跳ね飛ぶ彼女(1)
穏やかでない目覚め。瞼を見開き、頼りない電球の光を目いっぱい取り込んでも心臓に巣食った闇は晴れない。どくどくと脈打つ胸が痛む。肋骨を折って飛び出してきそうだ。
荒い呼吸を繰り返し、上半身を起こす。不調を訴える身体を無理に動かしたせいだろう、胃と肺のあたりからこみあげてくる苦痛にあえぐ。
「大丈夫ですか。落ち着いて呼吸をしてください」
真木が声をかけてくるが、背中をさすったのは虎斑だった。背中に体温を感じながらゆっくりと息を吐き出す。すう、はあ、すう、はあ。
何度か呼吸を繰り返すうちに心臓の動悸も収まってくる。瞼を閉じた際に頬を生暖かいものが伝う。
「そんなに怖い夢だったのかい?」
「いえ、……いえ、はい」
一度否定しかけた返答を否定する。誤魔化しても彼女には筒抜けだろう。
恐ろしかった。肯定する。
「嫌な夢、でした」
佑がいじめっ子の一人にしたこと。きっとあれは事実だ。どうしてあんなものが見えたのか。真木を見上げるとツンと澄ました顔で「企業秘密です」と突き放された。
「ああ、『例のあの子』の夢かな。それは虎斑が頼んだんだ」
「虎斑さんが?」
「彼女もここに来ているらしくてね。催眠術で割り込ませられないかと頼んだ」
「成程」
どこか引っかかりもあったが自分のことだ。気のせいだろう。
頷くと真木が顔を顰める。手間をかけたのに真っ先に礼を言わないのが気に食わなかったのかもしれない。
「すみません」
「……ん?」
謝ったが彼は逆にきょとんとした表情を浮かべるだけだった。怒っているわけではないのか。ならば一体何が悪かったというのか。
わからずに頭を悩ませていたが、答えを出すより先に真木が肩を叩く。
「悪いんだけど、ひとまず出てくれる? 客が入るから」
「あっはい、すみません」
繰り返し謝罪し、転げるように施術室を飛び出す。虎斑が後ろで笑っている気がした。振り返ると案の定彼女はおかしそうに微笑み、悠々自適に受付へ移動している。
「虎斑さん」
先程見た夢の内容を伝えねば。立ち止まろうとしてもトントンと強めに背を叩かれ、動けと命令された。
「ほら、鳩くん。いつまでもここにいると迷惑になってしまうからね、続きは外で」
「そ、そうですね」
金額はあらかじめワリカンで払うと決めていた。受付で茶を啜っている男性に声をかける。彼はまたそろばんを取り出し、パチチと軽快に弾く。
「施術一時間。一人二千五百円ね」
学生としては中々財布にダメージの入る値段だが、虎斑は「結構良心的だよね」と呟く。機嫌を取るために嘯いたわけでない。ネットで調べたところ、場所によっては一時間半で一万円以上取る店もあるそうだ。それに比べると相当に良心的といえるだろう。破格といってもいい。
「うちの真木は腕がいいから客も多いのよ。だから採算取れないわけじゃないから安心してね」
気分を軽くさせるようにいい、二人から金銭を受け取る。
よく見ると受付にはレジがない。全ての計算を暗算で行い、機械代をケチっている。彼の言う通り、いい店なのだろう。店員全員が。
といっても二人しか見かけていないが。
「遠慮せずにまた来てねー」
一度席を外し、彼は玄関まで見送ってくれる。
店を出た瞬間、カーテンの隙間から店内を覗き込む少女を見つけた。髪をクルクル巻いていた女子高生。ギョッとするもいじめっ子ではなかった。背丈も似ていて制服を着ているので、錯覚してしまったのだ。よく見れば自分の通う高校とは全く違うのに。
彼女は鳩に見られていると気が付くと、顔をこわばらせ走り去ってしまう。
(入りたいけど、恥ずかしかったのかな)
気持ちはわかる。鳩だって一人ではとてもここに来れなかった。緊張はしたが、虎斑に感謝である。後で再び頭を下げねば。
今は先に受付の男性にセラピーを請け負ってもらった感謝を。改めて礼を言おうと身を翻したところで、のっそりと真木が顔を出す。
「……」
「……」
お互いに黙りこみ、真正面から向き合う。この男の雰囲気は苦手だ。呑まれそうになる。
受付の男性は笑みを引きつらせ、虎斑は興味深そうに沈黙を貫く。奇妙な緊張に鳩も口を閉ざし、最初に沈黙を破ったのは気怠い声となった。
「鳩くんだっけ」
「は、はい」
「君さ……佑って子のこと、キライだろ」
かッ、と。
全身が沸騰するような感覚。心臓が激しく脈打ち、熱い血が一瞬で駆け巡っていく。瞳孔が開き、眼球が乾いたのがありありとわかる。持て余すほどの激情が余裕を焼き焦がし、時間がやけにゆっくりと感じた。怒りだ、と自覚する前に真木を睨む。
「どうして、そんなことを言うんです」
自分と会ったばかりのうえ、佑の顔も知らないのに。マトモな会話もほとんどしていない。今まで気にならなかった頭上から降り注ぐ視線さえ、侮辱に思えてくる。
