跳ね飛ぶ彼女(4)
桃岡編(下)
次回より鳩→幸助→鳩の順番に戻ります。
子供の頃から、たいていのことは許された。
幼稚園の頃、友達が落とした筆を拾おうとしてうっかり絵具をばらまいてしまった時も
「しかたないわね」
と許された。園児たちは口々に自分たちや先生に迷惑をかけた、と罵ったが、えらい存在である先生が許したのである。
それは許さない園児たちより、桃岡のほうが可愛かったからだ。だから桃岡を優遇したのだ。幼い彼女はそう考えた。
なのに、翌年のことである。桃岡が友人の持っていたぬいぐるみを奪うと、先生は怒った。
――先生はあのこの方が好きなんだな。
そんなのずるい。一番は自分がいい。桃岡のほうがあの子より凄いとわかったら、きっと桃岡のほうを可愛がってくれる。
だから桃岡は、彼女を殴った。他の子の親がしていたように、気に入らない点をあげて言いふらした。
桃岡のほうが強い。桃岡のほうが優れている。あの子は殴られながら「ごめんなさい」といって桃岡が正しいと認めたし、あの子にはこんなにも沢山の悪いところがある。
先生はもっと怒った。家族もなんだかイラついているように、桃岡を冷たい目で見た。
――なんで? あたし、わるくないよ。
当たり前のことをしたのだ。自分が幸せに、気持ちよくなりたかったから、そのための手段を行使しただけ。
「菜々、どうしてみんなが怒っているのか、わかる?」
母は問うた。
「わかんない」
「菜々だって、やられたら嫌だと思うだろう?」
父が訊ねた。
「思わないもん」
思う。絶対に嫌だ、許さない、泣かせてやる。そう思う。だが認めれば桃岡が悪いことになってしまう。否定すれば話は進まない。桃岡が悪いという結末にはずっとたどり着かない。
「へえ。菜々ちゃんにとっては、自分以外はモノなんだ」
「なんで? そんなわけないじゃん、おねえちゃんってばかなんだね」
姉が呟いた。姉が本気でそう思っているわけではないとはわかっている。だが、そのあえて癪に触る言い方を選んだことや、その自分より高い身長で見下す視線が、蔑みと僅か嫌悪を含んだものであることも、はっきりとわかった。
幼子は大切だ、人類の宝だと大人はいう。
桃岡は誰もが大切にし、楽しい思いをさせる努力をすべき幼子なのに。自分より年上で、ゆえに可愛がられない、下のカーストに属すもののくせして桃岡の心を傷つけた。
だから桃岡もまた、相手の神経を逆撫でする言葉を選ぶ。姉がやれば悪いこと、桃岡がやれば許されること。
しかし、姉は嘲弄する笑みを深める。
「今は子どもだからワガママしても許されるよ。おねえちゃんだって、今のあんたが絶対にできないことなら手伝ってあげる。こどもってそうやって大きくなる。お母さんも、お父さんも、そう思ってる」
でもおねえちゃん、なんだか菜々ちゃんがそのまま成長しない気がして怖いの。
時間が止まるなんてありえない。止まらないなら、どう考えたって菜々は背丈も伸びていくし、きっと可愛い女の子から綺麗な女の人になっていく。
なのに、姉は何をいつも当たり前のことを阿呆らしく説教するのか、理解できない。
菜々はそんな姉をバカにしていた。
一方、姉もまた菜々に理解を求めていない。ただ何かをほんのりと期待して、いえる時間があるときにいっておいているだけなのだ、と何処も見ていない瞳から思った。
「そのまんま考えずにおおきくなったら、あんたが『桃岡 菜々』である必要も、権利もなくなるわよ」
法が菜々である権利を守っても、家族の心がついていかなくなるよ。あんたを守りたいって気持ちも、失せちゃうよ。
「むずかしいこといって、ななをバカにするんだ! おねえちゃん、ひどい! だいっきらい!」
「別に今わかんなくってもいいの。いっときたかっただけ」
まだ中学生の彼女は、つまらなそうにそっぽを向く。菜々もまた、舌打ちとともに顔をそらした。
○
この時から、桃岡姉妹には明確な違いが生じていた。
先に生まれた瑠璃はしっかり者で、自立しようという意思が強い。何事も自力で行い、責任を負おうとする。失敗も多かったが、それを糧にして成長しようとする。
誰もが認める優等生。両親も両親だった。役場で働く公務員。礼儀と規則を重んじる人種。
