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天使の血管  作者: 室木 柴
親切獄卒
25/35

アンドろいどチュウけい(3)

 八木尾家の食卓は暖かい。

 暖色の光をともす電球が柔らかにリビングを包む。ベランダに繋がる窓の前では、葉をのびのびと伸ばした観葉植物が佇んでいる。

 母も、父も、誠も。そして夕映菜も、にこやかにほほ笑んでいた。

 昨晩に作られたミネストローネは、具材の味がスープにしみだしタップリ旨味を含んでいる。

 銀のスプーンで掬うたび、真っ赤な水面が揺れる。コンソメの匂いは食欲を刺激する。だが夕映菜の胃は痛み、食事を拒絶しようとしていた。


 日常で受けたストレスが。この穏やかな瞬間までに消化しきれず、吹き出しそうになってしまう。

 ダメだ、ダメだ。

 ほんのり吊り上った口角が、銀の匙をつまんだ指が、ぷるぷる震える。

 視界の奥が揺れてしまう。黒い人影、青い空、赤い土。近所から裸眼で見たことのない遠方の地まで。激しく光景が転換する。


 夕映菜の能力は、空間跳躍。いわゆるテレポーテーションだ。

 意識を集中すると瞼の裏に『光景』が映り、望めばそこに移動することができる。

 しかし最近は、ふと不安定に感情が高ぶり自制が効かなくなりかけ、勝手に発動しかけることがある。

 その原因である、少年たちによる使い走り。それを未だ夕映菜は誰にも相談できずにいる。


 誠の体調が悪い時に使ったのだが、その時に目ざとく目をつけられてしまった。あくまで夕映菜が楽をさせてあげたいと思うのは誠であって、彼らではないのだが。

 それに、テレポーテーションといってもそう便利でもない。彼女の異能は実に『一方的』なのだ。


 空間は夕映菜側からしか跳べない。相手を引き寄せたり、別の場所にあるものをまた移動させたりはできない。ともに行くことならばできるが、あくまで少女自身が跳ぶだけの異能。

 例えば、少年が遠方に来て、迎えに来いといったとする。だが他人を連れてくることはできないため、まず少女からその土地へ跳ばねばならない。機械を使うより圧倒的に早いことには違いはないが、学校生活より手間がかかる。

 少年たちはその些細な手間も文句の材料に用いる。いつもの彼女なら腹が立つ。しかし、この『能力の不便さ』への文句だけは全く気にならない。

 何故異能がそのような形になったのか。それを自覚しているからだ。

 

 迎えにいくため。

 いついかなる時でも、誠の元に駆けつけるため。

 ゆえに少年たちがどういおうとどうでもよかった。彼さえ喜んでくれるなら。


 誠は優しい。優しいというのは、人として素敵な事。

 夕映菜が保ち続けられないように、きっととても脆くて、崩れやすい美。

 だから、《親》の優しさが喪われることが恐ろしかったのかもしれない。

 言った方がいい、自分は悪くないのだから。そう思いつつ、少年たちによる自分への扱いを言えなかった理由。


 誠にとって、少年は友だったからだ。男子というコミュニティで絆を結ぶ同胞。


 中学生となると、男女は別々に行動するのが当たり前、という風潮が学校中に蔓延している。

 男女が揃えば「恋仲だ」。兄妹がともにいれば「シスコン」「ブラコン」。異性というものを過剰に意識し、一緒の場所に立っているというだけでまるで異端者のように扱われる。そして異端者ならばいくらでも――傷つけてよい、平等の存在ではないかのように――騒ぎ立て、心のうちを踏み荒らす。


 学生は、一日の多くを学校で過ごし、人間関係とは、学校で作られる。

 目先のものに囚われやすく、囚われることによって多感に様々を得る思春期。

 人間関係。わずらわしい言葉。たまらなく身を裂く概念。

 少なくとも(・・・・・)、彼らの目に映る人間関係は主に『家の内』と『学校の中』であるのは自然だ。目に映った関係のままを、真実だと思ってしまう。そうでない可能性を知っていても、視覚という強大な認識の波に引きずられずに、しっかりとあやふやな仮定という大地に足を着けるかどうか。

 中学生という年齢は、仮定、あるいは信念と呼ばれるものを揺らがぬ認識にするには、慣れ・経験が少ない。


 更にいうと、男子というコミュニティと女子というコミュニティは基本的に交わらない。

 普段、誠は男子のコミュニティで暮らす。少年たちも女子である夕映菜に関わってこない。男子の中では、彼らはいたって普通でマトモなイイヤツだ。

 自分の友人である少年たちが、自分の家族である夕映菜をむげに扱っているなど。夢にも思っていないのだ。


 誠は、無邪気な世界に住んでいる。

 わざわざ暖かな夢幻を壊すのは忍びなく。また、夕映菜に激しく人を憎む気持ちがあることで、誠にまで侮蔑されてしまうのでは。それを恐れていること自体が信頼への裏切りになってしまうと。

