アンドろいどチュウけい(4)
パチパチ、光の粒が瞼の上に降ってくる。
薄い蓋をそっと開いた。瞳孔を陽光が貫く。脳みそのしわをこづくような鈍痛に眉を顰め、手のひらで影を作った。
光に目がなれた頃、ようやっと体を起こす。痛む背中を訝しみ、次いで踏みしめた土地を視認して驚嘆に叫ぶ。
日本ではない。ああいや、もしや日本なのかもしれないが、絶対に住み慣れた土地ではなかった。
まず匂いが違う。肉厚の葉が何十と重なって落ち、暗い大地に寝そべっていた。豊かな壌土に浄化された川の澄んだ空気。切りつけるように純な風に乗って、灰の焦げた香りも漂ってくる。
手元には跳ぶ直前に読んでいた文庫本が一冊、砂をかぶって落ちていた。
「……ここは、どこ」
本を拾い上げ、砂を払う。幸い紙は汚れていないようだ。
お小遣いで買った気に入りの一冊。ほっとするのもつかの間、周囲を見渡して呟く。テンプレートな問い。くらくらと広い空を眺め、膝を抱えた。
ついに恐れていたことが起きてしまった。感情の爆発による突発的な転移。それはただ『逃げ出した』では済まない。
意図せず異能が発動したということは即ち、理屈のわからない力を制御しきれていないということ。
説明書のない兵器を子どもに持たせたような危うさ。夕映菜が『問題児』である証拠になってしまう。
《天使》と人間は平等である。そう法律でも定められ、紀元前から共生する人類の隣人として常識になっている。
そして平等であるからには、行動に対する対応も公平な立場で判断するのが当然だ。
たとえば、筋力に優れた腕を持つ子どもがいたとする。もしその子どもが力の加減がわからずに、人を傷つけてしまったら?
わざとであろうがなかろうが、しかる処置を望まれる。最悪、施設に連れて行かれてしまうかもしれない。
そうすれば家族と離れ離れだ。今まで家族を、誠だけを心の支えに笑ってきたのに。馬鹿にする人間がいない代わりに微笑みかけてくれる誰かもいない、そんな無機質な部屋を想像して、ゾッとする。
「どうしよう、どうしよう」
今すぐ帰ろう。眼球がひっくり返るのではと錯覚するくらいに目を強く瞑る。
必死な思いと裏腹に、混乱した脳みそではすぐ集中が霧散してしまう。
駄目だ、帰れない。ガックリと肩を落とす。
とりあえずは自身を落ち着かせることに集中したほうがよさそうだ。
そう思い、周囲に目を向けて。ようやっと、想定以上にまずい状況になっている、と理解した。
数メートル先に少年が転がっていた。移動の寸前に、下衆な言葉を投げかけてきたあの少年だ。
服が赤いもので湿って、ぺっとりと肌に張り付いている。彼が転がっている地面だけ、色が濃い気もした。
そういえば、意識がおかしくなる寸前に誰かに触れられた気がした。
触れなければ飛ばせないけれど、触れてさえいれば認識していなくても飛ばせる。一体どのような動作を行ったのかは覚えていないが、不穏な挙動に好ましくない予感を覚えたのかもしれない。
どのような事情があろうと、彼は怪我をしている。
加害。ますます立場がまずくなる、それも決定的に。
慌てふためく何処ぞの森が余計に不安を煽っていく。
体のバランスがうまく取れず、意味もなく足踏みをしてそのまま転ぶ。尻もちをついたのとほぼ同時に、近くの木々の隙間からぬっと姿を現すものがあった。
「だ、誰!?」
「え、えーっと……」
「……あなたは」
それは、一番最初に夕映菜を罵った三人組。そのなかで、いつも喋らない大人しい彼だった。
〇
他の二人よりやや小柄で、いつも窺うような目をしていた子。
名前を呼ぼうとしたが、思い出せない。今まで彼らなんて『彼ら』という記号で十分だと思っていたから。
少年は起きている夕映菜をおろおろと右往左往して見つめている。それは平時の印象とは多大に異なるものだ。そうしていると、まるで普通の心身健やかな少年のようではないか。
「何よ、何か用」
「用ってほどじゃあ、あー、うぅん、その」
「はっきりいってくれる」
下種な男のようにはっきり言いすぎるのも問題だが。
いつものように冷たく返せば、彼の顔面がうっと歪む。
「ごめん」
「……ずいぶん素直なのね」
「別に。ただ流されやすいだけさ、君が嫌いなわけじゃない」
そこで小さく息を吸い込み、控えめなため息をつく。
「今更いってもしょうがないけどさ。いいよ、事実だもん。嫌いじゃないけど好きなほど知らないし、だったら自分を優先するよ。恨まれたって仕方ない」
「呆れるぐらいに正直だわ」
「だって、ねえ。今この状況で媚売ったってなんにもならないだろ? だからそいつのこと、そんな気にしなくていいと思うよ。半分は自業自得、半分は運と頭が悪かったんだ」
「あなたが私をどう思っているのかはわからないけれど、事故とはいえ恨みを盾に責任転嫁するほど恥知らずじゃない」
「そっか、それならそれで僕も助かるからいいけれど」
そういって怪我をした方の少年に近づいていく。
夕映菜はその背中を見つつ、ほんの少し動揺する。彼は自分を罵倒しない。怯えも感じるが、動物を見るような嘲りも嗜虐に満ちた身勝手な要求もしてこなかった。
てっきり真っ先に「こんなことしやがって!」「今すぐ返せ!」と怒鳴られるだろうと思っていたばかりに。
少年自身、自分が何を望んでいるのかわかっていないのではないだろうか。
夕映菜がやり返しても仕方がない、といいつつ、痛い目に合いたくないとも思っている。中途半端な善良さと我が身可愛さ。
時折不自然に一瞬早口になるのも、そういった相反する複雑な気持ちの表れ?
