おぼれた僕(2)
ここのところ、肌が妙だ。
寝床から起き上がる時に腕が引っかかったり、歩いているといきなり痒みに襲われたり。施術後、数秒間 肌の上に膜が貼りつけたように触覚が鈍い時もある。
平時において困ったことは何もない。
だが、少しずつ胸に小さな塵が溜まって塞がっていくような心地悪さ。気のせいかもしれない、そのうち治るかもしれない。そう思って二週間ほど放っておいたのだが。
数日前、就寝前に服を脱ぐとシャツの二の腕の部分に赤い滲みが広がっていた。そっと血色の悪いそこを見れば――。
友人にいうべきだろうか。
恐らくこれが異形化。収入を異能に頼る生活をしている以上、すぐにこの店を閉めるわけにもいかない。収入を一時的に失うのはいい。楽は嫌いでないが贅沢をしたいとは思わない。食べ物もコンビニ弁当でも雑草でもなんでも来いだ。権威だってどうでもいい。
だが友人に悪い。提案に乗った、店を辞めて一緒に来てくれた(こちらの方が儲けが良いと判断したからだとしても)。しかし幸助は彼に隠し事をしている。この店に関わる重大な秘密。
言うべきか。言わざるべきか。
己の情報を漏らされるのではという不信ではなく、軽蔑されるのではという恐れ。
人間に対して初めて抱く感情に、日々苛まれる。朝起きては告げようと思い、口籠るまま昼が過ぎ、夜が来るたび決意が萎む。
虎斑と鳩が訪れたあの日から、軽口を叩いた関係はどんどん重くなり、一週間もたつとほとんど会話がなくなっていた。
そんな状況になれば、自ら問う。金は惜しむが行動の手間は惜しまない、友人はそういう男であった。
○
ここ最近、毎日のように郵便受けに封筒が投げ入れられている。同じ人物、似たような内容。桃岡の仕業だった。
ここまでしつこいとは思っていなかったが、恋敵というよりも意地でも自分を庇いたがっているように見える。どちらにせよ、頭痛の種だ。ただでさえ悩ましいというのに。
「電話しよう。これはヤバい」
受話器を持った友人に、黙って幸助は頷き返した。
空ごと落ちてきそうな、重苦しい鉛色の雲が上空いっぱいに敷き詰められていた日のことだ。
急な呼び出しであったにも関わらず、大して会話もしないうちに二つ返事で来てくれることになった。
「うん。放課後に来てくれるって」
「そうか」
響きひとつだけでも、心の内を悟られそうで、つい素っ気ない言い方になってしまう。
友人の眉が情けなく垂れ下がる。彼が何かたずねようとしたところで、客の来訪を知らせる鈴が鳴った。
「あ」
「仕事だな」
「ちょっと待って」
よっこいしょと腰をあげたが呼び止められる。
「今日は早めに店を閉めような。虎斑ちゃんたちが来るから」
「ああ」
「んでさ、話が終わったら、聞きたいことがあるんだけど」
「……ああ」
嫌だな。しかし、断ればまた勘ぐられる。もはや取り返しがつかないところまで来ているのかもしれないが、ほんのわずかな期待をかき消すことはできない。
やはり気のない答えしか返せず、どこか不満そうな友人の横顔を目に留めながらも 逃げるように施術室へ向かった。
○
「真木、どうしたんだ? ここんとこ、愛想悪いじゃん。元々いい方じゃねえけど、なんつうか」
「若いエネルギーについていけなくてな」
「いやいやいや。桃岡さん以外の理由、あるだろ絶対」
よほど気になるのかしつこい。前髪をくしゃくしゃとかきまぜ、乱暴に肺に溜まった陰鬱な息を吐き出す。
黙っていても、友人はいつものように頭を軽くたたいて立ち去ってはくれない。そんなに自分はわかりやすいだろうか。言うまでのかないつもりらしい。
何もいわねば。正直に告げなければ。このまま止まって、終わる。
どうにも追い詰められたようだと観念し、半ば自暴自棄に口を開く。
「……なあ、あのさ」
「おうよ」
「もしこの店を続けることに不安がある、っていったらどうする?」
「……嫌になったのか?」
「そうじゃない」