 不安で不安で、仕方がなかった。


「美味しいですね、ミネストローネ」

「そうだね。朝より時間が経つと柔らかくなって美味しいなあ。あ、ちょっと麦茶とって」

「いいですよ」


 だから夕食の席で、朗らかな笑みを振りまく。

 ばれませんように。彼が家庭の暖かさを味わっていられますように。彼にとって家族の象徴に、自分も含まれているのだから。

 時折ふっと浮き上がる、奇妙な涙を必死でおしつぶす。


――どうしてこんなことをしているのだろう。


 いいや、いいや。自棄な疑問にはちゃんと答えがでている。

 誠を幸福にするために。自分のために。

 答えは出ている、だから、逃げられなかった。

 今だけは、全てが満たされた少女でいよう。いなければならないのだ。 



 世界が狭く、現状で精いっぱいであったのは、夕映菜自身でもあった。

 窮屈と疲弊というものは、平時であれば気づけることも見失わせてしまう。

 夕映菜は少年たちを憎んだ。されど、現状――今や過去(・・・・)、夕映菜を苛む圧制者は彼らのみであった。


 彼ら以外に悪意あるものがいなかったわけではない。

 そもそも自分たちが正義であり、上位者であり、見下したものを嘲笑って利用することもまた当然。欲望に綺麗なベベを着させて満足している無自覚の差別主義者。

 心の底では悪徳と考えていても、そう認識さえしなければ都合のいい理屈をつけていられる。

 

 その日、夕映菜は知った。まだあの少年たちはマシだったのだ。


「《天使》だってのにかわいくねえ面だなあ。――――するならもっと美人がいいよなあ」


 少女の耳はその発言の意味が理解できなかった。耳が聞きたくないといっている。

 なんだかとても下劣な事をいわれたようだ、ということだけうっすらと理解した。

 まだ昼間だというのに、数人の男子が机を囲う。身長にはかなりの高低差がある。教室にまばらに散った、薄く、女子よりは脂肪のない体つきをした彼ら。

 見回せば、女子や大人しい男子が退散しようとしている一室の隅、いつもの少年どもがたむろしているのが目に入った。

 見慣れぬ彼らは、恐らく三人の部活の先輩後輩だとか、そんなところだろう。多分。


「……私に、何か?」

「天使っつぅのは、綺麗で人間を導いて幸せにしてくれるもんなんだろ? 真っ白な翼があってさあ。人間のための生き物だろ? だからご奉仕させてやろうってな」


 瞬間、表情が醜く歪んだのを自覚する。

 こいつもまた、生まれだけで勝手に決めつけるのか。こちらを見下して、根拠もなく無償の奉仕を要求するのか。

 気持ちの悪いげひた笑みで、なめまわすようにこちらを観察する目に奥歯が軋みをあげた。


 確かに、天使という単語に勝手に美しい人間を想像するものは少なくない。

 八木尾は不細工というほどではないが、美少女でもなかった。肌は綺麗だが、手足は細すぎる。二重の瞳は切れ長。一方で眉は高く八の逆の形で、いつも誰かを睨むかのように険しい。瞳がやや小さく三白眼気味であるのが、余計にキツイ印象を強めている。

 胸も小さかった。ほぼ壁だ。


「あんた、頭おかしいんじゃないの?」


 濁り、滾った感情のまま、悪態が飛び出す。

 夕映菜の側かすれば、そういった態度も『当然』だと思った。これだけ苦痛にさらされれば。

 

「意味わかんねえんだけど。こんなキモい天使じゃあ、頭も悪いに決まってるよなあ」

「全然文脈繋がってませんよー? おつむ、大丈夫でちかー?」


 ぎゃはははは。数と腕の暴力に任せた、嘲笑が響く。

 男だから女が何をしようが抑え込める。数が多いから何を主張されようが、多数決で自分たちが正しくいられる。


 人間だから、人間の姿をした異物を笑っても、許される。


――なんだ、なんだよ。


 すっと冷たい氷が、心臓を貫いたようだった。たった一人。孤独。誰も助けてくれない、接する誰もが迫害してくる痛み。

 それを『理不尽である』と認識した途端、一新されて湧き上がってくるものがあった。冷たい気持ちはそのままに、氷を飲み込んだ(いびつ)なマグマ。

 頭と心臓のあたりから、血管を通ってマグマ(いかり)が全身を巡っていく。

 指先が細かく震えた。今すぐにでも相手に殴り掛かりたい衝動に駆られる。


 幼き日、駄々をこねて泣き叫んだ時のような。理屈も自制も、他者という存在を己の中に置かず、暴れたいような。

 だが、相手は余裕をもち、此方の心情を鑑みてくれる親や家族ではない。

 圧制者なのだ。


――今までだって我慢してきたのに。これ以上、一体をしようっての? 私の尊厳を踏みにじろうっていうの?


 私は、自分の意志で誰の力になるか決めることさえ、許されないの。


「ぎっ」


 押し殺した空気が喉の奥から漏れる。 

 それが夕映菜の我慢の限界を告げるホイッスル。そして起爆ボタンを押した音だった。


 視界が染まる。黒? 赤? 青? わからない。彼女が認識したのは、それが『空間である』ということだけだ。

 空間にはあらゆる色があり、同時に全くの無色であった。突如訪れた異様な感覚に呑まれる。吐きそうな酩酊感のなか、強烈な願望が脳内で声を張り上げた。


――ここから逃げたい!


 頭を抱えてうずくまろうとするのと同じタイミングで、たまたまに誰かが肩に触れる。

 されど、夕映菜の異能はお構いなしに――夕映菜自身の理性すらも――威力を発揮した。

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