跳ね飛ぶ彼女(2)
『理想の夢を見たいとは思わないか』
『いいえ、全く』
眩しい目をした少女との会話が頭に浮かぶ。何故だろう。いつもは過ぎ去ることなど何も気にならないのに、あの日のことが何度も頭の中でリフレインするのだ。
『どうして』
続けて聞いた問いの答えが理解しがたいものであったのも相まって。
「女の子って、ミステリーだよな」
「何言ってんだい、このアホは」
パタパタとハタキで掃除をしながら返す友人。「お前もちょっとは手伝えよ!」と幸助の寝転がるソファを蹴られて、ずり落ちかける。幸助の危機になど目もくれず、友人は掃除を続行。場所が場所なので汚れはしつこく、たまりやすい。店までの道もすぐにゴミが転がってくる。
幸助は面倒で気が向いたらゴミを拾うぐらいしかしていないが、友人はなかなかにマメだ。
よくやるなあと感心と呆れをない交ぜにして視線で背中を追う。まだ開店まで時間がある、働きたくない。
グウタラとしている彼に、友人は話を振る。くだらないBGM代わりのつまらない話だ。
「何? ついに女の子に興味持った?」
「別に、そういうわけじゃあねえけど。なんつうか最近色んなのに会ったから」
例えば、桃岡。
例えば、虎斑。
ついで印象深かったのは白河姉弟だが、あれは『女の子』の範疇には入るまい。
「桃岡さんと虎斑さん? 確かにインパクトあったね」
「ああ」
「でも、最近桃岡さんは来ないねー。虎斑さんは結局診察受けなかったし。勘だけどありゃセラピーいらないな」
低い脚立を持ってきて、本棚の前に置く。待っている間に暇つぶしになるだろうと置いた簡素なそれ。古本屋や地域の廃品回収で安く手に入れたものばかりだったのに、今は客が持ち寄った書籍でだいぶバリエーション豊かになっている。
友人の持ち物である書籍たちも最初からそこが居場所であったかのように綺麗に収まっている。特に『少年の日の思い出』はよく読まれているようだ。
「……どうしてそう思う?」
金がない、という理由ではあるまい。気持ちいいこと、楽なこと。誰だって好きだろう。皆苦しみから逃げる方法を探している。どうして彼女は拒んだのだろう。
答えはきいた。聴いたし、効いた。その行動は、発音として頭に入れるということと意味を理解して頭を動かすというのは全く持って別問題なのだと幸助は知るはめになったのだ。
『理想は自力で夢見るから』
虎斑は、少女は確かにそういった。
理想の夢なんて、自力で見れるわけがない。普通の人間は夢を弄繰り回して遊べなかろう、自己暗示のやり方も知らないはず。
嘲笑して、愕然とする。
いつの間にか自分が異能を扱う行為を常識のように――当たり前のように――感じていたことに。
数年前までは使うたびに嫌悪と倦怠を感じていた異能を。
頼って、誇って、信頼していた。それが堪らない。堪らなく気持ち悪い。人の心は気づかないうちにこうも変遷してしまうものなのか。
怠惰に身を寄せた人間は数えきれないほど出会って別れてきたが。時として堕落は自らの選択ではなく、這いよるものなのだとでもいうのだろうか。
ならば楽を求めて店に来る客は。夢を見せるうちに職への情熱を失った女同僚は。――正生は。
幸助が追いつめたのかもしれない。
甘やかして苦労から逃がしてばかりで。崖っぷちからそろそろと足を遠のけていく方法も打ち寄せる波飛沫に立ち向かう勇気も、冷たく濡れる覚悟も、幸助が忘れさせてしまったのでは?