即答だった。我ながら驚くことに、幸助は今の暮らしが気に入っている。店そのものはどうでもいいが、友人と一緒に働くことはコンビニでの業務と違って楽だった――いや、楽しかった、のかもしれない。
ふと、重鈍で汚い汚泥を吐き出しそうになる心がすっきりと澄み渡るような感覚。日頃は常にのしかかっている形のない影を、あったことすら忘れる瞬間。
友人と軽口を叩き合う時間に味わう感情の動きは今まで得たことのないものだった。幸助は『楽しい』と思ったことはない。だがもしやこれこそが『楽しい』なのでは。そう思えるのだ。
夢を見せて感謝されることも、全くよい気分にならなかったわけではない。
だが、もしも店が友人による負の感情を感じる場所になってしまったら、そこはもう幸助が残したいと願う場所ではない。あってもなくても変わらない、どうでもいい廃墟同然。
「そうか。なら、どうして? オレが何か気に障ることしたのか」
「ないな」
どうしようもなく幸助自身の問題。
抱えたくなんてないのに、腹の内に詰め込まねばならない。逃げれたのなら簡単だろう。責任感があるものならば、立ち向かわねばならぬと苦しむ。そして平時であれば逃走を選ぶものでも、逃げ切れない試練にぶつかるときがある。
――ああ、これが人間たちが忘れたがっていたものか。
悩み。軋轢。障害。取捨選択。喪失。
夢に求めた仮初の解決。人工の、バッチリと安全に舗装された逃走路。ありえべかざる安息の地。
ここにくる誰しもがエンデュミオンになれはしない。眠りに浸れば死に、覚醒の世界に居続けても衰弱して、最後には絶える。
決して逃げ切れない。
「……逃げられないんだ」
「え?」
きょとん、と虚を突かれたようにたじろぐ友人。
一体何を言っているんだと顔を歪める彼でも、幸助が人でないことは知らない、知らなかった。知ってしまえばどうなるのだろう。恐怖で自分の腕に伸びていく手が震える。
――やっぱり、やめようか? 都合よくいくなんて『無理』だ。
その時だ。脳裏に閃光が駆け抜けた。過去の光景がフラッシュバックする。口癖のように「無理」と言っていた男。都合よく物事が運ばないと文句をいうのに、いざ行動しようとなるとあれこれいって放り投げていた彼。正生を。
嫌だ。そう思った。
自分は恐怖に駆られているから。怯えに今にも叫びだしそうだから。不安にかられる心には優しくしなければいけない。でなければ壊れてしまう。
そう自分を甘やかして、最期には幻想に溺死した親。ああなりたくない。絶対に嫌だ。
あの時、なんて思った?
幸助だってこんな親に不安を抱えているのに、誰彼に文句を振りまいて自分だけを可哀想がる姿を見て。悲哀に沈む己を溺愛する姿を観察して。
この世のすべてが自分を愛するための道具でしかないといわんばかりの背中を見せつけられて。
身勝手だ、情けない、気持ち悪い。
そうだ、これは『嫌悪』だ。桃岡に抱く感情に近しいもの。
誰もが抱えるものをさも自分だけが抱えているのだと嘆く姿は、自分よりよほど子どもじみていた。
一人一人が抱く悩みは目に見えない。外に表れないこともある。あえて表そうとしない人も沢山いる。心の強弱も思想も信念も好みも異なるのに、比べたり測ったり。できるはずがないのに。
幸助は多くの人の苦悩を見てきた。それに比べれば正生が声高に叫ぶ想いなど、どの程度だったか。正生はあれに耐え切れる心を持っていなかった、そういえばお仕舞だが。
幸助が同じ轍を踏まねばならぬ理由にはならない。
正生のようになりたくない。迷っていた幸助の背を押したのは、その一念だった。
七分袖を肩が露出するまで、一気に捲りあげる。
「ッ」
友人が息をのむ。幸助自身、あまり目にしたくない光景がそこにはあった。
木片。幸助の二の腕に、鱗のように、あるいは花弁のように生えている。血色の悪い土気色の肌は、薄緑がかかった黒い肌に変わっていた。木は湿気を含み、ふやけた黒茶が気味悪く佇む。
「特殊メイクかなんかか」
信じられない、と呟くもわかっているに違いない。偽物ではない。間違いなく本物の植物であり、くっついたわけでもなく、『自然と』幸助の体の一部が作り変わったのだと。
