跳ね飛ぶ彼女(3)
桃岡編(上)
靴下の詰まったカラーボックスを壁に投げつける。
黄緑色の箱はプラスチック特有の薄く割れるような硬質の轟音をたて、床に中身をぶちまけた。
だが箱に八つ当たりをした少女――桃岡 菜々は自らの怒りをぶちまけることに忙しい。物なんてどうだってよいのだ。
「ムカつくムカつくムカつく!」
地団太を踏むと、扉の外から「うるさいよー」と姉の叱責が飛ぶ。
「うるさいのはアンタ! マジうざい、死ね! 死ねッ死ねッ死ねゴミッ!」
機嫌が悪い時に鬱陶しいことをいってきたのだ。永遠にその口を閉じていればいいのに。ついでに自分よりイイコ扱いされている存在がいなくなってセイセイする!
その程度の浅い考えで罵る。姉に『安易に死ねなんていっちゃいけない』と偉そうに賢しら口をきかれたのを思い出し、苛々がますます募っていく。悪循環だ。これもどれもアイツが悪い。姉も悪い。皆悪い。生意気なのだ、間違っているのだ、とんでもない悪逆なのだ。
たかが言葉だ。死ね、といわれて本当に死ぬなんてありえない。傷ついただとかいって自殺する奴もいるけれど、そんなのは死んだ奴がおかしいのであって、自分達は悪くない。たかが冗談だし、嫌なことをされたら相手を傷つけるのは当然許されていいはず。
気を遣うだとか手加減だとか、どうして自分がそんなことをしなければならないのか。嫌なことをするのが悪いのだから、最大限きついオシオキをしてあげなければ気が済まない。そういう意味では本当に死んでも足りないくらいである。
『そのくせ自分がキツイこといわれるのは嫌なの?』
夕食の場で愚痴った時に、姉が嘲笑混じりに言った言葉。
自分はあんな奴らとは違う。オシャレで若くてかわいい。だから周りは大事な自分の身も心も守ってくれるべきだ。シワシワでみっともない老人に価値はない、年金を自分のお小遣いにしてくれればいいのに。教師だなんて教わることもない、たかが年上なだけでウザイ。
勉強だなんてダサいことに夢中になってみっともない姿なんて見せない。頑張ってまでいい点をとるのはナンセンスだ。なんでもないことのようにできてこそスゴイ。なのに教師は勉強しているブリッコをエコヒイキする。大人はバカだ、ガリ勉はキモイ。
『頑張らないってわかってる子に大事なこと任せられるわけないじゃん。やらなくてもいいって自分で勝手に決めて何もしない、できないってことでしょ? 落ちるに決まってるよ。あんたそれでどうやって仕事に就く気? 普通のことも馬鹿にしてやらない人に、あたしなら仕事ふらないよ』
簡単そうだからと生徒会の書記に立候補した時に、やはり姉に言われた言葉。
生徒会長がイケメンだったのだ。姉の言う通り落選したが、清楚な見た目やみんなのために頑張るなどといういいこぶった戯言に誑かされた馬鹿どものせいに決まっている。見る目がない奴らばかりだった。
公務員の姉はやたら菜々の将来を気にする。関係ないだろうに。姉はある程度安定した職業(なのかは知らないが、安定以外に公務員になる理由はないと思う)なのだから、いいではないか。菜々がどんな職に就いたって。
その頃には菜々は『両親の勉強しろ、きちんとしろ』という煩わしい苦言や姉のバカにするような目線が嫌で食卓にはでなくなっていた。
愚痴りたい。ストレスを発散したい。不快、苦痛というものが我慢ならない。
だからその夜、仕事から帰ってきて食事を済ませた姉の部屋に、押しかけて自分の正当性を主張すると、今度は姉も何も言わなかった。
勝った! そう思ったが、見下すような目が気に入らなくて、モヤモヤした気持ちがずっと残ってしまった。つくづく性根の悪い女なのである、姉は。
案の定、今度もそうだった。
「菜々、物壊したらどうすんの。お母さん達が無駄金使うことになるでしょうが」
言外にこの家に菜々の自由にしていいものはないと告げながら、姉の瑠璃が部屋に入ってくる。いつも通り染めていない髪を後ろで縛り、キッチリとスーツを着こなしている。仕事から帰ってきたばかりらしい。僅かに前髪が乱れていた。
「勝手に入ってくんな! あたしの部屋だぞ!」
「あんたの部屋の前に父さん母さんの家。ついでにいえば同居人だから。騒音は迷惑なの、侵害なの。怒っててもいいけど、他人に迷惑かけないようにやってくれる?」
「うるさいうるさい! ムカつく! ウザイ、キモイ、死ね、ゴミ、豚、ブスッ」
「本当に語彙も脳もないわね。強い言葉は普段使わないから強いんであって、乱用したらただの安っぽいチンピラの脅し文句と一緒よー。意味がなくなるの。勉強しなよ」
腕を引っ張り背中を叩くが、普通のOLと変わらない体型の割に瑠璃は頑丈で力強い。背中に抱き着いてとどめようとする菜々を引きずり、部屋の奥に散らばったカラーボックスと靴下の前に移動してしまう。
「あぁ、あぁ、散らかしちゃって」
膝を折って片づけをするのを蹴るも、微動だにしない。八つ当たり――否、瑠璃は嫌なことをしてきたのだから正当な攻撃だ――をしているうちに、少しだけ怒りが治まってきた。
そして姉が柔道の有段者であると思い出す。これ以上やると堪忍袋の緒が切れて痛い目に遭わせられるかもしれない。自分は悪くないのに。暴力反対、武道反対。自分が弱くて姉が強いなんて不平等だ。
