おぼれた僕(3)
やはり、こういうことになってしまったか。
覚悟はしていたものの、複雑だ。出会った時と同じベンチに腰かけて空を見上げる。
途端に広がる大きな瞳とピンクの髪のドアップ。
「わああッ!?」
「おっと、驚かせてすまないね」
からからと笑うのは、いつの間にかすぐ後ろまでやってきていた虎斑だった。ある意味においては、自分よりずっと大変な状況だろうに。本当にどうしてこうも明るくいられるのか、是非とも知りたいところだ。特に今は。
「はあ」
「うん? 落ち込んでいるね、そんなにびっくりした? それともタイミングが悪かったのかな」
「いえ、虎斑さんのせいではなく。来るべき時が来たといいますか」
「……ああー、引っ越しすることに?」
鋭い。
全く関連する言葉を発しなかったのにすぐに見抜いてきた。あまりの察しのよさに舌を巻く。
今朝のことだ。家に見覚えのある派手な封筒が届いていた。もし先に鳩が見つけていれば、心苦しさを感じながらも隠しただろう。だが、両親が先に見つけてしまった。
トラフという名には両親も聞き覚えがある。佑の友人。だが鳩が直に接触したことは知らなかった。虎斑が桃岡に付け狙われていることも。
「タイミングが悪かったんです」
ただでさえ過敏になっていた両親は、鳩までもが犠牲になるのではと恐れたのだ。こうなるとわかっていたから、虎斑の危機も相談できなかったのに。
「何時ごろ、どこへ引っ越すのかは決まっているのかい? 立ち入った話だから、別に言わなくてもいいけれど」
「まだ決まっていません」
「そうか。ついに君にまで目をつけはじめたか、人間なんて何をするかわからん。物理的な距離をとれるに越したことはないだろう」
残念がってくれないのに寂しさを覚えることに、少し驚く。案外、思っていたよりも虎斑に対し好意を抱いていたようだ。黙ってしまうと虎斑が隣に座る。心なしか表情が曇っていた。鳩の望みが見せる錯覚か。
「ところで、君自身はここを離れることをどう思っているんだ?」
「あんまり……正直、なんだか……乗り気にはなれません。この町は好きでも嫌いでもないのですが、漠然と」
姉をいじめ殺してしまう人間がいる町が怖い。場所の記憶が忌まわしい感情を呼び起こしてしまうというのも、わからないでもない。
だがどこに行ったって良い人間も悪い人間もいる。多少の差があっても町そのものが人の心を作るわけではない。
人の心を作るのは人。己を作り上げる欠片の組み合わせを決めるのは自分。バラバラの破片は確かに周囲の世界がこぼしたものを拾う。
全て把握するなんてできるはずがない。
今、ここで場所を代えてしまうと、自分が本当に欲する何かを取りこぼさないだろうか。そんな予感が鳩を苛む。それは逃げなのではないか、と内側で響く非難もある。
「一番長く住んでいる場所です。知り合いだっています」
本当は天使である鳩の知り合いはそう多くない。天使はその不安定な成長速度と異能という特性から、定期的に医者とカウンセラーを受診するのが望ましいとされている。
ここ十年、異能を狙われ邪な視線を向けられることを恐れた両親の意向と鳩自身の性格もあってほとんど外に出なかった。家族と担当医、カウンセラー以外に挨拶以上の会話をした人物はいない。
友人と呼べるような存在も虎斑だけだ。クラスメイトとも挨拶をするだけだし、佑のこともあって鳩を腫物のように扱っていた。
実質的に鳩が離れ難いと感じるのはほんの一部なのである。ならば他の場所にいって一から作り直しても大差はない? この町における友達作りにかけた時間はそう多くないのだから。
そんなまさか。
「鳩くんはそれをご両親には言った? 相談した?」
