アンドろいど:エピローグ
アンドロイド中継
中継係のお人形
比較的、平和な終局ではあったのだろう。あくまで人間にとっては。
大したことはないとはいえ、異能を暴走させ、一人の少年を怪我させてしまった夕映菜は多くの人間に疎まれた。
幼い猛獣など身近に置いておけない。異なる点が際立っているために、安易にできてしまう区別。恐怖と悪意に彼女はおしつぶされた。
「どうなっちゃったんですか?」
びくびくと問う鳩は、一歩間違えばわが身、と恐ろしくてならないのだろう。少女のように両手でカップを包んでいる。親指がふちに引っかかり、がりっと耳障りな音をたてる。
解答者である青田は、角ばった指の節を撫で、焦れる鳩の時間を弄ぶ。
「学校に帰った八木尾 夕映菜さんは、心機一転、ふっきって幸せに――」
「おお」
「ならなかったよね」
「ええッ」
早合点して安堵を述べかけた。しかし、つかの間の歓喜を嘲笑うかのようにもう一人の男が口を挟む。
ちびちびと舐めるように紅茶を飲み、口をつける度「アチッ」と漏らす姿からは、たった今放たれた辛辣さは感じられない。
「だってさー、元々『私、誰かを見下して楽しんでます。相手は苦しんでます』って子達は放っておかれてたわけじゃん? 派手な喧嘩になったらコトとか、面倒とか、関係ないとか、なんかヤダとか、そんな感じ? それでいざ物理的な『結果』として残っちゃう問題が起きたら、そっちに夢中になるのが野次馬ってモンでしょ」
「え……なんでですか」
「じゃあ君、もしアキ――青田が君に殴り掛かったらどう思う?」
「何で私なんですかね?」
「それは、嫌ですよ」
「怒る?」
「まあ、それは」
「そういうことよ」
意味が解らず首を傾げる。
「あらやだカワイ子ぶっちゃって」
また幻聴が聞こえて。
「とにかくそういうことなのよ。大抵の、特に感情的になりやすい繊細なヒトタチって奴は、目の前で起きて、目に映る三次元な出来事が一番だって思っちゃうの」
「もしこの人の立場になったら、とは思わないのですか?」
「思わなくちゃいけない理由がないじゃないか。目の前で起きてることがホントじゃないって、信じないでいなきゃいけない理由もない」
「何を……そんな、『見ないでいる理由』、見て見ぬふりをしていい理由なんてあるわけが」
「そうでしょうか」
「うぐっ」
今度は青田が、鳩の意見をひっくり返す。
――この感覚、前にもあったなあ。
つい先日のようで、ずっと前のような出来事。
鮮烈に鳩に焼き付いた経験。優しく背中を押してくれる甘美と己の未熟を思い知らされる痛み。
これは、あの時の鋭い追求の嵐にとても近い。
彼らは虎斑と比べると、切り込む刃を研ぎ過ぎているが。しかも追求者は二人。正直、恐い。
「では、鳩くん。お尋ねしますね」
「ハイ」
「貴方が、『見て見ぬふりはよくないことだ』。そう思う根拠は何ですか?」
「自分がされたら嫌だからです」
「もうひとつ。何故、自分がされたら嫌なことを他の人にやってはいけないのです? 逆に言えば、自分が嫌でさえなければ、何でもやってよいのですか?」
「えッ」
「ダメ。そう思うのですよね。どうしてそう思うのか? はい、五分あげますから考えて」
どうして? 真っ先に浮かんだのは、「それが普通だから」という答えだった。
すぐに自分で否定する。
そうやって流されるままの意見。だから、かつて後悔したのではなかったか。
虎斑が信頼する人だ。重箱の隅をつついて意地悪をしているわけではあるまい。必ず理由がある。
まだまだ回転が鈍い脳味噌を叩く。
思い出せ、考えろ。きっと、今までにそのヒントがあるはずなんだ。
――今まで!