夕映菜もまた、同じような経験がある。
――ダメダメ、なんでこんなことを思ってるんだ。今まで助けても止めてもくれなかったのは事実じゃないか。
ほぼ一対一といっていい状況で、不義を認める。そこにもしや家族以外の人々にも優しい人がいるのかもしれないという希望を持ちかけてしまう。すがりつきそうになってしまう。
どうせ裏切られて、期待する前よりずっとつらい思いをするだけだ。
悶々とする間に、変な少年は怪我をした少年の横に跪く。
服を捲るなど何かを確かめている。
「うん、大丈夫。血は出てるみたいだけど大したことないよ、怪我」
「本当!?」
思わず大きな声が出てしまった。すぐに恥ずかしくなり、足元から血がのぼってくる。顔が熱くなり、こめかみのあたりがずんぐりと痛くなる。
変な少年はそれに気づく様子もなく、藪の中から拾ってきたのであろう蔦を取り出す。
「医者じゃないから詳しいことはわからない。でも、時間がたって傷口からしみだした血と……水がズボン濡らしちゃっただけだから」
「……水?」
「そこはプライドのために聞かないであげて。とにかく、見た目ほどひどい怪我でも出血でもないから」
器用な手つきで傷口を思われる個所を緩く結び、寝転がる少年の腕を後ろに回して縛る。
「え、何やってるの」
「え、だって動かれたらヤだもん。よく考えないで、大声で文句ばっかりいってるから。学校なら他に誰かいるから何しても止められるし、聞き流すだけでいい。でもこんなとこで好き勝手やられたら、怖いから」
「本当に?」
「君のためじゃない。これでも僕も疲れてる、罵ってくれてもいいけれど喧嘩だけはしたくない」
誰かを蔑む一瞬はスッキリするけれど、そのあとはひどく疲れる。罪悪感、決着のつかない泥の投げ合い、不毛な争い。しまいには数や力の暴力で押し切られて、怒りと屈辱に自尊心を潰される。
確かに、今はそれに夢中になれるほど余裕がない。
「……そうね」
本心はわからないが、元々だんまりを決め込んでいた子だ。積極的に衝突しあうのは苦手なのかもしれない。それを避けるための予防線張りというわけか。
「それならそれでいいわ」
「よかっ」
「けれど、少し落ち着かないの。黙って落ち着けるタイプでもなくてね、よかったら話に付き合ってくれない?」
「えっ、なんで」
まんまるに見開かれた目がこちらを向く。間抜け面にニィっと口角があがった。
争いたくない、そのためにこちらを貶めるようなことを(『彼は』)しない。信じよう。
だから、たまには、せっかくこういう状況なのだから、利用してやることにした。
ここで断れば、二の句に「どうして?」と続けられる。そこから争いに発展する可能性だってある。もっとも起こし易い小規模で感情的な争いは口論だ。
さんざん言うことを聞かせてきた相手に、自分のいうことを聞かせる。
こんなチャンスは二度とない。
ニヤニヤ意地悪く笑う夕映菜に諦めたのだろう。また潜めた溜め息をつき、そっと木の下に腰かけた。
〇
「話って?」
「どうしてあなたたち――あなたがあんなことをするのか、教えてよ。怒らないから」
「ええー」
「本当よ、あなたなんかに怒っても仕方ないもの。それより今はなんでああも理不尽な言いがかりをつけるのかが知りたいわ、教えてくれるでしょう」
尋問に似た口調は鋭く、我ながら呆れるほどわかりやすい。相手がおとなしいとわかれば、強気な態度に出れる。落ち着こうとは思っているのに、端々に恨みつらみがにじみ出てしまう。
しかし気弱な少年は不機嫌をあらわにするでもなく、困ったように頬をかく。
「うーん。君がいいならいいよ。僕は……嫌な目に遭いたくないから、かなあ。親同士が仲いいから距離取れないし」
「親?」
「うん。そういう考えの人たち同士で話が合うみたい。僕だけ違うと気まずいじゃん、ほら、ああいう人たちだもの。悪い人だとも思いたくないし、黙ってれば丸く収まる」
