エピローグB
人生はつくづく予定通りとはいかないものだ。
異形化を防ぐためには力を使う頻度を下げればよい。しかし仕事上、今の方針ではほぼ不可能。
そこでやり方を変えることにした。今までは来るもの拒まずであったのを会員制に変更。新たに加わったセールスポイントは、
『個人情報を絶対に守る。知る人ぞ知り、一握りの人間しか来れない秘密の店』
人はそういった条件に弱い。それらを知り、得ることで己が特別、特殊だという思い込みに酔うのかもしれない。
一見、客を狭めて信頼性を強めたように見える。だが実際はそうでもない。元より食うに困らなければそれでよいという姿勢だったのだ。
まず今までの客に手紙で変更の旨を伝える。ここで客に応じて内容を変えた。
金銭的に余裕のある層とそうでない層。
共通して『店に来てもらうのではなく、予約制にして此方から指定場所に向かうことにした』ことを。
そして前者には『料金の値上げ』――といっても建前上。微々たる量だ――。
後者には特に。一応『店に無断で情報を流布した場合、以降の使用は問答無用でご遠慮いただく』とは書いたものの、どこかしらで漏れるのは避けられないだろう。
前ほど呑気に人は信用できなくなった。
そもそも食べるだけなら富裕層の仕事だけで十分。高望みさえしなければなんとかなる。無理も通れば道理というが、幸助の異能も傲慢が多少まかり通る程度には需要が高い。
故に反感を買うことをやむなしと諦めた。信用が置けない、夢を見ずとも本人にその気があれば進めると判断した客には手紙を出さなかったのだ。
これで一部の元客は再び来店することが難しくなった。
一連の行動により、仕事の頻度はかなり減らせた。もし常連客に金持ちが数人いなければとてもできなかった都合のいい経営方法。この点は幸運であったといえる。
一般市民層の値段は変えていない。ばれれば非難されるかもしれないが、それは「通常料金と特別料金で内容が違う」とでもいう。
おかげで運転免許をとる苦労を被る羽目になったのは大変に面倒であったが。
金持ちの客のなかには羽振りのよい者もいて、実をいうと彼らの仕事だけでギリギリ食べていける。
かつての幸助ならば、これ幸いと一般層を全員纏めて切ってしまっていたかもしれない。
そうしなかったのは、腹が立つが今回の一件ゆえだ。
〇
「おーい、真木ー」
それなりの金を積んで作った店も畳まねばならない。されど優柔不断に迷っていては大事なものも取りこぼす。
後悔の念は捨て置いて片付けに勤しむ幸助の背に、友人が声をかけた。
振り向くと出入り口から顔を半分だけ見せて居間を覗く彼が目に入る。
「どうした」
「お前に電話なんだけどさあ……出る? 桃岡さんなんだけど」
「……一応」
本音を言えば切ってしまいたい。ここまでされればいい加減冷たく当たっても世間から責められはしないだろう、されど感情のまますげなく応じるのも大人げない。
子機を受け取って耳にあてる。
「はい、もしもし」
{真木さん、ですか……?}
誰だお前。初めて聞くしおらしい声音に思わず訝しむ。
しかしよく耳を澄ませれば、調子が違うだけでやはり桃岡であった。黙っているとそろりと忍ぶように彼女は続ける。
{あの、この前はすみませんでした}
「別に。それで何の用?」
謝罪が飛び出したことにも正直度胆を抜かれた。だからといって、「反省したから許しましょう、はい仲良しこよし」となるつもりはない。
第一彼女に己を振り返る機会を与えたいと願ったのは虎斑である。清廉潔白とまではいかずとも公明正大でいたいのなら誰にでも平等、公正な判断を求めるのかもしれない。立派なことだ。
自分には至極どうでもいいことだった。幸助は自分と自分が好ましいと思う人間たちが自身に非のない謂れを過剰に押し付けられるのが気に食わなかっただけだ。
かといって不幸にならねば許さないなど、自分本位な欲求を押し付ける側に立つのは御免こうむる。甘えたいのなら他の奴を当たってもらう。
{助けてください!}
「……えー、あー……はあ?」
一言、簡潔。あいも変わらず――愛も変わらず、世界は自分に甘いと思っている。彼女の世界の主たる者が『桃岡 菜々』を愛しているのだから当たり前、か?