はっと閃いた。
そうだ、彼らは虎斑に似ている。やり方が彼女に似通っている。ならば、この答えも彼女がいう『納得』に通ずるものがあるのではないか。
自分の意思で考えること。自分自身の心で思ったこと。誰のせいにもしない純な思い。
わかった。
自分がされて嫌なことは人にもやっていけません。その通り。
だが、教えられたまま表面上の意味に甘えたそれは鳩の答え、そのものではない。あくまで『誰かの言葉』に頼っている。誰かのおかげで正しいんだと、自分の答えを疑っている。
疑いを心苦しく感じる時点で、これは本当の答えじゃない。
「もし、」
「もしはNGワードにしちゃいましょう。状況という仮定を想像すると、理由よりそちらに感情が寄りやすくなってしまいます」
「……誰かが『嫌だろう』ということは、客観的な目線で見てもわかります。わかっているのに誰かを傷つけることは、故意であって、なんというか」
「なんというか?」
やんわりとした口調で先を促される。ハキハキとした喋り方の虎斑の時は、「急がなくては」といつも思っていた。早く考えねば、と。
虎斑が吹き抜ける一陣の風ならば、青田は川の底を流れて丸まった小石だ。規則なんてないはずなのにリズムよく先を行く波に乗せられている気がする。
不思議と自然に言葉が出てくるのだ。
気づくとやや不気味にも思う。もしや催眠術でも使っているのでは。じっと優しい相貌を見つめてみる。
日光を反射して輝くメガネの向こうで細められた目からは、心情が窺えなかった。
「悪いと思っても、思うだけならやめられるはず、というか」
「というか?」
「……自制心に欠ける?」
なんかちょっと違うな。自分でもそう思った。
目の前の眼鏡は微かに頷く。一方でその妥協を見逃さないものがいた。
「自制心だと及第点? 自制って、なんで自制しなきゃいけないのさ」
「だって、えっと」
「どうせ相手を傷つけても、自分が傷つくわけじゃない。じゃあ、なんで他人を傷つけて自分が楽しむのはイケナイの?」
「自分勝手じゃないですか」
「でも人間って、自分勝手になれちゃうぜ。障害がないならなおさら。なんで君はそうしない」
「そんなことをする僕は嫌です」
「はいそこー。そういう『自分と他人への対応において誇りを持つこと』。他にも色々あるだろうけれどひとまずそういうことにしよっか、で、俗にそういうのをなんていう?」
「………」
尻を叩くような応酬。思考速度が遂にオーバーヒートして、黙り込む。
赤羽は案の定待たず、唇を尖らせる。のどを湿らすためカップに手を伸ばし、また「アチッ」と叫ぶ。
「道徳、品性、プライド。一般的に常識の一言でひっくるめられちゃう、互いが気持ちよく生きるための理屈。その底辺を支えるのは、即物的な利益を無視した精神的な利潤と防衛だ」
「はあ」
「要はラブですよ、ラブ。自己愛、友愛、隣人愛。他人に共感し、大切に扱うことをよしとする精神性です」
独り言と変わらない彼の説明を青田がまとめなおす。ついでに、指を折り曲げてハートを作った。
それでいいのか。赤羽のほうを見やっても机に頬を直接くっつけてだれている。見ているばかりだった虎斑も「いつもこうだから」といいつつ若干呆れた様子だ。
「赤羽くんの言う通り、誰かを思う心、精神を大事にする価値観はその気になれば捨てられるものです。ですが、それを実行することと可能性のままにとどめておくことは全く違います」
「黙っているならわかりませんけれど、直接やられたらつらいですものね」
「ええ。優しい理由を抜きにしても、個人的には教官は大事だと思いますよ。人間が生物である限りある程度感情に左右されます。その感情、心を損なう……そうですね、君はもし、八木尾さんのように扱われたら、相手に友情を感じられますか? 進んで助けになりたいと思いますか」
「無理です」
佑ならばそうしただろうが。