小声での情けない吐露。タイミングよく縛られた少年がもぞりと動き、話し相手になっている彼の肩がビクンとはねた。もし聞かれてしまったらまずい。
ここまで気にする『ああいう人たち』――自分たちとは異なるものを否定する人たち。話の流れからそう推察する。
否定される側からすれば胸糞悪い話だ。プライドと孤独への恐怖ゆえに平静を保とうとはしているが、ふつふつとした怒りがまた煮えたぎりそうになる。
もし自分が彼の立場にいて、最も嫌な質問はなんだろう。
自身が正しくないと思っていても、痛みを恐れて悪意に追従している自覚のある者が最も直視したくないこと。
「じゃあ、あなたのご両親たちはいつもどういった考えをしているの?」
説明の為には、気にかかる場所が一体どこでどうしてなのか見つめなければならない。臭いものにふたをして目をそらし続けることと、嫌いなものを嫌いと知ってそばに居続けることは、全く異なる。
知らなければ鈍痛、別の感情や認識でごまかしが効く。その分逃げ続ける自分に嫌気がさす。理由に理屈をつければスッキリ気が晴れるが、それはそれで何故変えられないのかに不満が募る。
夕映菜なら、であって、彼もそうであるとは半分勘だが。
少年は顔を歪ませ、夕映菜をほんの一瞬だけ睨んでから空を見やる。数秒間の黙考の後、低く唸った。
「《天使》はもっとわかりやすくいるべきだ、って」
「ふうん」
「本当はこの国で生まれたわけじゃない。どころか、この星の生き物といってもいいのかもわからない。少数派で、おまけに変わった力を持っている。人間と共存し、人間の《親》がいなければアヤフヤな存在だ」
「ふうん」
「……だから、《天使》は……人間の奴隷であるべきだ、って。下等で野蛮な生物だって」
「へえ」
言葉多く返そうとすると、理性的な答えより先に悪態をついてしまいそうだ。
簡素な相槌を打つ。脳の隅がグツグツ煮える割に、表情筋の動きは平坦だった。感情が高ぶりすぎると、情動が体に直結するか、心と体が乖離するかのどちらかになるらしい。
「それで? なんで『下等』で『野蛮』なの? 人間様にお世話にならなきゃいけないから?」
「それもあるよ。でも異能という不相応で不気味な力を持ってるから、管理されるべきで、もっと迷惑をかける以上に役に立てって。けれど……その割につまらないことしかできないし、無愛想だったり感情に振り回されたり、面倒くさくて鬱陶しい」
「……それ、普通の中学二年生の人間と何が違うのかしら?」
口ごもった一瞬と向いた視線に、その無愛想で感情に振り回される《天使》が己のことなのだろうとはなんとなくわかった。
元々人間というのは、都合のよい仮想敵をイメージしては不満や欲望を消化しようとする。そこにうまくあてはめられそうな存在が現実にあれば、悪しざまに貶め侮辱し、優越感と利益を生ませようとするのだ。
いや、言い直そう。今のは多分に憎しみに彩られた偏見である。
人間全てがそうだと思っていないし、必ずしもそうやって差別と侮蔑が起きるとは思っていない。
集団になって見下せる弱者を選ばねば、自分の価値も信じられないような人間。彼らは浅ましい欲に塗れて醜く見える。それしか本当のことは知らない。
彼らにとって《天使》は忠実で美しく、欲望を満たす奴隷でなくてはならない。それを満たせないのは悪であると、ことさらに夕映菜を罵るのだろう。
無愛想は笑顔よりも気持ちよくない。感情に振り回されるものは手間がかかって疲れる。欲望を満たすとは逆ベクトルのもの。
でもそれは、他人に強要されねばならないもの? 思春期で、これからどう大人になろうって迷って、経験不足で沢山失敗して。合理とは全く違うところにある感性は自分でもつらいぐらいに抑えがたい。
――とても普通で、当たり前で。本当ならお互いに支え合って、学んで大人になっていくものじゃないの?