事実、真木の唇には苛立つように歪んでいた。
「キライだろう。俺はキライだった」
あまりにも理不尽な言い様に唇を噛む。怒鳴り返そうにも、言葉が浮かばない。舌に鉄の味がじんわりと滲み、胸の奥で溶岩のようにドロドロとした渦が巻く。
流石の同僚も「ちょっと真木」と彼の腕を掴むが、暴れているわけでもない真木が身体を止められたぐらいで止まるはずがない。
「俺にはわからないな。どうしてそんなに否定したがる?」
「否定? 僕は、佑のことは何も」
佑。口に出した途端、初めて彼の顔がありありと歪む。信じられないものを見たかのように、フンと鼻を鳴らし。
「目を逸らしてるだけだろう」
形のない炎に薪をくべられた気がした。胸の奥、腹の底、燃え盛る怒りが強くなる。これを火に油と注ぐというのだと他人事のように遠いところで思った。
一番腹が立つのは、彼のいうことが全て図星であるということだ。
「絶対に違う」という確信もあるのに、虚を突かれていたら「その通りだ」と頷いてしまっていただろうとも思っている。矛盾しているが、両方とも真実なのだ。
虎斑に本音を突かれた時はこんな不快を覚えなかった。彼に言われたのが腹が立ったのだろうか、それとも一番触れられたくない箇所に気づかされたからか。
ギリリと歯ぎしりをする鳩と対象的に、幸助は皮肉気に唇の端を吊り上げた。
「やっとマトモな顔したな」
○
「うーん、彼は一体何を思ってあんなことを」
険悪になった二人の間を、受付の男性とともにいなした虎斑がひとりごちる。初めてであった公園のベンチに腰を掛け、振り子のように大きく足を揺らす。
「虎斑さんにもわからないことがあるんですね」
「そりゃあそうさ」
ここに来るまでの途中、コンビニで買ったバニラアイスを押し付けられる。彼女が食べているのはキャラメル色のソフトクリームだ。プラスチックの持ち手を見ると『アーモンド味』と書かれていた。
「全くわからんってわけでもないんだが、タイプに合わない気がするっていうか。二言三言話しただけだしわかるわけないよね、やっぱり色々あるんだろうな」
「色々、ですか。僕は……正直、嫌だなって思いましたけど」
「誰にだって色々あるよ、当然さ。全部理解できるだなんて傲慢なつもりはないけど、やっぱり考えもせずに一方的に悪く思うのもヤダから虎斑はこの先も考えておこう」
(そんなことまで考えて、疲れないのかな)
嫌な人もそうではないかもしれない、と考えなくてはいけないだなんて。そう思うが、何も言えない。
今はかつての無気力で曖昧な返事しかできなかった自分も、他人から見れば中途半端で業腹だったろう。
その自分に手をさし延ばしたのも、恐らく大差のない理由なのだろうから、真木に対しても同じようにふるまうことに文句をいう権利がないのだ。
出会った日のように黙り込む鳩に、ぽつぽつ易しく虎斑は訊ねてくる。病巣を優しくえぐり出してくる。
「でも、君もらしくなかったな。どうしてあんなに怒ったの? 佑の話を聞く限りでも、君が怒るだなんて珍しい」
「……その、なんていうか。半分図星、だったので」
恐る恐る正直に告白すると虎斑が目をまんまるに見開いた。あちゃ、と額を叩きたくなる。
それはそうだ。鳩の怒りは八つ当たりも同然。なんて心の狭い奴だと彼女も呆れかえって当然。
しかし、一体どうしてか。彼女は膝を叩いて笑う。
「は、はっはっは、ふはははは、ふ、はあ、ふふふ」
「あ、あの、虎斑さん?」
発狂したかのような異様な笑い方に、思わず新たに一人分距離を空けた。笑い上戸とは思っていたが理由のわからない笑みというのも怖い。
「ふ、ふふ、いや、ごめん、世の中わからんもんだと……く、ふっ」
「は、はあ」
「はーッ……構わん、続けてくれ」
彼女の笑いのツボがわからない。戸惑いを隠す必要性すら忘れ、鳩は若干距離をとったまま、先程の激情を説明しようと試みる。
「そのですね。佑の夢を見ました」
「ほう?」
「語彙が少なくて申し訳ないんですが、なんというか。久しぶりに彼女を見たら、急に今までの佑が死んでいく感じがして」
口に出してみると、わけがわからず体内で異形な塊として蠢いていたものがすとんと収まった。
形のないものに、伝えようという言葉が形を与えていく。
「僕のなかでは、彼女は優しくて、綺麗で、僕なんかよりよっぽど天使みたいな人でした。どうしてそう思うのかとか、一体何処を優しいと思うのかとか。理由なんてわからなくて、知らなくてもいいと思ってた。だって僕は十分に佑を知っている気だったし、これ以上わかる必要ないって過信していましたから」
「今はそうじゃないと思ってる?」
大きく息を吸う。嘆息。認めたくなかったが、佑は遠くに行ってしまった。否。『最初から傍になんていなかった』。最初から気づいていたし、わかってもいた。だが、今はまた違う意味合いが加わっている。