「本物だ、見りゃわかんだろ」
そっと袖を戻す。先日剥がれて出血した箇所を、かさぶたでなく新しい木の蓋が覆っていたのを見てしまった。範囲も広がってきている。最初が目立たない場所でよかったが、このまま同じ生活を続けていれば いずれ隠せなくなる。
樹木化した手足を動かせるのかはまだわからない。日常生活もままならなくなるかもしれないが、今最も恐れるのはそこではなかった。
「俺は……《天使》なんだ」
言ってしまった。もう引き返せない。先ほどまでとは比較にならない脈動に、運動もしていないのに呼吸が苦しくなる。
似合わない響きだな、悪い冗談はよせ。いっそ嗤って欲しかった。
だが、薄く開いた瞳が捉えたのは笑みではない。友人にしては信じられない無表情。出来の悪い能面。何の情報も得られない顔。
「焦らさないでくれ、傷つけるなら一思いに」
らしくもなく弱気な言葉がまろびでる。
返ってきたのは底冷えした沈黙で、ますますキリキリと頭の奥が痛む。
「おい」
「あのさ」
簡素に放られた一言。年齢も変わらない相手のたったそれだけで、続けようとした催促を飲み込んでしまう。
不気味なまでに真剣な表情で、幸助を睨む友人は言った。
「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ」
「……悪い」
「店の方針、考えなきゃな」
「やめるのか」
「やめないよ」
「そうか、そうだよな」
「じゃあまずはオレの給料分配について話し合おう」
「わかっ、」
なにかがおかしい。
これ以上、いつも通りでない友人を見ていられなくて固く閉じていた瞼を恐る恐る開く。
口をへの字に曲げ、まなじりを吊り上げ、激怒している友人がいた。
「……怒ってんじゃねえか」
「怒ってるよ! 大事じゃんそれ! めっちゃ大事じゃん!」
苛立ちを込め、一音一句発するごとに床を踏む。子供のじだんだレベルには激しくない、が、十二分に大人げない。
「なのに、やめないのか」
「やめてほしいの!? この浮気者、あたしのことは遊びだったのね!」
「ふざけるな気色悪い。いや、真面目にきいてるんだぞ」
「あのさあ。お前、変よ。怖がり過ぎ。天使だから何? 真木は真木じゃん。異形化はどうしようもないじゃん。でも困るじゃん。じゃあ助けるでしょ? 友達ってそういうもんじゃないの」
「友達なのに黙ってた」
「そりゃそうよ。目と目があった瞬間に、なんてあるわけないし。最初からそんな大事なこと話す馬鹿が許されるのは中学生までだから! でも気を許しあえる程度にはあれこれやってきたのに、どうしてこんなになるまで放っておいたんだって怒ってんだよ!」
「……怒ってるのか」
「怒ってるんだよ友達として! 言わせんな恥ずかしい、いいから会計簿帳持ってきて、これからを検討するから! ハリーハリー!」
背中を遠慮なく叩かれ、思わず咳き込む。心配する様子もなく、更に押され――それも肺の部分――咳をつきながら場を移動する。
友人のいる部屋から出ようとした時、ぼそりと彼が呟く。
「お前がそうなちゃったの、オレのせいみたいなとこもあるからさ。ちゃんと義理通させろよ」
――なんだ、こんなことだったんだ。
いざ蓋を開けてみれば、なんてことはない。友人は友人だった。
異様に冷たく感じたのは、幸助が警戒していたせいだったのだろう。
「俺がこうなったのは、友人のせいか」
なんともお優しいことだ。
人が別の誰かを変えてしまう。ありえないと思ったそれは、確かにあり得る。意図しようとせざるとも。
そこに責任を感じ、手助けをしようという思いはただの甘さだろうか。それとも人が人であるが故の情であろうか。
「……そういや、一応桃岡がああなったのも俺のせい、なんだよな」
たまには、友人を真似してみるのもいいかもしれない。
些細な企みごとで脳を動かす。買ってもなんだかんだ理由をつけて吸えずにいた煙草を、通り過ぎたついでにゴミ箱へ捨てた。