プロローグA
「夢現の子ら」(ゆめうつつのこら)
『私が死ぬとすれば、それは事故です。事故でしょうが、その原因が私にない場合もあるでしょう。もし、そうならば、その人達の罪を赦さず、同時に、彼女達の心は許してください。』
少女の遺書には、そう書かれていた。
高校生という年頃の娘だった。遺書が見つかったのは彼女の部屋。小学生の頃から使っている勉強机。付属の引き出し、上から二番目。部屋の物は、弟よりも少ない。荒れようのない部屋だ。死ぬ前もちりひとつなく整頓されたまま。遺書も他の手紙と同じ場所に、なんでもない書き損じのように置かれていた。
何故。何故、このようなものを残した?
誰にも渡されなかった遺書。あまりに淡々として、当たり前のように揺るぎない心のもと書かれた、死への手紙。わからない。人間はこれが当たり前なのか?
弟は一人の《天使》だった。
ここでいう《天使》と呼ばれる存在は、神の御使いのことにあらず。
人々が本当に神の御使いだと信じているわけでもない。この呼び名はあくまで便宜的なもの。彼らが「人ならざる者」ということを示すための記号。
《天使》はある日突然、人間の幼児の姿で現れる。
何の前触れもなく忽然と。
気付いたらそこに。
そうして最初にいた場所にいた一人を、《親》と定めて慕う。
成長すると共に彼らは《親》の人格に影響されながら自我を形成。育まれた人格に応じて目覚める力こそ、《天使》と呼ばれる所以――異能である。
あるものは思念で物を動かし、あるものは空を飛ぶ。科学も、地上の法則も通用しない。まさに奇跡の御業。
人と変わらぬ外見と明らかに人間とは異なる体構造。成長速度はまちまちで、生態のほとんどが謎に包まれた不可思議なイキモノ。
その発生は紀元前から記録が残っているが、人間に対する割合としては少数派だ。普通に生きる分には滅多に出会わないだろう。だが一般に認知される程度には共生してきた人類の隣人。
ここに一人の少年がいた。
少年は《天使》だった。
《親》たる少女は人間だった。
彼女こそがこの世界における少年の見習うべき存在であり、よすがであり、頼るべき岸部であり、最も大切な人――もっとも長く見てきた人……であるはずだった。
○
彼の一番古い記憶は、自分を見つめる瞬き一つしない大きな瞳。
歳の頃十にも満たないと思しき少女が座したままこちらを見下ろしている。見下ろせるほどに当時の少年は小さかった。人の年齢に直せばおそろく三つか四つくらいだったように思う。足もまだ萎えていたのだ。
まるで人形のような少女。
生き物としての気配がほとんどない。ゆるい直線を描く唇には力がこもっておらず、その表情のなさが、背丈に似合わぬ大人びた雰囲気を与えていた。
全体的に『薄い』。それが最初の印象だった。
穢れや悪意といったマイナスの雰囲気を一切持っていない代わりに、存在感も酷く希薄な彼女。
「あなたは」
色素の薄い少女の唇から、声が漏れた。
名を問うているのだ。
当時の少年――幼子には彼女の意図を理解することができた。だが一方で答えるべき言葉を持ち合わせなかった。幼子には名乗るべき名もなく、人語を発した経験すらも皆無であった。
慣れない眼球をくりくりと回す。
四方はクリーム色の壁。
部屋の中らしい。
調度品の類いがほとんどない。柔らかい配色なのに、どこか寒々しかった。
そんな殺風景な部屋も、中心に少女が座っていると不思議と調和がとれて見える。唯一の異物といえば、見下ろす彼女の視線の先で寝転ぶ幼子の存在くらいのものだったろう。
「そう」
答えられない幼子に、なにかを納得したらしい少女は静かに首を上下に揺らす。
「待ってて、お父さんを呼んでくるから」
「オトウ、サン」
とても耳に馴染む単語。
頭のなかに入った情報を懸命に引きずり出し、形になったばかりの舌を動かす。
「きみ、は、おかあさん?」
少女はその時になって初めて表情を変化させた。ただでさえ巨大な目を見開く。
ゆるい口がわずかに震える。何がしかの言葉を紡ぐ前兆に思えたが、しかし、結局彼女は何も言わなかった。思案するように目線を泳がせ、随分してからやっとこちらを見やる。
「そう呼びたいなら、呼んでもいいよ」
大人びた、という印象すら超えて、いっそ母性に満ちた包み込むような優しい口調。
最後に柔い笑みを残して少女は部屋を出ていった。
それが過去の幼子――今の少年と彼女の出会い。
○
時は流れて。
少年が現れ少女という《親》を得てから十年。童女は十七歳、背は既に少年の方が高い。
その身長差は来年にはますます広がるはずだったのだろう。残念ながら、確認する機会は永遠に失われた。
青い風がそよぐ四月。
少女は大人になる前に、死んだ。
学校の階段から足を踏み外しての転落。いわゆる脳挫傷だ。打ち所が悪く、助からなかった。そういうことになっている。
翌日の朝礼で聞いた、校長による発表の空々しさよ。
彼女の一学年後輩として、数週間前から学校に通いだした少年は直接彼女が転落する場面を目撃したわけではない。それでも嘘だとわかる。
朝礼を聞く大部分の生徒たちも校長の言葉を信じてはいなかったろう。少なくない生徒が学校で少女がいじめにあっていたことを知っていたから。
にも関わらず、誰かが手を差し伸べたわけでもない。少年が事実を知ったのは入学後。成長が緩やかになり『十五歳』と名乗れるようになったのをきっかけに。
ただ、間に合わなかったのだ。
やっといじめの証拠を押さえたばかりだった。
どうにか穏便に解決しようと考えていたのに、結局、後手に回ってしまった。
助けたかった彼女は死に、もう戻らない。
ならば、どうすれば?