「そうは言いますが、子どもは親の言うことを聞くべきなのか、とも思うんです。所詮僕の小さな違和感。お金を出すのも育ててくれたのも両親。佑を失って悲しんでるのも僕だけじゃない。お母さんもお父さんも人間です、傷ついて弱っているに違いないから……困らせていいのかなって」
「でもいってみなきゃ思ってることは伝わらないよ。察してくれ、なんてそれこそ身勝手だ。後から『本当はこうしたかったのに!』って言い訳は許されないよ、一度自分で選んじゃったのならね」
「許されない」
はっきりとした否定に揺さぶられる。いつもはどちらにでも揺れ動くチャンスを見せてくれるのに。
「だってその決定、君だけじゃなく他の人にも響くでしょ。相手を尊重しようっていう姿勢は立派だ。素晴らしいとも、感動的だね。でもそれは他人が
『優先しがちな自分を抑えるなんてなんて冷静! 他人を優先するなんてなんて優しい!』
って思うからであって、
『他人を優先する私、優しい! そんな私を気遣わないなんておかしい!』
ってなったら、やっていることが後々に矛盾になったのもあって混乱する。酷い身勝手だ、って」
「それ、やる側もやられる側も相手に対して自分中心の見方をしているじゃないですか」
「そりゃそうさ。心の内の決定なんて、自分の分しか見えないもの。酔いしれちゃうよ。外に出ないうちは綺麗なものさ。虎斑はそれならそれでいいじゃあないかって思うけどね」
でも人間、たまには汚い部分も出さないとどうにもならない時がある。お互いぶつかり合ってでも見つけ出さなければ後悔することが人生にはあるのではないか。
「妥協点も得られないまま――納得できずに大決断を流しちゃうだなんて、悔やんでも悔やみきれない」
「…………」
「いつも通り、虎斑なら、だよ。決めるのは君」
にっこり。深い笑みを浮かべ、虎斑はぽんと膝を打つ。
「ああそうだ、そろそろ時間だな。行こうか」
「あっ、はい。そうですね、行かないと」
決めないと。今はまず、別のことを。
今日ここに来たのは黄昏るためではない。《エンデュミオン》で集まるためなのだから。
○
店に向かうとカーテンは閉じきり、玄関には『close』とマジックで書かれた木の板が乱雑に下げられていた。
仰天して駆け寄って木の板を手に持つ。まだ真新しい板。やすりもかけていない、ホームセンターで買ったものに穴をあけただけ、といった様子。
一体どうした。幸助は、受付は? いなくなってしまったのか?
瞳をぐるぐる回す鳩に背後から聞き覚えのある声がかかる。
「おうい、二人とも」
「えっ!? あ、」
振り向いた先には白いビニール袋を提げた受付がいた。ビニール袋には野菜や
肉、冷凍食品にスナックがぎちぎちに詰まっている。
彼は申し訳なさそうに頭をかきながら近づく。
「ごめんな。事情があって店を閉めてるんだ。今、カギ開けるから待ってて」
ポケットから車のキーホルダーが付いた鍵を取り出し、玄関に差し込む。チリン、と安っぽい鈴の音を奏でて重い扉が開く。
中の電気は消えていたが、奥に光が灯っていた。待合室と施術室の電気は消えているが、奥の生活スペースだろうか、そこだけはしっかりと明るい。あそこで幸助が留守番をしているのだろう。
予想が的中している証明はすぐに成された。足音を聞きつけてかモソモソと幸助がやってきたからだ。
前よりもっと顔色が悪い。暗い秘境に生える湿った木を思わせる陰気さだ。しかし反対に表情は晴れ晴れと朗らかになっている。
「大丈夫ですか?」
「平気だ。異形化が進行しちまってな、落ち着くまで店は休む」
「異形化…!?」
異形化。それは天使特有の現象。ということは、真木は天使なのか?
