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「この二枚の絵が届いた時の状況をもっと詳しく知りたいんだろ? わかってるって。探偵は必ず依頼人にそれを要求する。だから僕はちゃんと整理してきたよ」
当の探偵が引き受けるかどうか決断しかねている間に依頼主の中学生は話しだした。
「一枚目の絵が届いたのは先月の末11月30日。その時、父さまは既に秘書と共に会社へ出勤したあとで、僕と姉さまは朝食を食べていた――」
「お嬢様? お嬢様宛に玄関にこんなものが届いております。でも、変でございます」
女中頭のキヨが首を傾げながらダイニングルームへ入って来た。
「宛名にはお嬢様のお名前がしっかりと記されているのに、差出人の名はどこにも書かれておりません。いかがいたしましょう?」
「どれ、キヨ、みせて?」
切手も貼っていないところからして直接置いて行ったと思われる。
包みを解くと、中から出てきたのが、〈二本の木と男〉の絵だった。
「へえ? 変わった絵だなあ!」
志義はマーマレードを塗ったトーストをほおばりながら覗き込んだ。
「それにしても――姉さまの崇拝者の誰かが名前を書き忘れたのかな? こんな妙な絵を描いて贈り物にしたがるような気障な男に心当たりはあるの、姉さま?」
「――」
姉の顔は引き攣って真っ青だった。
「姉さま?」
志義はトーストを皿へ置くと、改めて絵を手にとって眺めた。
「どうしたのさ? この絵が何か?」
「返して!」
次の瞬間、姉は弟の手からその絵をひったくった。
「普段、穏やかで淑やかで……そりゃもう天使のように優しい姉さまが、荒々しく僕の手からその絵をもぎ取ったんだ! ホント、吃驚したよ!」
醒めた紅茶を飲み干して少年は言うのだ。
「それで、何かおかしいと思ったのさ! そしたら、一週間後の12月7日……」
その日は、少年の姉は父と一緒に得意先のパーティに出かけて不在だった。
遅く起きて来た志義は廊下で包みを抱えた女中と出くわしたのだ。
慌てて志義は女中を呼び止めた。
「キヨ! それ、姉さまに来たんだろう? 見せてみろ!」
「え? はい、坊ちゃま。でも――」
「いいから! 姉さまには後で僕から見せるよ」
一枚目と同じく、差出人の名は記されていなかった。
自室へ持ち帰って包みを開くと出てきたのが、静物画――〈二個の鈴〉の絵というわけだ。
「ね? 最初の絵より、こっちはもっと変わった絵だと思わない?」
「ふむ――」
興梠は訊いた。
「お姉さんには見せたの?」
「そりゃ、勿論! 僕は嘘なんかつかないよ!」
大いに憤慨して少年は早口に答えた。 ※デコルテ=ドレス
「その夜、パーティから帰るなり、まだデコルテ姿の姉さまに見せたさ! その日の姉さまは青いデコルテでお伽話から抜け出たみたいに綺麗だった! 姉さまは特に青が似合うんだ! そんなお姫様みたいな姉さまが絵を見たとたん震えだした。そのまま溶けてしまうんじゃないかと僕、心から心配したよ」
「君の感情描写はこの際不要だ。お姉さんの反応の方をもう少し詳しく話してくれ」
明らかに少年は傷ついた様子だった。
「チェ。姉さまは……ただでさえ円らな瞳を更に大きく瞠って……この得体の知れない絵をじーっと見つめていた。それから」
「それから?」
「僕を見つめた。いっぱい涙をためた目で。僕はハッとした。姉さまは僕に何か言おうとしたけど、遂にその花びらのような唇から言葉は出てこなかった……」
口を閉ざす姉に代わって大声を上げたのは志義だった。
「何なのさ!? この絵に何かあるのかい?」
たまらず姉の、夜会用の長手袋をつけたままの腕を握り締める。
「何か困ったことがあるのなら、僕が力になるよ、姉さま? だから、隠さず言ってみてよ!」
「いいの」
姉は首を振った。高く結った黒髪。銀のティアラも一緒に揺れる。