「『べき』ってなあに? あなたたちが楽しい思いをしたいだけじゃないの。その楽のために勝手に役目を決めて、押し付けてさ。思い通りにならなかったら悪口いうって、わたしは感情的な行動に見える。子どもっぽくて面倒臭くて鬱陶しくて、いやらしいことじゃないの」
「うん、そうだ」
「何のために、悪口をいうの?」
「……傷ついたら、従ってくれるかもしれない。自分以下の存在が気に食わないことをしたら、罵って、スッキリしてもいい、って思うからかな」
「そこにお上品な『文明』ってある? きちんと考えて信じる理屈ってあるの?」
「どうなんだろう」
「あなたって何も考えていないのね」
「そうやってここまで来ちゃったんだ。どうしようかなあ」
「……よくわからない、あなたって」
「僕もだよ、何したいのかな、僕って」
なんだか気が抜ける。結局、目の前にいるのも子どもでしかないのだ。
さきほどの少年のように、ゆるゆると溜め息をつく。
「ごめんなさい。あなたにいったって、仕方ないわよね。さっき自分でもそういったのに。あなたの親がそうなんだもの、簡単な話じゃないわ」
「……ごめん」
「どこについてか曖昧だけれど、どこでもいい。わたしだって、親に嫌われるのは怖い。そう思っていた」
夕映菜にとっては如何なる理由があっても、不当な理由で見下してくる相手は大嫌いだ。誠は軟弱だとか言われることもある、しかし夕映菜は数えきれないほどのよいところを知っている。彼もそうなのだろう。
『親に嫌われたくない。一人になりたくない』。それこそ、先程まで夕映菜がずっと思っていたことだ。
「結局皆、大差ないんだわ。差なんて考えても、その深さには何の意味もないのね、馬鹿らしい」
急にわかってしまった気がした。
どちらかが落ち着いていれば、こんなに簡単な話なのに。簡単に気づけることなのに。
彼らだけが悪かった? 憎しみに囚われていたのはどちらで、仮想敵への侮蔑に甘えていたのは本当にあちら?
つくづく、思春期というのは感情に振り回される時期らしい。冷や水を浴びせかけられたような発見に、見る間に体温が下がっていく。いざ冷静になれば、あの激怒はなんだったのかと恥ずかしくさえなってくる。
「落ち着いた、ありがとう。付き合わせて悪かったわね、帰りましょう」
「え、いいの? もう?」
「ええ、いいの」
「……そっか」
ぽんぽんと手で砂を払い、立ち上がる。立ちくらみがしたが、いつもより幾分か気分は悪くない。
深呼吸をして瞼を閉じれば、弾けるように学校が浮かぶ。これなら跳べる。
「そうだ、あなた。名前、聞いてなかったわね」
「名前? 僕の?」
「他に誰がいるのよ、そちらの大きいのはどうでもいいもの」
彼もまた多くの苦難に挟まれ、無音の叫びをあげているのだろう。振り回して本当に申し訳なかったな、とかなしい気持ちが胸をふさぐ。
少年は未だ幼い彼女へ、今度は特に迷うでもなく名を告げる。
「坂野 廉次。隣の組の」
「そう。お詫びになるかわからないけれど、あげる」
もし彼に迷いがあるのなら。これもまた夕映菜のエゴでしかない願いを込め、跳ぶ直前に読んでいた文庫本を手渡す。
教科書でだって読める名作中の名作、一見して憤懣を誘う優等生と少年の思い出。
「いいの?」
「いいの。自分が何をしたいのか迷ったら、読むといい。映った瞬間、思った瞬間が全てじゃないって思いだせるかもしれない。完全なわたしの我儘だけれど……もしあなたがわたしたちが人間と同じ心を持っているんだって思ってくれるなら、今じゃなくていい。いつか、誰でもいいから、助けてくれると嬉しい」
今、この本を読めば夕映菜もまた以前とは違った感想を抱くだろう。
帰った後の自分がどうなるかはわからない。穏やかな気持ちも、自分のことなのだから悪意をぶつけられれば忘れてしまうにきまっている。
それでもここでひとり、味方が増えてくれるならまだマシだと思える。それは夕映菜を救ってくれる――かもしれなかった。
悪あがきにも似た望みをかけて、少女は彼に本を、『少年の日の思い出』をしっかりと握らせた。