「そうでしょう? 人間は幸福になることを求めます。自発的な知性、心を持った生き物ですから。傷つけばその分、傷つけられないより気力がなくなります。すると行動ができなくなる。他者に恵みをもたらす可能性もあったかもしれないのになくなる、というのも十分にありえます。単純に荒む、傷ついたその人を見て誰かが悲しむというのもあるかもしれませんが」
「誰かを傷つけることは、遠回しにその人以外も損なう、ですか? 自分の利潤を求めて他人を犠牲にしたけれど、結果的にそうではないと」
「『その時に』存在する恵みを奪うことはできるでしょう。ですが、そののちに『新しい恵み』が発生する可能性が下がります。多少つらい思いをして鍛えるのも大事です。しかし、それは『越えられない壁を乗り越えるための痛み』であって、『誰かに傷つけられても我慢する精神力』は別のものです」
とある一パターンの可能性の話です。
そう締めくくり、虎斑が運んできたクッキーを一枚かじる。
「さて、ここまで話して、思ったことはありますか? 主に、他人を犠牲に自身を幸福にすることは、正義か否か」
正義。突拍子もない。いきなり飛び出した大きな概念に鼻白む。
誰にでも主義主張がある。自分の欲望のために何もかもを無視する主張もあるし、考え抜いた結果、誰が否定し要求しようとも撥ねつけ、掲げる苛烈な主義もある。
正義なんて、存在しない。されど彼がそういうのだから、自分なりに正しいと思うことを求められているのだろう。
「正義ではないと思います」
「何故?」
「傷つくとわかっていて放り投げるのは、発言者の責任です。誰かを傷つけた人だとしても、それは傷つける理由にはなりません」
「はい、そうですね。ところで気づいていますか? ここまでの話、堂々巡りになっています」
「えっ」
「話は、『誰かを傷つける心は自制せねばならない』。変わっていませんよ」
結局は、そういうことなんですね。
「自分が傷つかないために。自分だって誰かにとって他人であるのだから、幸福になりたい・尊重が必要だと思うなら他人もまた尊重しなくてはならない」
「自分がやられて嫌だと思うことは、やっちゃいけない」
「金言ですね。そしてどこまでいっても、こういった心に関する事柄は『各人の人間性に任せる』としかいいようがないのですよ」
「どうして?」
「誰かに強制された結果の友愛は結局、本人の人間性ではありません。だからいざというとき、『何故』『もしも』があった時、そういう言葉があったということだけを覚えて本当の意味では実行しないからです」
いじめはよくないことです。差別はいけないことです。
表面的に理解していても、それが『やったら罰せられるから』であれば、『罰せられない方法を探せばいい』で終わってしまう。
心の傷は目に見えない。体を傷つけなくても、心を傷つけて満足して、あとは隠せばそれでよし。
自分と他人を切り離す。遠い海の向こうのように。陸の孤島のように。
どうでもいい、知らない、関係ない。だったらそれでいいじゃないか。なんて、あまりにも……
「寂しい、ですね」
「そうですね。彼女もきっと寂しかったのでしょう」
「八木尾さんは、どうなったんです?」
体は傷つけられずとも、馬鹿にされ、人と同じ心を持っていることを嘲笑された少女。
誰も「どこも傷ついていないじゃない」と助けてくれず、そういって手放されることを恐れ、一人ぼっちでいた女の子。
「帰ってきた彼女は、まず傷ついた少年の両親に訴えられました」
「いきなり!?」
「ええ。管理されていない《天使》など猛獣同前。突然現れるものを生かしてやっているのに、役に立たないうえ脅威であるとは。犬猫だっていらなくなれば処分する、死刑にしろ、ってね」
「ただの感情論じゃないですか、人の命をそんなあっさり」
怒りを覚え、立ち上がりかけた鳩の肩を虎斑が抑える。
「結果はもう決まっている。他者のために怒るのは素晴らしいことだが、落ち着きなさい」
どうしてやってはいけないのか。考えた今は、少年たちがますます非情で理不尽な存在に思える。
