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時は北宋。
清河県の市街は、朝からやけに静かであった。いや、正確には「静かに見えた」。なぜなら、通りの角をひとつ曲がれば、そこには必ず――
尻をふりふりさせながら歩く一人の男が出現するからである。
その名は
西門慶
……ではなく、
西門慶レイ(22歳・193cm・超絶イケメン・天下のゴミカス豪商)
であった。
今日も彼は、特に用事もなく、ただただ町を徘徊していた。
「のだぁ〜♪」
腰には金糸の帯。袖には刺繍。靴は鹿皮。香は龍涎香。顔は天からの贈り物。財産は地面に落としても拾いきれないほど。
しかし精神は完全に空っぽであった。
「暇なのだぁ」
彼は立ち止まり、左右を見回した。
目の前には豆腐屋の娘。
その隣には薬屋の若奥様。
さらに奥には洗濯中の商家の娘。
三名。
完全にターゲット圏内である。
レイの瞳が輝いた✨
「のだっ♡」
彼は素早く袖に手を突っ込む。
そして――
鼻をほじった。
「うむ」
取り出したそれを、太陽にかざして確認する。
「良い仕上がりなのだぁ」
職人のような目であった。
そして次の瞬間。
びしっ
放った。
「きゃあっ!?」
豆腐屋の娘が跳ねる。
「のだぁ!命中未確認なのだっ♡」
逃げる。
全力で逃げる。
長身193cmが市場の中央を爆速で駆け抜ける。
布屋の主人が叫ぶ。
「また西門慶だ!!」
魚屋が叫ぶ。
「捕まえろ!!」
しかし捕まらない。
なぜなら彼は無駄に運動神経が良いからである。
「のだぁ〜〜〜っ♡」
路地に滑り込みながら彼は笑った。
「今日も良き朝なのだぁ」
そして振り返る。
誰も追ってきていない。
勝利である
「うむ!」
彼は満足そうに腕を組んだ。
「では次なのだ」
次?
そう、彼にとって鼻くそ当てチャレンジは一日一回ではない。
呼吸のようなものである。
通りを再び歩き出す。
尻をふりふり。
左右にゆらゆら。
完全に無意味なリズムである。
すると前方に見えた。
絹問屋の若奥様。
しかも一人。
完全に理想的条件。
「のだっ♡」
再び袖へ。
「本日の第二投なのだぁ」
彼は狙いを定める。
しかしその瞬間。
背後から声。
「西門大官人」
振り向く。
番頭であった。
「倉庫の帳簿が」
「のだ?」
「三ヶ月分止まっております」
「のだ?」
「税の申告も」
「のだ?」
「船荷の検査も」
「のだ?」
「官への贈答品の準備も」
「のだ?」
番頭は静かに言った。
「全部止まっております」
沈黙。
レイは考えた。
三秒。
「あとでなのだぁ」
逃げた。
番頭は空を見上げた。
「終わった……」
一方そのころ。
レイは再び投擲姿勢に入っていた。
「集中なのだ」
呼吸を整える。
風向きを読む。
袖の角度を調整する。
まるで弓兵であった。
ぴっ
飛んだ。
そして――
命中。
「きゃあああっ!!」
若奥様が叫ぶ。
レイは跳ねた。
「のだぁあああ!!大成功なのだぁ!!」
逃げる。
再び逃げる。
市場を縫うように走る。
肉屋を越え
茶屋を越え
寺の前を越え
役所の前を越え
そして門前で止まった。
ぜぇぜぇ
「はぁ……はぁ……」
呼吸を整えながら彼は言った。
「……危なかったのだ」
何が危ないのかは誰も知らない。
だが彼は満足していた。
「うむ」
腕を組む。
頷く。
そして宣言した。
「今日は調子が良いのだぁ」
そのとき。
遠くから怒声。
「西門慶!!」
豆腐屋の親父。
魚屋。
布屋。
薬屋。
洗濯女。
若奥様。
総勢七名。
追ってきていた。
「のだぁ!?!?」
レイは凍った。
次の瞬間。
反転。
全力疾走。
「逃げるのだっ♡」
清河県の朝は、こうして本日も平和に破壊されていくのであった。




