アンドろいどチュウけい(2)
彼女は《天使》であったが、己が《天使》であるということに矛盾した思いを抱いていた。
《天使》には自我がある為に、自由を求め、《親》の下僕として扱われては手ひどい事件を起こすという事例にはいとまがない。
子どもは親と繋がるものだが、へりくだるものにあらず。繋がりとは服従になし。
生まれは人間と違っても心は人そのもの。ゆえに人権を保障する。
八木尾 夕映菜には、その実感がわかない。
《親》である誠のためならなんだってやる。されど他の誰もが尊重するに値しない。そう思ってしまうのだ。
夕映菜は現在、肉体年齢14歳。誠が4歳の時に出現し、ひとつ年下の身体になったところで人並みの成長に落ち着いた。ちょうどよく編入などで目立ちもせず中学校に入学してから、《親》であり兄たる誠と共に近隣の学校へ登校している。
それが問題だった。
学校。社会の縮図。未来を築く場所。学びの窓。善し。
学校。堕落の宝庫。過去に倦む場所。傲慢の扉。憂し。
実際、中学とは夕映菜の思う清く正しい学び舎などではなかったのだ。
子どもは自己中心的で教師といえども価値観は様々、完璧でない。
大人になれば教師といえどもその前に人で、他者に己の理想通りを望むのもまた身勝手で狭量だと気付いたのだろう。
だが14歳はやむを得ない不満を飲み込んで、忘れることができない程度には感情的で、子どもだった。
そして放課後の教室にて、本を読みながら悶々と不満への疑問を考える程度に真面目で、孤独だった。
「八木尾、今日も暗い顔してるじゃねえか」
図書室で借りた小説をめくる彼女にかけられた声。変声期を迎え終わったばかりのアルト。
これこそが夕映菜菜の悩みの種。
「何か用?」
「《天使》のくせに生意気な口の利き方だな。何か御用でしょうか、ご主人様だろ!」
三人の少年。第二次性徴が始まっているとはいえ、少年の体つきはまだ細い。特によくしゃべるリーダー格の子ども。荒い口調は自分は大人だという不相応な主張の表れか、粗野な性格の仕業か。
他の一人はガリガリに細いのに目はぎらつき、卑下た笑みでリーダーに追従している。もう一人はただただ適当な笑みを浮かべるだけ。
ふううと心底黒々とした想いが込められた息を吐く。このまま口から炎が出てしまいそうだ。
最も彼女の異能はそんなものではないのだが。
「何か用、っていっているの」
冷たく返しても彼らは可笑しそうに笑う。いや、嗤った。
いくら《天使》のプライバシーが守られれいるといっても、人の口に戸はたてられぬ。
例えば、人間と成長スピードが異なる苦労がある。
年の近い家族が地元の学校で進学し、歳下の《天使》が途中入学した場合。中・高校など入学式に合わせて入っても誤魔化せるのは最初だけ。
小学校時代の同級生が違和感を覚え、《天使》と気づいてしまうのだ。
その為、《天使》の成長が安定すると、安全の為に引越しをして家族構成を知られている土地から離れる者も多い。
夕映菜は前者であった。
最初は人間として受け入れられたのに、誠と小学校で同級生であった彼らが《天使》だと気づいてしまった。
以来、掌返しでこの調子。
――人のなかにもこれほど生き物に心と知性、そして誇りがあることを知らぬ種がいるとは。
そう幻滅したものだ。えてして幼少の君は殊更に期待というものに弱い。特に一方的な期待を勝手に裏切られることに。
夕映菜も同じく。自覚はないが、もはや誰が何をしようと勝手だと思う心理の裏に、何故自分の理想通りにしてくれないのかという憤懣がある。
だからこそ夕映菜の心中など鑑みた時などなく、至極当然に知らずのうちに無実の裏切り者となった少年たちに厳しくあたってしまう。
既に怒りは恨みに、恨みは嫌悪に、嫌悪は憤怒に変わっていた。
――その悪循環を止める術を持たぬ未熟さに、もっといとまが与えられていたなら。不幸な少年少女が一人、二人消えていただろうに――
「こんな時間までなにしてんの?」
「誠を待ってる」
「ああ、部活か。お前は……帰宅部に決まってるか。人間と一緒の扱いなんて不相応だもんな」
そう言ってまた下品な笑い声をあげた。
苦痛と屈辱に奥歯を噛みしめる。
早く誠が帰ってこないか。
時計を睨むも、のろまな分針はまだ十数分余裕があるとのたまう。
残念ながら、この場の少年少女にはそれだけあれば充分。
「今日もわざわざ歩いて帰るの面倒なんだよなー。早くしろよ」
「ゲームやりてー」
いうことを聞かなければ、どうなるか。彼らが自分に何かできるとは思っていないが、何をやらかしてもおかしくないという不信はある。
静かに椅子を引き、立ち上がる。机の足の合間に隠れていた全身があらわになり、ボソリと「《天使》のくせにダッセェの」と悪態をつかれた。
細い手足、規則通りのひざ下までの靴下。年頃の少女たちが好む、足を曝け出したスカートなど言語道断。知りもしない誰かに邪な目で見られたいなんていう気持ちは、これっぽっちも装飾に影響していない。