「なんで?」
{学校で愚痴ったら聞いた奴がネットに書き込んだらしくて、皆して意地悪するんです}
「そうじゃなくて。なんで俺たちに助けを求めんの?」
{だって、こうなったのはあんたたちのせいもあるでしょ? それに正義ぶるなら助けてくれるのが当然ですよね?}
いつもに輪をかけて屁理屈をいう。いくらなんでも真木に直接助けを求めるのは無謀だというのはわかるだろう。わかりづらいが相当に困っているらしかった。
「別に正義感とかそういうので行動したわけじゃねえからなあ……俺は」
そこに期待したのならば虎斑にしておくべきだ。ある種正義に通じる『平等』の意思をもって行動したのは彼女の方なのだから。
受話器の向こうで桃岡が「ふぅぅ」と息を吐き、不満をかみ殺す。
{じゃあ、客ってことで}
「へえ」
{あたしを責めるような奴はどうせ馬鹿ばっかり。でもいい加減疲れるしウンザリする。マジウザイ。だからパアーッと明るくなれるような夢、見せてくださいよ}
前言撤回。彼女にとってあくまで自分が被害者であり、幸助たちが加害者。その為に高圧的な態度をとっている。最初のは単なる警戒だった。
心底他人を浅く見ている。気分が悪い。
唇を軽く噛み、瞼を閉じた。視界が薄暗闇に覆われ、ほんの少し胸の動悸が落ち着く。
――ああもう。どうせ、今後平行線が交わることもなかろう。
「ああ、あれ、そう。あんたをさ、前になんかに似てるって思ったんだけど、何だったっけな」
己の持たざるものを持つ者、範疇の外にいるものを憎み、貶め。小さいものを集め、執着し、悦に浸る。そして他人に厳しい目を向ける割には、自分は甘く接せられるのが当然であると無自覚に信じている。
「思い出した。なあ、『少年の日の思い出』って知ってるか?」
{は?}
桃岡の返しに明確な怒りが混じった。幸助は気にも留めず口を動かす。
以前の彼女だってちっともこちらに耳を傾けてくれなかった。聞いても聞かなくてもいい。最後に言いたいことを長々と喋ってやろう。急にそんな気になった。
「『そうかそうか、つまり君はそういうやつだったんだな』って台詞で有名なエーミール。あの話だよ」
金持ちで誰もが認める優等生、語り手である《僕》にとっては堪らなく厭味ったらしく嫌な存在として描かれるエーミール。
ヤママユガを壊した《僕》が謝って、宝物を全部あげるといっても先の台詞のみを返し、何も受け取らないエーミール。
感情のままに見ると、主人公である《僕》に感情移入してエーミールに憎しみを抱く。だが、そうだろうか。
エーミールに関する説明は全て《僕》の主観でしかない。
いっそ全て真実を語っているのかも不明だ。事実を語っていても多分に自己解釈を含んで曲解した説である可能性もある。
《僕》は彼に蝶の標本をこっぴどく批評され、いたくプライドを傷つけられた。その悪印象が尾を引いて、フィルターをかけてしまっても仕方がない。
なにせ子どもだ。感情を抑制するだけの理性が育ちきっていない年頃だ。
それはエーミールも同じである。しかし彼は優等生だった。
エーミールから見た《僕》はどうであっただろう。
正直な意見を言えば性悪扱い。家に不法侵入。金を支払ったうえ、大事に育てたという金銭的にも心情的にも価値のあったヤママユガを盗み、破損。謝りに来たが時間が経ってから。母親同伴で、説得されなければこなかった場合もありうる。
彼の心情を考えもせず。混乱と怒りを鎮める暇も与えず。物を与えれば許してもらえるという打算で交渉してくる。
辛辣なコメントすら「友人であるからこそ、無粋な気遣いは無礼である」と考えた可能性もある。そこは個人ごとの趣味嗜好、信念、思想。その違いでしかない。善悪・正誤は成立しえるのか?
