『西門大官人昇天艶遊記』ヒットの裏側
時は宋。
清河県、西門邸の奥。
本来なら静かであるはずの写字部屋は――
地獄だった。
完全な地獄だった。
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机。
紙。
筆。
墨。
灯火。
そして。
死にそうな顔をした使用人たち。
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「第七巻の上巻が終わりません……」
写字係が震えていた。
目の下には巨大なクマ。
腕は痙攣。
指は墨で真っ黒。
隣では別の写字係が半泣きで筆を動かしている。
さらさら
さらさら
さらさら
止まらない。
止まれない。
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理由は単純である。
『西門大官人昇天艶遊記』
が。
売れすぎた。
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書肆の主人が毎日飛び込んでくる。
「大官人!!」
「第五巻が完売しました!!」
「第三巻を二千部追加です!!」
「第四巻を南方でも売りたいです!!」
「海賊版対策で正規版をさらに刷ってください!!」
完全に狂っていた。
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その結果。
西門家の使用人たちは、
昼も。
夜も。
深夜も。
早朝も。
ひたすら。
レイの妄想を書き写していた。
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「天女の胸がどうとか……」
さらさら
「物流で地獄改革がどうとか……」
さらさら
「吾輩は人格者なのだぁ……」
さらさら
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帳場係が机に突っ伏した。
「もう人格者って文字見たくない……」
隣の写字係が死んだ目で言う。
「昨日だけで百二十回書いた……」
さらに隣が言う。
「“おっぱいのでっかい美女”は二百回超えた……」
完全に壊れていた。
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だが。
障子が開く。
全員が凍る。
現れたのは――
西門慶レイ(193cm)
であった。
しかもご機嫌だった。
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「のだぁ〜〜♩」
尻をふりふりしている。
危険信号だった。
非常に危険だった。
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レイは紙束を抱えていた。
分厚かった。
嫌な予感しかしなかった。
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「うむ!」
満面の笑み。
「新作なのだぁ!」
地獄だった。
完全地獄だった。
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番頭が震える。
「旦那様……」
レイが振り向く。
「のだ?」
「まだ第七巻の増刷が……」
レイが手を振る。
「売れてるなら問題ないのだぁ!」
最低である。
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さらに紙束を置く。
どさっ
重かった。
物理的にも精神的にも。
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「今回は龍宮編なのだぁ!」
写字係が天を仰いだ。
帳場係が机に頭を打ちつけた。
印字係が静かに涙を流した。
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レイは止まらない。
「爆乳龍女がいっぱい出るのだぁ!」
写字係が言った。
「もう“爆乳”って文字を書きたくありません……」
レイが即答する。
「書けぇ!」
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「海運改革もするのだぁ!」
帳場係が言った。
「また物流ですか……」
レイが頷く。
「当然なのだぁ!」
完全に本気だった。
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そのとき。
別の使用人が走り込んできた。
「旦那様!!」
レイが振り向く。
「のだ?」
「北方で海賊版が出回っています!!」
空気が止まる。
レイの眉が動く。
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「……のだぁ?」
静かな声だった。
危険だった。
非常に危険だった。
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「吾輩の文学を勝手にぃ?」
使用人全員が姿勢を正した。
番頭が震える。
料理人が包丁を置く。
写字係が筆を止める。
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次の瞬間。
レイが叫んだ。
「増刷なのだぁあああ!!」
使用人たちが崩れ落ちた。
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「正規版で市場を潰すのだぁ!」
番頭が半泣きで頷く。
「承知しました……」
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「もっと刷るのだぁ!」
「はい……」
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「もっと売るのだぁ!」
「はい……」
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「文学を広めるのだぁ!」
誰も文学だとは思っていなかった。
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その夜。
写字部屋の灯は消えなかった。
さらさら
さらさら
さらさら
筆が鳴る。
紙が積まれる。
墨が減る。
人間が減る。
理性も減る。
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写字係の一人が呟いた。
「俺たち……何を書いてるんだ……」
隣の男が死んだ目で答えた。
「人格者の日常……」
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さらに奥。
帳場係が低い声で言った。
「……第二十三巻だそうだ」
全員が静止した。
完全停止だった。
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そのとき。
障子の向こうから声がした。
「のだぁ〜♡」
全員が震えた。
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「次は宇宙編なのだぁ!」
写字係が一人倒れた。




