まうす
五限の授業も終わり、学食で味気のないコーヒーを飲んでいる僕の隣に彼女は座る。
実験の合間に時間を作ってくれたのだろう、見慣れた白いブラウスにグレーのニット、それにジーンズという出で立ちに加えて、羽織っているのは少し袖が薬品で汚れた白衣。 キャンバス内ということもあってそこまでは珍しいものではないのだけれど、その白衣の胸のポケットにはなんとも見慣れないものが顔をのぞかせていた。
白い体毛に覆われ、赤い目をもったそいつはすんすんと鼻をひくつかせながら、あたりをキョロキョロとみまわしている。
「あ、これか。いや、いま研究室でやっている実験で使うのだ。こうやって常時つれまわす事によって人に慣れさせる必要があるんだ」
僕の目線に気づいたのだろう。彼女はその小動物の頭を指で小突きながら僕の疑問に答えてくれる。
「種としてはハツカネズミ。まあ私たちはマウスっていうけどね。しかしこいつは改良された飼養変種だ。全てのゲノム配列が解読されているからこうやって実験用につかわれる。ちなみにラットという場合にはクマネズミ等のよりサイズの大きい種のことを指すんだ」
彼女はそう言いながら、ポケットの中からそいつをつまみあげる。
確かに人間に扱われることに慣れているらしい。首の後ろを指でつままれて持ち上げられているのにもかかわらず、特に警戒するでもなく、そのマウスとやらはおとなしくしている。
「ふーん、結構懐いてるみたいじゃないか。名前とかはあるの?アルジャーノンみたいな」
「名前? いやこいつは私が扱う3匹目だから、3号だな」
3号というのも随分と味気なくはないか。これだけ懐いているのだから、名前くらいちゃんとつけてあげてもよさそうなものだけれど。
「んー、正直言ってこの先を説明するのは少々躊躇うところなのだが・・・」
そう疑問をなげかけると、いつも自信ありげな口調の彼女には珍しく、少し口を濁らせる。
「いや、私の居る臨床心理の研究室では、脳の働きが心理に与える影響を研究しているという話は以前にしたと記憶しているのだけれど、こいつはその研究対象というか・・・」
言葉を選びつつといった感じで、少し目線をおちつきなくふらふらとさせながら、彼女はだんだんと小さくなる声で、しかし言葉を続ける。
「要するに、準備が整った後、こいつをつかってやる実験というのはだ、脳の一部を破壊して、それがどのような影響を及ぼすとかそういう類のもので・・・なんというか名前をつけたりして情を移すとだ、非常に辛いんだ。それに・・・」
彼女はうつむき、唇を強く噛みながら、沈黙する。
そして数瞬の後に、どうにか絞り出したといったような口調で再び話を続ける。
「卒論の為とはいえ、私が一般的には残酷とされるこんな行為を行なっているという事実が君に知られるという事が、どのような影響をおよぼすのかということに今、初めて思考が到達した。一応弁明しておくとだ、私だってこんな実験をする研究室だってことは入るまで知らなかったんだ。だから私が小動物に対しての加虐趣味をもつ女だとは思わないで欲しい! いやちがう。でもこの実験だって意義がない訳じゃないんだ。担当教官は尊敬に値する人物だし、これだって研究分野として非常に大きな意義があってだ、私もそれに関与することには拒否感ばかりを持っているわけではなく、いや、その、どう説明すれば良いものなのか・・・」
いつのまにかに彼女は涙目。どんな時にも冷静といった雰囲気の彼女が、思いつめたような必死な口調でまくしたてる。
そのマウスの実験の場面を想像して、少し引き気味になってしまっていた僕なのだけれど、そんな彼女の姿をみては、こっちの方が冷静になってしまう。
「あー、いや、さすがに想像すると何も思う所が無いといえば嘘になるんだけどさ、それが遊び半分や無駄じゃないっていうのなら良いんじゃないかな。ほら、僕達ってさ、毎日の生活の中で沢山の生命を頂いて生きている訳じゃん。実際に牛や豚とかの屠殺の場面とかは見たことがないというか普段は考えもしないけれど、それだって同じ事だよね。まあだからさ、そんな事に気づかせてくれた切欠をくれた事に感謝はするけど、別に君に悪い印象を持ったりすることはないかな。ってとこでどう?」
だから僕は、宥めるような口調で、でも今心のなかに浮かんだそんな事を口に出してみる。
「うん、遊び半分なんかじゃないってことは胸を張って言える。いや、張っても胸はそんなにはないのだが・・・」
ふぅと一つ息を吐き、彼女は両の手のひらを自分の胸の前で重ねる。
僕の話を聞いている内におちついたのだろう、その表情は普段の冷静なそれに戻っている。でもさっきまでの興奮を残しているのか、頷くその顔は少しまだ赤い。
「しかし君はいつもずるいな。普段はいかにも無害といったような雰囲気なくせに、不意に私を不安に突き落としたかと思えば、直後にこうやってすくい上げる。これを意図的に行なっているというのなら、君は稀代の大悪人だよ」
「いやちょっとまて。なんでそんな話になるんだ? ずるいとか悪人とかってなんのことさ!?」
「君が好きだってことに、今はっきり気づいたってことさ。となると気づかせてくれた恩人たるこいつは、さすがに実験には使えないな」
再び彼女の指につまみあげられたそいつは、赤面する僕達の顔の間で、ちうと鳴いたのだ。