大人は自分の失敗の経験を押し付けてしまいやすいが、彼女らの両親は意図して、決して経験の押し売りはすまいと心に決めていたのだ。
この決意は瑠璃を成長させ、菜々を停滞させる一因となった。
姉の場合は、思考する機会が増え、より深く、多くを見つめる能力を高める結果に。これは彼女の評判をますます高め、やはり無暗に束縛せず 自らに合ったやり方を模索させ、正解だったのだと両親を喜ばせた。
子育てに正解などない。たまたま瑠璃には合っていただけ。
恥を恐れ、他者との齟齬を生み出す恐れを知った姉とは違う。責任転嫁の楽さを、言い訳をすることの簡単さを覚えた菜々には、都合のいい楽な大人でしかなかったのだ。
もし菜々が姉であれば、妹のしっかり加減に生来の強気を刺激され、妹の評判に負けてなるものかと他者の存在を念頭に置いたうえで動けるようになっていたかもしれない。
嘆いても現実は変わらない。
なんでもやろうとし、できるようになっていく姉。きっと自分を甘やかしてくれる、できないことはなんでもやってくれるという期待。甘え。文句を言われ、怒られることへの耐性のなさ。自己中心的で、自分以外の人間も同じく頭と心を備えているのだと想像できない傾向。
優秀で大人びた家族のなかで、子どものまま、階段を登れと尻を叩かれることもなく止まった幼子。
誰しも最初は幼子で、誰もが違う心をもって。正しいことがうまくいくとは限らない。
被害者というには菜々はあまりにも傲慢であったが、全てを自己責任とするのも大人げない話だろう。
幼子。まさにその時から、家族の形も菜々の心も、まるで変わっていない。悲しいことに。呆れたことに。
○
果たして他者を人間と思っていない少女が、人間の友人だと思うだろうか。
「え、なにそれキモーイ」
桃岡は一瞬、『友人』の言った内容がわからなかった。いつものように最初から理解を放り投げたのではない。きちんと耳を傾けていたはず。
女子高生。花の人生を謳歌する乙女。チヤホヤされてしかるべき若さの象徴。
阿呆な子どもとは違う。老いた年上とも違う。
――結局のところ、立場が変われば新しい立ち位置を最高とする。本当はどうだとか関係なく、自分が一番よいものでなければ嫌なだけ――
桃岡はいいこ。だから友達は自分に優しくなければいけない、協力的で当然。
そう思っていたのだ。根拠もなく、『そうであれば自分が楽だから』。
つらいめにあう原因になった虎斑を痛めつけたい。勝ちたい。優位になりたい。
だったら悪口を広めてやれ。評判を地に落としてやれ。
あんな女だ。さぞ派手に遊んでいるだろう。ちょっとつつけば、きっとすぐ。
だが、手伝ってくれと頼んだ途端、彼女たちは掌を返した。
「き、キモイってどこが?」
「なんかもう、全部?」
「全部、意味わかんない。わかんないよ」
具体的な説明がひとつとしてない。何も言っていないも同然。
理解ができないことに苛立つ桃岡と反対に、友人たちはいたって冷静だ。
――桃岡が友人に求めていたのが己への賛同と便利な道具であることであるように、友人にとっても彼女は道具だった。所詮道具、道具に心はない。何をいっても馬鹿らしい戯言と聞き流す――
「ホントあんたバカだよね。前から思ってたけど超ウザいしー」
「ねー。必死になって馬鹿だよねー、マジキモい有り得ない」
「一緒にいたのは、ヒマつぶしぐらいにはなるからでー、あんたに価値があるわけじゃないから!」
「そうそう。代わりはいんのよ、調子乗んなって感じ。アンタの為にそこまでするわけないじゃん、面倒だし内申悪くなるかもだしー」
「超笑えるー」
多勢に無勢。桃岡にはよくわかる。
たった一人の自分は弱者、数で勝る相手が強者。総量で勝れば、押し切って黙らせることができる。考えず、嘲笑う快感に酔いしれ、叩きのめせる。
中身がなく、意味もない、相手が桃岡である必要すらない。
何もないガランドウに叫んだところで響くものがあるだろうか、いや。
言い訳で逃避し、曖昧に溶かした意識の霧のなかで、悪意はバラバラになって棘を失う。
「ッ、アンタたち、サイッテー!」
負け犬の捨て台詞。思考する力を捨てた桃岡の、捨てたからこそ高く積みあがったプライドに刻まれた傷が深まっていく。同等かそれ以下と思っていた相手に見下される屈辱。一人では何もできない奴らに一方的に嘲笑され、此方も何もやり返せないとは!