せめて彼女の真実を広め、彼女を死にいたらしめた人間たちにしかるべき罰を与えるべきではないのか。誰かに痛みを与えたならば、返ってくる覚悟は当然しているべきだ。
最も、すぐにできなくなったが。
彼女が亡くなって三日。曇天の朝、彼女の机から見つかったその便箋のせいで。
エスカレートしていくいじめに、念のため用意していたものらしい。
真っ白な封筒に入った一枚の紙。遺書だった。
―――――――――――――――――――
私が死ぬとすれば、それは事故です。事故でしょうが、その原因が私にない場合もあるでしょう。もし、そうならば、その人達の罪を赦さず、同時に、彼女達の心は許してください。罪を憎んで、人を憎まずといいます。難しいかもしれませんが、それを実践してください。
どう言葉にすべきかとても悩んだのですが、私は特に彼女達を恨んでいるわけではないのです。
確かに頬を叩かれる日もありました。いわれのないことで睨まれたりするのに、痛みを感じなかったかといえば嘘になります。
けれど、人間誰しも欠点があります。
同じように、美点も。
だから彼女達を許し、信じてあげてください。誰でも過ちを犯すのですから。
これを読むあなたは、私の意見に賛同してくれないかもしれません。あるいは、許すにしても、長い長い時間が必要である場合も。
この世を去る私より、残された人たちの方が、よほど辛い日々を送ることになるかもしれません。
それでも、どうかお願いします。
責苦は、その人の善性のためにのみ与えてください。
相手の人生に責任をとれる人だけが怒ってください。
傷づけることも優しくすることも、すべては同じ原因から生じるのです。人が、自分を含む「人」という同胞を愛しすぎるからこそ。だから、こういったことも時には起こりましょう。
無責任にお任せすること、大変申し訳なく思います。
――――――――――――――
人生最後の手紙にしては短く、願い事としては長く。
とても丁寧に、細い字で綴られた文面。
本人の希望により、その文面は四日後の朝礼で読み上げられた。直後、生徒たちに走ったどよめきを今でもよく思い出せる。
皆、彼女をいじめていたグループには、何らかの制裁や罰が下ると思っていた。少なくとも、被害者の手紙には怨嗟の言葉が溢れているはずだと。
彼女とは無関係な大部分の人達は朝礼を聞いた後なんて優しい子なのかと口ぐちに囁き合った。
地方紙は、彼女の手紙を美談として、紙面の片隅に掲載した。
だが、彼女をいじめた当のグループのメンバーたちは違うことを考えていたのではないか。その手紙は、彼女達に向かう糾弾を弱めてくれたが、素直に幸運とは受け取れなかっただろう。
調べた結果わかったことのように。「いじめよう」と決めた時のように思ったはず。
『人が善すぎて気持ちが悪い』
ここでひとつ。恐らく彼女達は間違った印象を抱いている。
少女は最期まで愚かな偽善者だったと。醜い仮面であったと。
とんでもない。彼女の言葉が、態度が、反応が、偽善などではないことを、ずっとそばで過ごしてきた少年だけが知っている。
手紙は少女の本心なのだと。
優しさの塊のような少女は、自分をいじめた人間たちを、まるで親友を労わるかの如く気遣い、己の死を予感してなお、彼女達にそなわる本質としての善性を信じたのだ。
学校の机にごみを詰められ、教科書は破かれ、靴は隠され、聞こえる距離からねちねちと陰口を叩かれ、時に直接罵倒され。テレビドラマでも最近見ないような陳腐な方法で――しかし確実に傷つくやり方で、散々に心身をすり減らされたはずなのに。
(どうして自分自身のために怒ってくれなかった? 少しでも。ほんの少しだけでも)
そうすれば、事態は多少なりとも違う様相をていしていたのではないか。
(もし僕だったら?)
疑問と怒りがとめどなく浮かぶ。歯止めがきかない。胸元を掻かき毟むしり、そのまま心臓を抉り取ってしまいたい衝動に襲われた。
彼女の受けた痛みを想像することが、大切な人を喪ってしまったことが、こんなにも苦しいなんて。
(残されるのが彼女の方だったら? 同じように悲しんでくれた? 涙を流して?)
そんな彼女は想像できなかった。
これはひどい想像だ。『自分のために泣いてくれる少女』を少年は信じることができない。己の死に対してさえ、あんな手紙を残した彼女だ。
いっそ異常なほど淡白に「仕方のないことね。許してあげましょう」くらいは言うかもしれない。
きっと、そうだろう。
そう確信できてしまうことが、よりいっそう悲しかった。少年は少女を亡くしてこんなに悲しいのに。逆の立場をとった時、彼女は少年のために泣いてくれない。
ありありとわかる。彼女がとる行動は大体。彼女が死んだ今だって。
だが心の内がわからない。
いつもそうだ。彼女がとるだろう結果だけが見えて、そこに至った彼女の思考の軌跡をトレースできない。行動パターンを解析することはできても、結局いつも周回遅れ。だから置いてきぼりを食らう。
少年は彼女をよく知っている。ずっと見てきたから。
故に理解できたが、現実と感覚が乖離する感覚を『わかっている』と呼べるだろうか。
「彼女は優しい人間だった」という現実と「彼女はこういう人間だった」という感覚を。
世界でただひとりの《親》だったのに。
この世で唯一の人だったはずなのに。
少年には、彼女のことがわからなかった。