おぼれた僕(4)
少女が足を踏み出す度、躑躅色の髪が風に揺れる。隣で歩くのはひょろりと背の高い男。
相当目立つ二人組は通行人の注目を集め、きちんと歩道の端を歩いていてもあらかさまに避けられていた。人の多い休日の日中に生まれた不自然な空白。
本当に歩いているだけで会話すらない。それでも危ない類の人間なのではと民衆は恐れる。
滑稽であった。
どこからどう見ても路面で踊るピエロのようによく目立つ。きっと桃岡も何処からか見ていることだろう。
昨日の午前と午後、今日の昼、と三度目の挑戦だった。そろそろ見つけて欲しいというのが本音だ。
フリとはいっても気まずいのか、手を繋いだりはしない。虎斑が『真木』に近寄り、悪戯っぽく笑う。
寄り添って緩やかに歩を進める姿は、何も知らない人間が見れば《恋人同士》に見えるであろう……多分。
近頃の恋愛ごとは過激だという。果たしてスキンシップもしない二人はどう見えるのか。
もっとも異性が一緒にいるだけで愛だ恋だとやかましくもある。安易に気を許すなという割には形だけでも深い関係を求めるようで、何気ない動作までやましい思惑があると囃し立てられるご時世。
集まる奇異の目線を浴びて真木はしかめ面で先行する虎斑を追う。ふらふらと頼りない足取り。時折日差しを避けるように顔に手を翳す。庇った肌は異様に血色が悪い。こんがり焼けるよりもどろりと溶けそうだ。
こんなにもすぐ近くで同じ顔を持った青年が二人歩いているのに、指摘するものは誰もいない。
今、前方で歩いているのは姿を偽った鳩。幸助は数十メートル離れた箇所から二人を見守っていた。
「大丈夫かねぇ、なんか心配になっちまう」
幸助とはまた違った場所からあたりを見渡している友人は、器用なことに歩きながら貧乏ゆすりをした。電話越しに衣擦れが聞こえる。
人の目線というのは想像するよりも堪えるもの。形のない刃だ。不特定多数で対処法もほとんどない。
[なんとかなるだろ]
「うーんでも……おっ?」
一歩分の時間、友人が止まった。
「おう、ついに来たぜ。見覚えのある茶色い髪がぴょこんとな」
大まかに彼女の場所を告げ、携帯をかけ直す。幸助は帽子のつばを摘まみ、目深に下げた。
桃岡はどうやら数メートル後ろにいるようだ。田舎だからか人は掻き分けるほど多くない。その隙間をずんずんと突き進んでくる。
――追いつかれないか?
懸念したところで虎斑が携帯を取り上げた。耳元に画面を押し当て、うんうんと頷く。何を話しているか聞き取れないが相手は友人だろう。
虎斑が振り返ってジェスチャーを送ってきた。まっすぐ大通りを進んでいたのを急に曲がる。わきに繋がれた路地に入ると真後ろからは姿を確認できない。
背中に火をつけられたように桃岡が飛び出す。まさか誘導されているとは気づきもせずに。元から周囲を省みない彼女が気付けるはずがないのだ。
〇
何故、鳩が幸助に擬態しているのか。
それも虎斑の願いと提案のためだ。幸助としてはどうでもよいことだったが、鳩も賛同し、友人は三人に丸投げ。なし崩し的に行動に踏み切ることとなった。
彼女の望みとはシンプルでいてとても難しい。
『自分たちに桃岡とわかりあうチャンスか、彼女に踏み止まる機会を』。
虎斑は桃岡が悪い、とは言おうとしなかった。
個人的なストレスでいえば確かに害を被ったが、あくまでそれは彼女の一面ゆえであり『悪』と決めつけることは主観にすぎる、と。
「だから迷惑した『思い込みによる行動、他者の侵害』に抗議はしたい。かといって個人的に過ぎない『悪意』で決めつけて悪人呼ばわりはしたくないんだ」
だから警察に訴える前になんとか直に何らかのコンタクトがしたい。
わかってもらえると思えるも思わない、わかってくれるのが当然というのも自分の意見こそ正しいものというのも傲慢だ。
「だからって悪趣味な気もするが」
「そうだろうか」
幸助とは微妙に重きを置く箇所が異なるのだろう。
紛い物の可能性があっても恋をあれほど重要視していた桃岡。その彼女に
「真木と思っていたものが別の誰かだった。見ていたのは人でなく自分、恋そのものを侮辱している」
と思わせることで、立ち止まって自分や周囲を見直す機会になればというのだから。