傷に杭を打ち込まれ、鎚で広げられた痛みに、顔を醜く歪める――よく考えれば、原因と惨事を繰り返さない方法に思い至り、反省とこれからへの意欲が心痛を和らげたかもしれない。ならば浅い傷で済んだだろうに。自らの手で憎悪という槌を用いていることからも桃岡は目を逸らす。傷の原因は全て他者のせいにした方が楽だ――。
嫌い。嫌い。皆、大っ嫌いだ。
この怒りも含めて、あの少女には徹底した復讐をしなければ。
○
教師は他校の生徒がやってくると警戒するものであるが、生徒のなかには噂好きで刺激を求め、寛容なものもいる。
中には入らず、学校近くで話を聞くだけでもそれなりの情報が手に入る。似たような特徴を持つ子どもがそう多いわけもなく、彼女が通っていると思わしき場所は案外すぐにわかった。
――順調順調!
この分なら目的も労せず果たせるだろう。成果に期待を膨らませる。しかし、甘美な油断も実際に学校を訪ねるまで。
「虎斑さん? あの人がそんなことするとは思えないなあ」
「アレコレやるし、男の知り合いは多いけどさあ。遊んでいるところみたか、っていわれると気配すらないよね」
他の生徒の悪口を言いながら下校していた二人組。さぞ他者の欠点探しをしているのだろうと思いきや、何故か少女――虎斑というらしい――については好意的な情報しかでなかった。
「え、トラフ? あー、俺が携帯なくして困ってたら、一緒に探してくれたよ。イイヤツだよな」
「見返りとかも要求しないし。まー他人が困ってる時以外話しかけてこないから、何考えてるかわかんねーとこはある」
「考えるだけ無駄だって、ありゃ」
ナンパしてきた男子生徒。足や胸を見る視線で虎斑もはかっているだろうと思ったのに。道を歩く若い女性に向けるような卑猥な評価は出てこない。
「でもオンナノコだよ。狙ったりしないの?」
なんとかして証拠を引きずりだそうとしたが、彼らは性の対象としての見方を語るどころか、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くする。困っていると助けてくれる。普通なら、その行動の裏にある下心を勘ぐるか、都合のいい女として手に入れたいと思うだろう。
だが。
「え、あ、そっか、女子かアイツ」
「……」
なんだそれは。
『虎斑 凛』とは、その人格と方針のみで他者の心に残るものとでもいうのか。性別を忘れてしまうほど、そんな、『純粋』な存在だとでも?
理想の情報が集まらず、地団太を踏んでいたところに、金髪の男子生徒が教師を釣れてやってきた。おかげで、かつての友人に関係を切られた時のように、無様に逃げるはめになった。また激しい恥辱が胸を焼く。
顔も覚えられてしまっただろうから、次から直接声をかけるのには苦労しそうである。
邪魔をしてきたあの生徒、彼も虎斑に操られているのだろうか。
なんにせよ、目的が果たせなかった。
手元に集ったカードの少なさ。これでは幸助に「虎斑は男遊びの激しい性悪女だ、騙されている」と教えてあげられない。桃岡の方が一途で、『彼女』として優れているとわかってもらえない。
「くそっ」