理想の夢を見る方法。そんなものがあるのなら。
『違いますよ。理想を夢見る方法』
理想の夢を見る、理想を夢見る。幸助には違いがさっぱりわからない。
今まで気にならなかった『わからない』という気持ちが、ここに来て急に暗澹と噴き出す不安。疑い。喉につっかえた魚の小骨のような不快さだ。
「どうしてって、ねえ。だから、勘だってば」
「勘かよ」
「おうよ。だがただの願望ってわけじゃあないぞ。なんとなく、そうじゃねえかなーっていう確信がある」
「じゃあなんで言えねえの?」
「そりゃあわからないからね。オレぁソロバンは得意だが、作文は昔から苦手なんだ。高校ん時の面接もそれで落とした。自分の考えの根拠を形にするのができない。なんかヤだな、イイな、多分こうなんだろうな。そこで終わり。短絡的で単純なんだ」
友人は笑う。
(短絡的で、単純なんだ)
掃除もまめにして金勘定もできる、おまけに聞き上手。考えられず感情のままの人物が友人であると。そうは思えない。
短絡的で、単純なんだ。
幸助にとってはそれは一部の客である。何もかも悲観して殻にこもった正生、良心の呵責を言い訳でガードするいじめっこ達、恋に恋する桃岡。
いじめっこ達は過去と対峙するのに忙しく、参考にはしにくい。正生は人間に興味を持つ前に死んでしまったので、よくわからない。挙動をよく観察した時などなかった。
桃岡は……思い出すのも苦痛であるが、確かに参考にはなりえるのだろう。
床掃除を始めた友人に背を向け、壁に顔をくっつけるようにして目を瞑る。
頻繁に通っていたのに、急に音沙汰がなくなった理由は幸助にはよくわかっていた。
フったから。
あの日、無理矢理デートとやらに連れ出された幸助に桃岡は強請るような目を向けた。おねだりなんていう可愛らしいものではなく、欲望と望みが果たされて当然という傲慢な期待が見え隠れする瞳孔の奥。
『アンタ、気持ち悪いよ』
腕に絡みつく彼女に、幸助は目もみずに言い放った。
ピシリと空気が凍る。実際に固まって、厚化粧の笑みにヒビを入れたのは桃岡だけであったが、異様に近い距離が幸助にそう思わせた。
『うそ、何言ってんの? 超ウケル。そういうの笑えないよー、ヒッドーイ、サイテー!』
笑えるのか違うのかもハッキリしない。下品な哄笑をあげて簡単に他者を否定する。ポンポン。よくここまで飛び出るものだ。一体その語の意味や重みをどの程度に考えているのだろう。
桃岡にとってスーパーボールなみに普通でよく飛ぶ単語であるのは確かだ。
『別に』
返事をしなければ騒ぐ。下手な返事をしても、こちらの意見を自己主張で塗り潰そうとしてくる。桃岡が求めているのはライト(軽くて)でライト(正しく)でライト(眩しい)な対応。特別な自分に相応しい、邪悪な乾きを満たしてくれるトッテオキの王子様。
くだらない我儘だ。ハリボテの王子様だ。桃岡は夢さえ見れれば真偽などどうでもいいのだろう。
化粧で自分を覆い隠して完璧な美女になった気でいる。都合のいい甘言だけを受け入れて、あとは自己満足の為の代替行為。素晴らしいあたしは許されると誰でもない自分でデロデロに甘やかす。
自分だけで済んでいるのなら構わない。だが見下して道具のように使おうとするのは嫌だ。許せないとか苛立たしいという気持ちもあるが、何より面倒臭すぎる。こういった手合いは手に入れられるもので満足しない。どこまでも高い欲を求めてくるのだ――他人に。
誰かが桃岡を綺麗だといっても、幸助は彼女とビジネス以外の関係を結べない。
桃岡の『キレイさ』『よさ』は、桃岡がよいと思っているものでしかない。他人を配慮したことなんてない。
ビロードの袋に入っている宝石ぶっているが、実際はビニール袋に悪趣味なペイントを塗りたくって中身は噛み終わったガムの包装紙しか入っていないような。ハリボテ仲間。
『真木さんッてばッ!』
ついに呼び声が絶叫になった。
無視して早歩きしていると、後ろで地団太を踏む音が聞こえた。
――みっともない。
振り返らない。動けば必ず反応してもらえる? 馬鹿な。
『ふざんけんじゃねえッこのキモ男ッ! 女子高校生だぞ、誘われてその態度かよ調子に乗んなマジキモいんですけど! 超キモ! あり得ない! 死ね、クズ、バーカ、キモ過ぎ!』
同じような語と単純に強い意味を持っていそうな単語ばかりで作られた罵倒。
ストレスはたまる。しかし、安っぽい。友人がいえば多少胸に突き刺さる言葉も、桃岡がいうと酷く薄っぺらだ。脳味噌の裏をチクリと刺して、過ぎ去る。
『あっそ』
後ろで喚きたてる女子高生を背後に、一言だけ返して店に向かう。好奇の視線が痛い。一言返して歩き出しただけで、『もうオシマイ』と告げたつもりだった。
今思えば全く足りなかったのだけれども、その時は長々と連ねるのも億劫で。
好きだのなんだの言っておきながら、結局自分が傷つけられたことに一番過敏に反応するのだと嫌味な考えをよぎらせた。
時間が経ってみて。起きたことが過去になると、当時激しく過ぎ去らせてしまったものを冷静に思考できるようになるという。
冷静にはなったが、どうにも形にならない。
過去の事実。荒れる現代。介入不能の未来。その『当時』で晒される心が。
嘆くのではなく、激怒した桃岡。彼女の求めていた愛やら恋やら、そのベクトルは何処に向かっているものなのだろう。
正生は現実を捨てたのだろう。
白河(姉)は自らを捨てたのだろう。
虎斑はどうして夢を見たがらないのだろう。
幸助は、何故夢を見れないのだろう。
本当に望むことは何なのだろう。存在するのだろうか?