虎斑にとっては納得と相互の尊重が大事なのだろうが、桃岡にとって重要なのは愉快と自尊心――よく言い換えれば、己の幸福と誇り。
圧制者に苦しむ民も飲食と着るものに不自由しない幸福と人間としての尊厳を求めた。
どんな人間も間違える。若い時なら猶更。だから大胆に、慎重に進んでいく。
しかしその間違いとは、一体誰にとっての間違いなのか。
〇
路地といってもそう薄暗くはない。日を遮る建物や樹木もなく、覆い被さるのはさんさんと明るい太陽のみ。それの落とす影は人にとっての光だ。
薬局やレンタルビデオ店といった多くの人が使う店は大通りに面している。路地に入ると人が全くといっていいほどいなくなってしまう。
稀に人が通り過ぎていくが多くは大通りの店が目的で、他の人間になど目もくれずあっという間に過ぎ去っていく。
いくら奇異な男女とはいえそこまで追ってこようという物好きもいない。
自分たちにとってとても都合がいい場所。
「はあ、はあ……ちょっと、アンタッ!」
甲高い声が静寂を貫く。
真木と虎斑が揃って背後を向いた。全力疾走でやって来た桃岡は、拒絶されない躑躅の少女が気に食わないのか地団太を踏む。「んーッんーッ」と己のうちで怒りを爆発させるように唸る。
「こんにちは。元気そうで何よりだよ」
にこやかに挨拶する貌に邪気は一切ない。桃岡でさえなければ好青年らしい言葉に思える爽やかな笑み。いつもの笑顔だ。
「人をバカにするのもいい加減にしなさいよッ」
「馬鹿? 具体的に虎斑がどう君を貶めたのかな。そこにある虎斑の意図は? まさかわけもなく貶めるほどゲス扱いをするつもりかい、この無力な虎斑を」
「そういう小難しい言葉使ってごまかす気でしょッ! このアバズレッ!」
「否定的な言葉こそ感心しないなあ。話し合いとは相互が交流を望んだうえで成り立つものだろう」
「ああもうわけわかんない、気でも狂ってるわけ!? キチガイ、そうキチガイなのね!」
「一方的に否定するのは侵略に似ている、傷ついてまで従う気が削がれるよ。少なくとも虎斑には求められれば解るまで、粉骨砕身解説を試みる心構えがある」
遮られながらも最後まで言い切られ、声にもならぬ叫びをあげる。完全な無視は完璧な煽りとして機能した。
キャットファイトというには怒りの天秤は桃岡に寄り過ぎている。
「虎斑さん、からかい過ぎるのは」
黙って見守っていた真木がおずおずと耳打ちし、ようやく虎斑が口を閉じた。口許はいまだ緩んでいるが。
大きな瞳には愉悦はあっても悪意による快楽は浮かんでいない。幼子がしがない悪戯をしでかしたのを眺める年上のような生易しい目。
「冷静になった。ついおちょくってしまうあたり虎斑も子どもだな、意味のない語りをするのも反省しないと」
「わかってんなら最初からやるなっつぅの、ゴミかよ! かっこつけて気持ち悪い! 吐き気がする、さっさと精神病院でも墓にでも入りなさいよバカ女! ねえ真木さん、騙されてるんだって! こんな奴よりあたしの方が上でしょ、どう見ても!」
「……」
呼びかけられた男は表情を曇らせた。自分を支持する応援を求めて彼をじろりとねめつけ――今更。本当に今更に真木を観た。
かさついているが傷一つない腕。痛んだ暗い髪。ここからでは見えないが、虹彩はよく目立つ翠。透き通ったミントグリーンだ。
「え、あれ……カラコン?」
「騙したようで申し訳がないのですが。真木……仙助、です?」
発せられた声は幸助のものと比べ、やや高い。伏せた睫毛が小刻みに揺れる。その姿としぐさをきちんと見ればすぐにでも見抜けたはず。
『真木』は謝罪を口にする。勿論幸助に兄弟はいない。
瓜二つの容貌を持つ彼の正体は鳩だ。自分の顔が弱々しい態度をとっていることには辟易するもよく出来た変装だとは思う。
わかったうえで見ると心底アホらしい演技。名前も嘘、謝罪も嘘(悪いとは思っている。しかし「ようで」も何も最初から騙す気満々だった)。
だが真実を知らない――興味もなかった桃岡には紛れもない事実だと思えただろう。
「喚いたわりにはこんなわかりやすい違いにも気付けないとはな」
『真木』改め仙助=鳩の後ろからのそりと近寄る。腕が見えないように手首まである長袖。顔を隠すためにつけていた帽子を外せば、彼女はよろよろ後退した。