唇をかみしめて耐える。十数秒もすれば、感情のコントロールの下手さを自覚して恥ずかしくなった。
大人はうつむく鳩に暖かい視線を向け、仕切りなおす。
「勿論、死刑は行き過ぎです。しかし、危険であると非難する人々は少なくありませんでした。学校のみならず、ニュース、新聞やネットで聞きつけた人々が一斉に少女と家族を責めたのです」
「なかには過激なのもいたらしいよー。家に瓶を投げつけたり、落書きしたり。放火未遂もあったかな。八木尾 夕映菜のみならず、家族親戚もターゲットになったみたいだね。連帯責任だってさ」
そうして八木尾一家は、他人のみならず血の繋がった親戚にまで疫病神と罵られた。
彼らの行動圏内の狭さと反対に、情報はあっという間に広まる。凄烈な数の暴力。
痛みに耐えるだけの精神力を削られていき、他者を思いやる余裕もなくなった。
どうしてこんな目に。自分たちは『誰かの言う通り』清く正しく生きてきたはずなのに。
近所、親戚、学校や職場の関係者。世界が自身を攻撃している気がした。
摩耗した彼らは、何を思ったか。当然考えた、どうしてこうなった。自分たちは悪くない、だったら、誰のせいだ。
「八木尾一家が責められるのは、八木尾という名前のせい。みんな『八木尾が悪い』っていうもんね。けれどだーれもなんにもしてない。じゃあ、八木尾という名前を持っていながら、八木尾でない誰かのせい。
そうだ。夕映菜が悪いんだ。自分たちは関係ないのに。
というわけで、めでたしめでたし。八木尾 夕映菜は縁を切られましたとさ」
「……はい?」
「《天使》ってさあ、結局のところ養子縁組と似たようなもんなの。実子扱いもできるんだけれど、八木尾さんのご両親はそうしなかった。んで、優秀な弁護士を雇って、『夕映菜』を訴えた。我が家は被害者です、この《天使》は家族をめちゃくちゃにした加害者だと主張してね」
信じがたい。いくらつらいからといって、簡単に切り捨てられてしまうのか。
数多の原因はあれど、頼みの綱、心の支えまで断ち切られた彼女の心は、如何ばかり?
「成立するんですか」
「普通なら難しい。でも、時勢があった。《天使》が異能を以て人を害するなんて凄くセンセーショナルな事件だろ。良くも悪くも注目された。だから考え抜いた理屈もなく、正義もなく、彼女は裁かれた。そのほうが丸く収まるから」
「夕映菜さんは少年院に入ることになりました。過剰な罰則だと現在では言われていますが、当時はとにかく人々の熱狂で押し切られてしまった。警察や裁判官側にも非があります」
「イミワカンナイけど、《天使》そのものが危険であるとされては困るじゃん。だから彼女個人を極悪に仕立てあげることで、そちらへの風当たりを弱くしようとしたのもあるみたい。いや、確かに彼女への攻撃は酷くなるけど、それで他への被害が少なるとか」
「実際軽減されましたよ。総合的な割合で見れば」
「個人レベルでいったら大差ないよねー」
世界から見れば小さないさかい。個人にとってはむごい迫害。
それが、本当に世界からの迫害になった。
ぞっとしない話だ。
今の鳩が平穏に暮らせているからには、荒れ狂う迫害の風は現代まで続かなかったのだろう。
所詮は一過性のムーブメント、消費されるエンターテインメント程度の扱いでしかなかった。
そのことに安心した自分に吐き気がする。
「彼女は、今でも少年院に? ああ、いや、もう出てますよね」
「んーん」
「……えっ!? 大丈夫だったんですか!」
「ぜーんぜん」
だらりと首を振る赤羽。何をいっているのか全く分からない。
少女は誰かに救われたのか? 違うのか?
手汗を握る鳩に、青田が息を吐く。溜め息ではなく、嘆息。かわいそうに、といった調子で。
「彼女ね、逃げちゃったんですよ。裁判の最後、《親》の誠くんから
『お前なんかいなきゃよかったのに』
と叫ばれた瞬間。ぱっ」
今頃、どこにいるんでしょうねえ。
&ロイド忠敬
人間への忠義と敬意