できる、と自信満々に言えるのなら、その人物は冷静さに欠けている。
エーミールは冷静であった。怒りを覚える仕打ちに対し、皮肉ひとつで済ませたのだから。
そうした対応に、一部の人はいう。
{エーミール? それってあれでしょ、えらそうでクソムカつくガキでしょ。あんなやつぶちのめしちゃえばよかったのに! ナイフでギッタギタに切り刻んじゃえばいいよ。それで、それが何?}
それぞれに言い分はあるだろう。だが自分を棚あげし、罪を責めるようで自分には免罪符をつけて、できもしない凶悪な衝動をぶつけたがる。
「お前って《僕》そっくりだよな。似てるだけで全然違う」
《僕》は美しかった思い出――蝶を自ら穢し、破壊した。幸助の予想だが、それだけではないとも思う。
《僕》は『所詮権力によって守られ、与えられたもの』と見下していたエーミール。彼との精神的成長の差に打ちのめされたのでは――。少年とはそうした『未熟だった自分』を指しているのでは。
思い出が苦い理由が明確に語られていないため、全ては幸助、ひいては読者の想像でしかない。
想像する意思が大事だというのはいかにも国語や道徳らしい文言である。
{え、あたしが真木さんに似てる?}
「俺に似てる? そうかもしれんが絶対に違う」
自分に甘いところ、思考を投げることを得意としていること。近しい点はあれど同一はありえない。当たり前で当然のことだ。
話の内容は案の定ほとんど聞き流していたようで、返答は末尾を捉えただけ。
やはり彼女は少しも振り返らない。
自分を疑わずに全力で肯定できるというのは幸せだ。彼女は彼女なりに人としての幸福を追求しているともいえる。
本人がそれでよいのなら、それでよい。自覚がなくとも彼女は自分の道を選んでいる。
「話戻る。悪いんだけど、俺の商売は人の心を支える『夢』を売る仕事であって、苦しい現実から一時的に避難するものなんだ。逃げだして安全地帯から否定して、そのまんま腐っちまうような妄想の墓地じゃねえんだよ」
友人だって自分を大切にしている。だが幸助のことも大切にしてくれる。だから前に進む。一人ではすぐに腐ってしまっただろう幸助の背を推してくれた。
認めるのは癪だが、先日会った鳩の存在もある。
自分はああは素直になれないし、他人の幸福を純に願うこともできない。異能が人を殺すものでないことも羨ましかった。
夢を通じて彼を知り、嫉妬や畏れ以上に家族としての想いが強かったのも妬ましかった。
それを当然と受け止めている心に怒りを覚えた。ゆえに幸助は鳩が嫌いだ。根本的に相容れない。
幸助はどうしても人間という種族が好きになれない。世界が個人で形成されている。正生は清く正しく美しいとは言い難かった。その分、友人や虎斑といった人物が好ましい。
鳩は、心の内を覗いた限り、逆だ。人の優しさを知り、全体として愛している。反対に個人を見れば不信と恐怖を覚える。だが人への愛から優しさを以って接する。
嫌いだ。だからこそ幸助は、人を堕落させ追いつめる存在ではないと証明しなければならない。嫉妬を醜い異形の怪物に変えないために。
力があっても人を愛せると彼は証明してくれたのだから。
「後は自分で頑張ってくれ」
返事はきかずに通話を切る。
らしくない綺麗ごとを抱く胸に渦巻く気持ち悪さ。それが不思議と心地よかった。
○
ダンボールを荷台に乗せる。廃品回収に使われるような形のトラックを友人がレンタルしてきたのだ。
溜め込んで大量に蓄えてあったダンボールに対し、室内の荷物はそう多くなかった。一番重く感じたのは、本が隙間なく詰められた一箱だ。本棚も迷ったが、結局乗せてしまった。
邪魔になったら売らざるを得ないだろうが、その日までは思い出とともに。
「本当にやり直しだなあ」
「何もかもうまくいきすぎてたんだ。こんぐらいグダグダしてる方が俺ららしい」
「そうだけど、金が……まあいいか」
最後の荷物を乗せ、寂寥が押し寄せる友人に感化され、ちょびっとだけ名残惜しい気持ちが湧く。
こうした気持ちが抱けるのも、あと何度になるのか。最後であるのに越したことはない。
「あんまりココにも思い入れねえし」
独り言には誰も答えない。目をやれば、友人は最後の確認に行ってしまっていた。
あー、と情けなく喉を鳴らす。意味もなく外を見上げれば、真上は晴れていたが遠くには怪しい暗雲が忍んでいる。
通り雨かもしれない。青く重いシートを取り出し、荷台に被せてロープで結ぶ。
なかなか頑丈な壁となった荷台に背を預け、ぼうっと友人を待つ。
路地裏だ、挨拶しなければならない近所もいない。だが見つかって呼び止められるのは面倒くさい。
――どうか誰も来てくれるな!
割と真剣に願った瞬間、コンクリートの上に散らかった砂利を踏むザラついた音が鳴る。希望を打ち砕く音に、いやいやながらそちらを向く。
「……え?」
蜃気楼だったのかもしれない。白昼夢だったのかもしれない。遺った想いが生んだ幻覚だったのかもしれない。
天使がもたらした慈悲だったのかも、知れない。
渇いた道路の遥か遠くに立つその人の相貌をはっきり視認はできなかった。されど網膜に焼きついた過去を見間違えるはずもない。
この世とあの世の誰よりも幸助に近しいはずの人を。
眉の形一つわからなかったが、彼はいた。
風が過ぎ去るとともにかき消えた『笑み』。生前一度も見ることが叶わなかった姿。
我が子を褒める親のような優しい顔を観た――気がした。