鳩が漠然と捉え、最も恐れていた事実。
だからこそゆっくりと触れたかった。心のどこかで、そのまま永遠に気付かず、調べることで自己満足し、いずれ忘れていきたいと期待していた。浅ましい望みを含め、押しとどめていた汚くてみっともない真相があふれてくる。
鳩はそれをよりによって真木に見抜かれたと恥じたのだ。
佑のように長年の付き合いがあるわけでもなければ、虎斑のように親切で佑の友人であったわけでもない。本当に本当の『ぽっと出』で、誰かに寄りそう気持ちなど欠片もないような男に見透かされたのが心底嫌だった。
ようやっと自らの汚れに目を向けたせいか、いきなり物事を捉える目が晴れた気がする。皮肉なものだ、気持ちが悪い。
「そうですね。僕は佑を尊敬はしていたけれど、憧れてはいなかったし、好きであるのと同じくらい嫌いで怖かったんです。家族で《親》だからそうじゃないって思い込んでいただけ」
当たり前だ。
鳩は命は平等だと思っている。あるいは他人以上に自分が大切だと。傷つくのは怖い、痛い思いはしたくない。佑が虐められていると知った時も、庇えばこちらにも身を切る憎悪が向かって来ると恐れてしまった。
与えられる痛みを悲しむ素振りさえ見せず、進んで慈愛を与えていくなど、鳩には決してできない行為を見る度に拒絶の感情を覚えた。
今まで気づかなかったのは『それがどういう感情なのか』を知らなかったからだ。感情を呼びあらわす『不快』の名も『生理的嫌悪』の名も知らなかったからだ。形にしなかったから目を背けられただけなのだ。
何より、鳩は佑の《天使》であったから。
彼女のそういった気質を反映せねばならないのではといつも怯えていた。
平和の象徴である『鳩』の名を与えられ、佑が鳩にそうあれと命じているのではと疑り、思考を放棄して無視し続けた。
一度も「そうしろ」といわれたことはない。勝手に強迫観念に囚われただけ。
『佑のようにならねば』『佑は凄い』と思う以上に、『絶対佑のようにはなりたくない』、なれないと否定していたのだ。
「僕は佑が怖かった。気持ち悪かった。理解できなくて、したくもなかった。ただ恰好だけでも沿わなくちゃいけない、だって僕のルーツは佑だから。佑と同じルーツを持たないなら、僕は佑の天使ではないし、だったら僕とはいったいどういう存在なのだろう、って」
思えば思うほど、『佑』から離れていく。だが考えなければ彼女にはたどり着けず。結局のところ、鳩が佑と同じになるなどどだい不可能な話だった。
「夢を見て、はっきりわかっちゃったんです。直視、しちゃったんです。わかんないのは当然ですよ、だってずっとそうしてきたのは僕なんですから」
過去で悩むべきだった現実。積もった過去が今になって一気に襲いかかってくる。胸が張り裂けそうだ。
喉からあふれ出そうな絶叫を抑えるように顔を覆う。
赤裸々な吐露を受け止めた虎斑は、じっと構えた後、静かに切り出す。
「でも、そんなの、誰にだってあるよ」
苦しい思いをすることになるなんて、それこそ最初からわかっていた。
指の合間から見やると、彼女はひんやりとアイスクリームを舐めながら青い空を見上げている。暑い日差しのなか、汗の代わりに流れ落ちてくる髪を掬い上げて耳にかけた。
「いいんじゃない。人間なんだから、悩むのは」
「……人間は生まれつき人間じゃないですか。親がいてルーツがはっきりしてて、ちゃんと地に足つけて考えられる生き物ですよ。天使は血の繋がった相手なんていないし、《親》を除いたらこの地上に足をつけた始まりの時さえわからない、不確かな存在なんです」
「人間だって『赤ちゃんはどこから来るの?』っていう質問は定番だよ。心が生まれつきハッキリしてる人間なんていない。君は天使だけど、心は人間じゃないか。そこでは悩むのはおかしな話だと思うけどねえ」
心は人間。そうなのだろうか。
「前にもいったけどさ、虎斑は納得が大事だと思うよ。君は何が嫌で疑問に思っていて、どう解決したいの。一番したいことって何? そんなのがわかるのは、半分運で半分努力だよ。虎斑はそれを手伝うのが好き。沢山考えて学べるから。君は何が好き?」
「好き、ですか」
佑が好き。佑は嫌い。
優しさが好き。慈愛が嫌い。
助けることに憧れる。自己犠牲は遠慮したい。
「わかりません」
「じゃあ、考えてみようか。佑の望みも結局よくわかってないしね。虎斑達の奇妙な冒険はまだ始まったばかりだ! 虎斑ぁおせっかい焼きの虎斑、那谷木の田舎町から鳩くんが心配なんでくっついていく!」
「あの、ちょっと最後よくわかりません」
「えっ……」
鳩達の冒険はまだ始まったばかり。その通りなのだろうと思った。
初めて見た虎斑のショックを受けた表情の原因はわからなかったけれど。