強いのは菜々。自分が一番とまでは思っていないけれど、少なくとも面白くない姉や両親よりも菜々のほうがずっと価値がある。菜々より価値がある人物は誰か、と問われると即座に答えられないが。
菜々は自分が一番だなんていう気色悪いナルシストではない。だから思いつかないのは、ちょっと頭の緩い可愛い子だからなのだ。
「はい、片づけ終わり。あんたの人生なんだから別に菜々の好きにしていいけどさ。人様に迷惑かけちゃダメよ」
「なにそれ超矛盾してる。頭悪いね」
「矛盾してないよ。菜々の人生は菜々のだけど、人様の人生は菜々のじゃない。菜々ひとりと人様複数だったらね、菜々が悪いことになっちゃうんだから。」
それに、菜々みたいに誰かの悪いところを見つけて騒ぎ立てる人もいる。人の悪いところを見て、自分はあれより頭がよくて優れているって思いたがる人も、単純に他人の不幸という蜜を吸いたい人も。
「あたしにはわからない理由で行動したり、しなかったりする人も沢山いる。そのなかのほとんどが菜々を知らないよ。菜々のこと、庇ってくれない。贔屓しない。甘やかしもしない」
「瑠璃は?」
「あたしは、多分しないかな。これでも正義の味方だし。悪いけど、菜々は悪いことしないって信じてあげられないもの。お父さんお母さんなら庇うかも」
「守ってくれないんだ」
「守るよ。でも妹としてじゃなくて、一般市民として保障された権利を。コトが起きたら平等に接する。まあ身内だから直接関わるようなことはないでしょ」
なんだそれは。せっかくの大人の利権を使ってくれないのか。やはり大人は酷い。
頬を膨らませてベッドに寝転がり、足でバタバタと布団で無様な演奏を披露する。
立ち上がり、菜々を見下す形になった瑠璃が唇の片側を歪めた。眉間に皺を刻み、口元は少しだけ微笑んでいるように見える左右非対称な表情。
「……何言っても、もうあんたには無駄なんだろうな、って思うけどさあ」
「あたしをなんだと思ってんのよ」
「自分に都合のいいことしか考えない子。お姉ちゃん、本当に今のあんたを助けてあげられないからね。責任は自分で取るものなんだからね、考えたくないからって望んだだけで得られるものなんて、なんもないんだからね」
「何言ってんのかわかんない。キモイんですけど」
「そうやって、攻撃してれば自分が安全でいられると思ってるのが都合がいいっていってるの」
瑠璃は深いため息を吐き、菜々の頭を一回だけ撫でた。
「あんまり人を虫みたいに扱ってると、あんたが潰されちゃうわよ」
菜々にカラーボックスを押し付け、部屋を出て行く。
「……マジなんなん、あいつ?」
嫌なことなんて見たくない。したでにでれば調子に乗られる。せっかくの若い時を使い潰したくもない。
第一、この世の中自分さえよければいいのだ。
勝たなければ幸せになれない。気に食わない奴は二度とそうできないようにする。こちらが折れさえしなければ、相手が折れるのを待てばいずれ勝つ。
何かを得るために頑張るのも代償を払うのも嫌だ。自分から傷つくなんてありえない。頑張るのも傷つくのも代償を払うのも、そういうのが好きな一部のガリ勉の馬鹿がやってくれればいい、と菜々は思う。
こんなにも気を付けているのに、傷つけてくる奴らは本当に無神経で頭の悪い嫌な奴らだ。そういうやつらはいくら傷つけて利用したっていい。ストレスがたまった時にそういう人達にあたってしまう時もあるが、何の価値もない身分で自分の役に立てるのだから感謝すべきだろう。
最後には菜々が勝つ。だから何でも許される。何もかもが完璧で心地よくなくてはいけない。自分が合わせるのではない、周りが菜々に合わせるのだ。そうでなくてはいけないのだ。
なのに。
「ああもう、またムカついてきた!」
名もなく、変り種という点でしか勝負できない癖に。
『アンタ、気持ち悪いよ』
真木はあまりにも酷いことをいった。菜々を気持ち悪い? 女子高生になんてことを!
そして菜々を気持ち悪いと言っておきながら、なんなのだ。
あの派手な格好をした女は。
いい加減、無用な暴言で菜々の心を傷つけた大罪を後悔しているのではと店を覗きに行ったとき、それはいた。
濃い桃色の髪に黒いメッシュ。露出が多く目をひく服。あんな男に媚を売るような女のどこがいいのだ。菜々といる時はいつも仏頂面なのに、あの少女の隣では自然にふるまっていた。変わらない顔が、微妙だが変化する。睨むこともなく穏やかな目で人を見るのだ。
不平等だ。理不尽だ。
「勝たなくちゃ、あいつに」
きっとすべてあいつが悪い。あいつが菜々の悪口を吹き込んで、だから真木は気のない態度で、あの時酷いことを言ったに違いない。
そうだ、彼は悪くない。菜々だって悪くない。全部、全部、あの女が。
何に勝ちたいのかはよくわからなかった。だが自分の気持ちがどういうものかを正確に表したって何の得にもならない。
よさそうなものは奪ってでも手に入れれば、幸せになれる。それはきっと心地よくて楽しい。
具体的にどう勝ちたいのかはわからなくても、勝つ方法ならわかる。
あいつを攻撃すればいい。折れるまでやれば、菜々が勝者。勝ち組。幸せになれるのだ。