「え、嘘、あれ、なんで」
混乱して先程までの怒りがなりを潜めている。交互に幸助と鳩を見比べ、「あれ」と繰り返す。
かなり遠くとはいえ、ずっと三人の近くにいたというのに。余程目の前の餌が魅力的だったのだろう。
目先にニンジンをぶら下げられていた馬は、ぽかんと口を開く。
一途な好意を示す乙女を演じていたのに、ぽろりと仮面が崩れ落ちたような。周りはずっと前からオンボロの隠れ蓑だと気づいていたのに、今初めて知ったとでもいうような。
逸らし続けていた真実に無理矢理向き合わされたような。
つまらない狼狽だった。
「ここまでわかりやすいのに気付かないっていうのは、本当は真木 幸助さんのこと、そう好きでもなかったんじゃないの?」
「はあ? あんたにそんなこと言われる筋合いないし。嫉妬? 醜いよ! 心も顔もドブス!」
それでも虎斑の言葉には噛みつく。だが彼女のすぐ傍。なんともいえない形に顔面のパーツを歪めている。幸助はあらかさまに侮蔑をぶつけてやったつもりだった。
『好いた人』と嘯いた姿が二つとも自分に好意的ではないと悟り、慌てて愛らしい適当な笑顔を向ける。
この状況で笑ってどうしようとしたのか。愛くるしい笑顔で気を惹こうとしたのか。混乱のあまり突拍子もない行動に出ただけか?
――笑顔は威嚇、だっけ。
幸助には桃岡の笑みが、暖かいはずの好意や切ないはずの求愛が、力づくで此方を思い通りにしようと鋭く狙う肉食動物のそれに映った。
「どうしたらそこまで攻撃的になれるんだか俺にはようわからん。疲れるだけだろ、一人相撲とっても」
「え、だって。女の子ってそういうものだよ、恋って」
「だから意味わからん。女だから、何? お前はお前だし、俺にはお前を今までの行動からしか判断できてない」
「ん、え、ん? 何がいいたいの、悪影響受けちゃったの?」
「お前はただ自分をいい気分にしてくれる奴隷だかアクセサリーだかが欲しかっただけじゃねえの?」
「違うよ、酷い、」
「でも……わからなかった、んですよね」
ばれやしないかと怯えながら鳩が横やりを入れる。打ち合わせ通りだ。
自分は何でも知っている。自分が一番なんだ。そういって若者の恋なら何もかも許されると恋愛をカバーに使って盲信していた少女なら。
『好いているのに気付けなかった』という事実は手痛い。
「う、でも、でも」
「お前、恋愛ごと大好きなんだろ? じゃあこれだけわかりやすいのに勘違いって
どうなんだ」
本当にこれだけで彼女が納得してくれるとは思っていない。
今回の作戦は虎斑の提案によるものだ。幸助としては単にちょっとした仕返しをしてやれればよかったのだが、彼女は単なる攻撃になるのは嫌なのだという。
『桃岡の感情は恋ではない』そこから己を振り返り、この小さな騒動の原因に思考を巡らして欲しい。
そうすれば桃岡の成長に繋がる。二度、三度目の騒動を防げるかもしれない。何らかの成果が生まれれば、今回の迷惑にも納得することができる。
放っておけばいいのに。
「違う……違う、違うの」
何が、と追いつめる声はなかった。
思考を停止し、固まった桃岡。鳩は気まずそうに視線を右往左往させる。虎斑は後は全て本人次第と興味なさそうに明後日の方向を見つめていた。
遠目に友人の姿も窺える。いざという時の為に携帯電話をしっかと握って、こちらを観察しているのだろう。
「では、桃岡さん。またなんかあったら、今度は意見をぶつけ合えるように直接会いに来てね」
腕時計をちらりと掲げ、その場を立ち去ろうとする。
――お疲れ様。
桃岡への嫌味混じりに挨拶をしようとした。
呆気なく小さな変化に不満はあれ、これ以上何かする気も起きない。彼女が去り次第、幸助も帰るつもりだった。
しかし、桃岡は襲いくる不快に耐えられなかったのだろう。いつも通り、不満を外にぶつけ自傷の回避を試みる。
つまり――全ての元凶たる虎斑に飛び掛かるという暴挙に。
○
一部ではつまらぬ些事に収まっても、世の全てが寛容を美徳に定めてはいない。
目に留まった事柄全てを憎み罵る者はいる。広まれば広まるほどその確率と量は高まっていく。
自責の念がないと思われれば苛烈な対応が増えるのも当然。
かくして少女は『敵の復讐』ではなく『世間の悪意』に晒された。