ぱちぱち激しい瞬きをして真木を見つめてしまう。視線に気づいた真木はニヤリと意地悪く口角を吊り上げた。馬鹿にするような歪み方にむっと顔を顰めてみせる。
「気づかなかったのか?」
「言ってませんでしたから!」
「そうだな、おかげでこっちは助かっていたわけだ。いいんだよ、それは。重要なのは桃岡だろう? 悪いが、俺はこの調子だぞ」
薄い七分丈の上着を肩まで捲る。真木の腕は付け根から肘に至るまで、ヒビ割れたような黒い樹木に変わっていた。異臭はしないが、人の身体が植物の様相を醸す異常な姿に顔を覆ってしまう。
悪気はない。だがこのような扱いをされていい思いはしないはず。すぐに掌を顔面から離すも、「フン」と鼻を鳴らされるのは避けられなかった。
「服で隠せないことはないが、今年は暑い。ファッションやらアウトドアにはてんで興味がないんだが、これぐらいの長さなら違和感はないか」
「微妙。ノースリーブにカーディガンを羽織る女の子とかもいるから、不自然ではないかな? 暑くないのかって目に留める人はいるかもしれません」
「格好以外にも顔色悪いしな。腕を見られるのも恐い」
受付は心配そうに相方を見やっていた。彼は元々真木が天使であると知っていたのかもしれない。以前と何も様子は変わらず、どこからどうみても人間の友人を心配する一般人だ。
「囮役なら虎斑でいいんじゃない? 彼女、虎斑を恨んでるみたいだから。派手な行動をすれば頭に血が上って一言物申しにきてくれたりして。暑いから血が程よく温まるだろう」
「いい加減、オシオキしてやらねえと」
「真木さん。やりすぎないように気をつけましょうね」
桃岡には困らされている。だが、嫌な思いをさせられたからといってやり返したら同じになってしまう。過剰になればやり過ぎになってしまう。
自己愛から来る行動は度を越えやすく、簡単に悪意に変わる。
仕置きや罰は怖い。痛くてつらい。だから嫌だと思う、誰かが受ければ極力避けさせてやろうと考える。
その矛先が自分に向かって来たら、という自己愛から来るものかもしれない。自分だったら嫌な思いをしていることが可哀想だという同情や慈愛から来るものかもしれない。
だからといって臭いものには蓋と見えない言わない聞こえないと隠して丸く収まるのなら、失敗が繰り返されるはずがなかろうに。
言葉で伝えようとしても聞いてもらえなければ伝わらない。聞いてもらえても聞き流されれば意味がない。
だったらと放り出す? なら相手は一体いつ理解してくれる? 理解できないなら放り出してしまえ。そうやってその人が同じことを繰り返すのが『正しい選択』?
痛い目に遭わなければやり直す機会を見つける努力すらしない者がいる。そうなのかもしれない、それが桃岡なのかもしれない。
彼女はそもそも手紙という手段によって、自分に問い返しが来ることを避けてしまっている。最初から一方的に投げる側にいて、相手を見るつもりがないと思える。
そんな彼女を足を止め、周囲を見てもらうためには『オシオキ』という手段も有り得てしまう、のかもしれない。
その選択には自分の『こんな目に遭わされた』という被害者意識が全く含まれていないとは言い切れなかった。
複数人で決定しているから大丈夫、自分の自己愛による身勝手な決定ではないと揃って言い訳してしまっている可能性だってある。
『オシオキ』。それは最適であるか? 他に手段はないか?
わからない。ここにいるのは四人だけ。四人分の脳と目と耳と口、その意見だけ。他の誰かならもっとうまく正当で文句の言いようがない解決策を提案してみせるのかもしれない。
かも、かも、かも。形のない未来を手探りに探せばいくらだって溢れてくる『かも』。
考えたのだ、なのに外れた。たまたま外れてしまっただけで自分は悪くない。
そう言い訳するつもりはない。決めるのは自分たちで、賛同して行動するのは自分なのだから。
たとえどんなに覚悟を決め、思案を重ねても恐怖はぬぐいきれない。狡賢く保身を狙う蛇が深い深い心の奥に住み着いてしまう。
こういった手段をとることそのものを否定する人間もいるだろう。引き裂かんばかりの非難を想像してまた心臓が縮む。それでも考えに考え、決めたのだ。
こうしなければ延々と繰り返されるだけだ、と。
「やり方によっては、先に責められた僕たちより残された人たちの方がよほど辛い日々を送ることになるかもしれません。
それでも、どうかお願いします。
責苦はその人の善性のためにのみ与えましょう。
相手の人生に責任をとれる人だけが、責め苦を与えましょう」
誰でも過ちを犯すのですから。
誰かはこの意見に賛同してくれないかもしれない。あるいは、自分たちも桃岡のことも許すにしても長い長い時間が必要である場合も。
一言一句、かみしめるように願う。
《善意のオシオキ》しかしてはいけないと己を戒めねば。簡単に揺らいでしまう自分と他人の愛のバランスを理性でしっかり舵取りできるように。
確か、佑も同じようなことを言っていた。彼女は空恐ろしいくらいに釣り合いをとれていたのだろう。それぞれへの愛情のベクトルが同じ大きさと距離でぴったりに配置されていた。
自分はそうはいかない。彼女のようにはいかない。
皆 愛のベクトルが違っている。