「いいえ、わからない。この絵が何なのか、誰が描いたか、私にも全くわからない。でも、いいの。だ、大丈夫よ、志義ちゃん? 多分、何でもないことだわ」
何でもないはずはない。
以来、明らかに姉の様子はおかしくなった。
夜もよく眠れないようだし、昼もぼんやりして、ため息ばかりついている。
そうかと思うと――
「僕をじ-っと見ているんだ。僕が気づかないふりをしてるといつまでもそうしている」
「君の思い込みじゃないのか?」
「思い込みなものか!」
冷徹な探偵の言葉に志義は憤った。
「その証拠に、一度、姉さまがそうしている時、いきなり顔を上げて見つめ返したんだ。そしたら、姉さま、物凄く動揺して……」
「何? 僕の顔に何かついてる、姉さま? さっきからずっと見てるけど?」
「あ、いえ、何でもなくってよ。ただ、志義ちゃん、大きくなったなあと思って。本当に、あの泣き虫さんが……」
「そうさ! 今じゃ、姉さまの方が泣き虫さんだろ?」
また姉の美しい瞳に涙が煌めく。
「ねえ、姉さま? 僕は姉さまの言うとおりもう子供じゃない。だから、悩み事があるなら僕に教えてよ? 力になるから。どんなことをしても姉さまは僕が守ってみせる! 安心して! 絶対に僕は姉さまの傍を離れないからね! 永遠に!」
「志義ちゃん……!」
「もうあとは言葉にはならなかった。感極まったように姉さまは僕を抱きしめて、ただもう泣きじゃくるばかりさ」
ステンドグラスから零れた宝石のような影を少年は見つめている。
一方、探偵はというと、先刻からずっと腕を組んで俯いたままだった。
「そう言う訳で、僕はもう居ても立ってもいられず行動を起こしたんだ!」
今日は12月20日。
二枚目の絵が届けられてから、13日目。
明日でかっきり2週間というわけだ。
「この間、一日だって無駄にしたわけじゃないぞ。伝手を辿って絵画に詳しい探偵を探した! そして、遂に行き着いた! あなたのことだよ? 開業したてだってね? じゃ、どっちにとっても幸運だったな? だって、僕は初めての依頼人だろ?」
矢継ぎ早に少年は言う。
「勿論、姉さまにも美学を学んだ探偵に調査を依頼することは話して了解は取った。姉さまも、絵の意味は全くわからないから、それを読み解いて教えてもらえるならと、凄く喜んでいたよ」
賑やかな光の床から寡黙な探偵に志義は視線を戻した。
「で、こうして、やって来たわけ。さあ、教えてくれよ? この二枚の絵の意味するものは何? 一体、何が、そして、誰が、僕の大切な姉さまを混乱させ、苦しめているんだろう?」
「……わかったよ。依頼を受けよう」
「え?」
露骨に素っ頓狂な声をあげる少年。
「何だ! まだその段階なの? のんきだな!」
顔を上げると、少年の言葉は無視して、興梠響は言った。
「依頼を受けたからには、ぜひとも君に聞きたいことがある」
「って? 重要なことは全て話したけど?」
「いや、肝心な点が抜け落ちている」
ツイードのジャケットの下、モスグリーンのジレの裾を整えながら探偵は言った。勿論、一番下の釦はきちんと外している。ジョージ四世以来の伝統をこのお洒落な探偵は踏襲しているのだ。
「絵を包んであった纸について、だ。君の説明では一切触れられていない。持っているかい? 僕はそれが一番見たいんだが」
「――」
みるみる少年の顔は蒼白になった。
次に真っ赤になった。
「まさか、君、『捨てた』とか言うんじゃないだろうね? 絵、本体も勿論貴重だが、それを包んでいた――曰く〝周辺備品〟も謎を解くにあたってはこの上なく重要なモノだぞ」
少々得意げに、笑いを噛み殺して興梠は言った。
「基礎だよ、ワトスン」
「くそっ!」
少年は身を翻してチェスターフィールド調のソファから飛び降りた。
「大急ぎで取って来る! 捨ててはいないはずだ!」