、バカいわないよね」
「いい話は君が知っているでしょう。憎まれ役が余っていたから引き受けただけです」
一見イイヒトぶっているが、その裏には無邪気な若者苛めが楽しい、とはっきり書かれている。
耐えられないと思ってもいう性悪ではないから、彼らなりの少年への信用と期待なのだろうが。年齢に見合わぬほど無知で無垢な鳩には、少々刺激が強い。
一方で二人の意見に賛同もしている。
痛みを乗り越えるには耐える必要がある。耐えて、苦痛の形を見極め、高い壁に手足をかけられるとっかかりを探す。
心の防壁を剥がされるのろまな拷問。苦悶の時間を終えるまで、壁を後ろから支えてくれるのは大抵かたい意志だ。
例えば、幸福だとか信念だとか。積み重ねが甘いうちは、時間がたつと揺らいでしまう希望。だから、今のうちに、ということには納得している。
「それで? 他にはどんな話をするつもりなんだい」
理屈は正しくても折れてしまえば元の木阿弥。
次も激しい善意の意地悪が続くようであれば、助太刀しなければならない。鳩が鋭過ぎる問いかけと鍔迫り合いをできるように。
先程も頑張ってはいた。しかしモノによっては最後に行く前にスタミナ切れを起こす。
何より、ただ丸く考えるだけではこの2人は満足しない。
「うーん。とりあえず、語りやディスカッションの時間を考えると、三人が限界だろうし。次は《エイネ》について話そうと思う」
「あの都市伝説みたいな?」
意外な名前に首を傾げる。
当事者が若い大人になる年月しか経っていない八木尾の件と比べ、リアリティの薄い伝説だ。
外国、大昔、ハイエンドな異能。
身近で我が事のように考えられる存在とはとても言えない。
「確かに嘘みたいな存在だけれど、本当だからね。少年って、ああいう話、好きだと思うんです」
「うんうん。俺も子どもの頃、初めて聞いたときはワクワクしたよ」
懐かしそうに目を細めて頷く赤羽は、本当に楽しい話をしようとしているように見える。
――それでもやっぱり、人間と不仲な《天使》を選ぶのか。
正確に言うと、彼(あるいは彼女)は人間を嫌っていたかはわからない。あくまで、人間を大量殺戮した、という事実があるだけだ。
最早神話の人物のように扱われ、しかし確実に存在した《天使》。
もしもエイネがいなかったら。エイネが別の選択をしていたならば。きっと今の《天使》と人間は全く違う未来を歩んでいたかもしれない。
「ワクワク、ねえ」
「しなかった?」
「どうだったか。まあ、ユメのある話だとは思ったさ」
そろそろか。廊下へ耳を澄ますと、とたとたという足音がする。随分と遅く、頼りない。不安定なリズムはそのまま彼の精神状態のよう。
――これもまた随分な話。だが、一応、クッションくらいになるかもしれないな。
大人ぶっていても、無邪気な子供は少女のなかにも住んでいる。虎斑もまたほんのりと笑って、空っぽになった少年のカップに紅茶を注ぐ。そして少年を待ち構えた。
エイネ。苗字も何もない、ただのエイネ。天使様と羨まれたその人は、あくまでそういった。
その《天使》が生きていたのは、西暦600年代。はるか遠き今昔。
《天使》を祀り上げ、世紀の大発展を遂げたエイネの街は、現在はもう跡形もない。
人類と《天使》の共存を望んだ智天使。
数少ない当時の資料には、エイネについてこう記されている。
『地上に在る知識の門番』
装飾の多い文章で綴られた記録。まだ実在していた頃に、街と交易をしていた商人の手記の一文。
なんでも、エイネはこの世の全てを識っていたという。
誇張ではない。脳髄という知識の泉に沈んでいたのは、過去、未来、文明における何もかも。
そのエイネが、何故己の住処を破壊したのか。謎は今日に至るまで審議され続けている。
人間に尊ばれ過ぎた天使。