それが彼らには不満らしい。夕映菜が着飾らないことではなく、卑しい女が媚びないことが。
構わず二人の前に立つ。
背筋を伸ばし、鼻から『するする』と空気を吸う。脳の隅に血が巡っていき、血管をざらりと撫でていくイメージが首筋を泡立てた。
一度瞬きをする度、視界に四つ青い燐光が散る。透き通ったフラッシュの向こうに、『行先』が覗く。
万華鏡で踊る色硝子のごとく、巡ってはじけて回る、回る。
そのうちのひとつにアタリをつけて、『眼』を集中させれば――
頭からつま先に、上から下へ。針金のように体に通った『気力の芯』のようなものが、ぐったりと抜けていった。
風呂に長時間浸かってあがったときのような、ぼやけためまいに額を抑える。いっときの不調を振り払うために頭を振るう。
すると目の前にあるのは、アパートだ。
コンクリートの壁にうっすら黒い汚れがこびりつき、だがピカピカの大きなガラス窓が眩しい住宅地。
茶色の煉瓦を模した外装までもが憎い。
2人の片方が住んでいる場所というだけで。
その片方は、友人に別れの挨拶を告げ、下僕には一言も投げかけず 我が家に駆けて行く。
これだから嫌なのだ。
再三聴こえない悪態をつき、殴りかかるような荒々しい手つきで残りの袖を掴む。
今度『跳んだ』のは、真新しい一軒家。いかにもノーマル、一般的で幸せ。世間に受け入れられた家族。
ちっ。舌打ち。
乱暴につきはなし、何もはっきり見まいとしっかり瞼を閉じた。
学校へ戻ろう、誠を迎えに行こう。
あの意識が持っていかれるような感覚を味わって、全く同じ席の上に現れる。
窓の外、校庭で片づけをしている運動部の馬鹿騒ぎが、遠い場所でオーケストラの太鼓のように聞こえた。
まだ『跳んで』から三分だけ、分針がずれていた。
誰もいない教室、大人しい清澄な空気。下劣に他者を見下し、過剰な自尊心を掲げる子どもたちが、いない。清く正しく美しく! これこそ完璧な学校。
肩にまで巡り、硬く張らせていた怒りがそよぐ風に流されていく。
ゆるゆると全身から力が抜け、しなだれるように椅子に腰を掛けた。机に顔を押し当てるとひんやりと熱を奪われる。
「……」
少女も沈黙を為す世界の一部となって、静かに目を閉じた。
〇
全てが同一で均一な仄暗い視界。揺蕩う微睡みに浸る彼女を、現実に引き戻すものがあった。
自分の形すらわからなくなる。無意識に己の存在を放棄した眠り。だが、「それ」によって意識が段々と覚醒していく。
――暖かく、優しい手のひら。肩を揺さぶられている。
いつもの感覚だ。
――起きなければ。ああ、起きなければ、起きなければ。
眠っていたい、休みたいと願う弱気な心を打ち砕き、力づくで目を開ける。
今度は全く苦でない、むしろ喜ばしいことだとわかっていたから。
「……すみません、眠っていました。お疲れ様です、誠」
「待たせたならごめんね、ユエ」
「いいえ、なんともありません。本も読んでいましたし、私も有意義な時間を過ごしていました。謝る必要だなんてありませんよ」
「そう? ありがとう」
ややたれ気味の目が温厚な印象を与える少年。やんわりとあげられた口角がいかにも人の好さを表している。
八木尾 誠。夕映菜の兄であり、《親》。
同年齢の少年たちは、猛き荒くれ者であることが強さだと思っているようだ。だから誠に大した評価を置いていない。だが、夕映菜には粗暴と乱雑を振りまくことなら簡単にできるように思える。
己を抑えるというのは本当に困難なこと。先ほど少年たちに怒りを覚え、つい態度に出してしまったように。
誠は自制が得意だ。人は笑顔を好む。裏表のない笑みは歪んだ不信を和らげる。荒んだ心は癒され、自然と信頼を寄せられる灯になってくれる。
自身が感情のコントロールが苦手なだけに、本当に凄いことだ。
――あいつらみたいに、自分より下の存在をつくらないと幸せを味わえないような奴らとは違う。
しかし、夕映菜自身もそうやって彼らを見下している。それもまた理解していた。
故に、余計に尊敬が深まっていく。
「誠、疲れたでしょう。すぐに帰れますよ」
「いやあ、僕は運動部じゃないし。それに」
教室に残った最後の生徒として、カーテンをまとめ、窓を閉めていく。
厚いガラスの向こうを見つめ、にっこり笑みを深めた。
「今日はよく晴れてるよ。暑過ぎないし、寒過ぎない。せっかくだから一緒に歩かない? ああ勿論、ユエが疲れてるなら、すぐに帰ろう」
「……そうですね。跳べば一瞬ですが、その一瞬で道すがら見れたはずの様々を見逃します。歩きましょう」
「難しく考えなくていいよ?」
「すみません、楽しくてつい」
戸締りを確認した後、鞄を携えた。
少年たちと一緒の時は、戻りたくてたまらなかった教室。今は早く出たくてたまらなかった。
夕映菜にとって、誠は本当に特別な存在なのだ。
どんなに憤懣に振り回されて、落ち着いた後に自己嫌悪に苛まれても。彼さえいれば自分は何も見失わない、そう思える――
だからこそ、その時を許すことができなかった。