第一部 第四章 異世界転生?(四)
「――移動したか。次は……」
薄暗い室内で、ひとりの男が無数に浮かぶ光のパネルを操作しながら呟いた。
指先の動きに合わせて、空間そのものが応答するかのように画面が切り替わっていく。
直後、周囲から人工的な音声が一斉に騒ぎ出した。
『警告。座標誤差、基準値オーバー』
『観測ログ、欠損率三二%』
『再計算を――』
「……うるさい」
男は面倒そうに眉をひそめる。
「騒いでないで仕事をしろ」
『ミツカンネーヨ。ナンネンマエノハナシダト、オモッテイル?』
どこか投げやりで、感情を真似たような声が返ってくる。
「知るかよ。やる気がないなら――スクラップにするぞ」
『ヒドイ』
そう言い放ちながらも、男の指は止まらない。いくつものパネルを素早く切り替え、ひとつの画面を固定する。
「……お、繋がった」
画面に映し出されたのは、どこか見覚えのある街並み。上空からの視点で、夕暮れに染まる建物と道路が広がっていた。
男はその映像を見つめ、短く息を吐く。
「――戻ったのか」
その呟きには、安堵とも、次の計算を始める冷たさとも取れる響きが混じっていた。
物語は、まだ誰にも知られていない視点から、静かに再起動する。
光が、悠斗の身体からゆっくりと消えていく。同時に、指先から何かが零れ落ちた。床に落ちたそれは、乾いた金属音を立てて跳ねる。
――チャリン。
次の瞬間、頭の奥を締め付けられるような痛みが走った。視界が歪み、耳鳴りが響く。
「っ……!!」
思わずその場にうずくまる。
だが、耐えがたいほどの苦痛ではなかった。それらは、波が引くように、すぐに収まっていく。
「……戻って、来たのか?」
荒くなった呼吸を整えながら、悠斗は顔を上げた。
「異世界って……戻れるもんなのかよ」
視線が、テーブルの上に置かれた容器へ向かう。
中身は、結月の母親――七瀬未来から分けてもらったおかずだった。
「……冷めちゃったかな?」
手に取った瞬間、指先に伝わる感触に、悠斗は目を見開く。
「温かい……?」
確かに、受け取った時と変わらない温度だった。
悠斗は壁に掛かった時計を見る。結月と別れて家に戻った正確な時刻は思い出せない。だが、あの城で――セレフィナと過ごした時間は、どう考えても一時間以上は経っていた。
「……あれが、夢?」
そう呟きながら、自分の手を見つめる。そこには、確かに残っていた。柔らかくて、温かい――あの感触。
「……夢じゃ、ないよな」
確信にも似た感覚が、胸の奥に残っていた。
その時、玄関の扉が開く音がした。
「ふぅ……今日も結月ちゃんといたの?」
振り返ると、学校帰りの妹が靴を脱ぎながら声をかけてくる。
「ああ。呼ばれたからな。これ、未来さんからのお裾分け。食べるだろ?」
「もちろん食べるよ。あ、私は自分で準備するから。にぃは先に食べてて」
そう言って、妹はそのまま自分の部屋へ向かっていった。
「……やれやれ」
小さく息を吐き、悠斗はその背中を見送る。
妹の名前は、悠宇。中学生だ。肩で揺れる黒髪に、少し生意気そうな大きな瞳。まだ幼さの残る顔立ち。かつて――悠斗の過去に起因して、ぎくしゃくしていた時期もあった。だが今は、無理に踏み込まない距離を保つことで、穏やかな関係に落ち着いている。
そして悠斗は、もう一度、テーブルの上のコインへと視線を落とした。
そこにある現実だけは、はっきりと、異物のように存在していた。
夕食を取りながら、悠斗はぼんやりと箸を動かしていた。
考えていたのは、妹――悠宇のことだ。
――昔のことが、ふと蘇る。
「宇宙人に攫われて、身体に機械を埋め込まれたんだ」
幼い頃、無邪気にそう話した悠斗は、周囲からすぐに距離を置かれた。
妄想癖、虚言癖。
そういうレッテルは、子供にとって残酷なほど簡単に貼られる。そして、その影響は妹にも及んだ。
――変人の兄を持つ、変な妹。
そう囁かれ、悠宇もまた、無関係ではいられなかった。
(……そりゃ、嫌われるよな)
悠斗は小さく息を吐く。実際、悠宇が自分を避け、冷たく接していた時期があったことを、今でもはっきり覚えている。
(俺のせいだ)
胸の奥が、じくりと痛んだ。
だからこそ――。
あの城での出来事も、セレフィナのことも、口にするわけにはいかなかった。
(もう、巻き込めない)
「……相変わらず、未来さんの料理は美味いな」
誰に聞かせるでもなく呟き、悠斗は箸を置いた。食事を終え、手早く片付けを済ませる。空になったおかずの容器と、あのコインを袋に戻し、それを持って自分の部屋へ向かった。
「……結月に連絡するか」
スマホを取り出し、短いメッセージを打ち込む。
――『未来さんのおかず、美味しかったって伝えておいて。ありがとう』
送信してから、ほんの数秒。すぐに返信が届いた。
――『分かったよ〜。あ、明日の朝、家まで迎えに来て』
「……また、呼び出しか?」
思わず苦笑しながら、指を動かす。
――『分かったよ』
画面を閉じ、ベッドに腰を下ろす。
「はぁ……色々あったから、疲れたなぁ」
天井を見上げると、身体の奥に溜まっていた疲労が、どっと表に出てくるのを感じた。
異世界。
王女。
結界石。
そして、今はもうここにいない彼女。
それらすべてを胸の内にしまい込みながら、悠斗の長い一日は、静かに終わりを迎えようとしていた。
朝。
目覚ましの音で悠斗は目を覚ました。
手早く身支度を整え、静まり返った家を見回す。
妹の悠宇は部活の朝練で既に家を出ており、母の早希は夜勤でまだ戻っていない。父の悠一に至っては、今回も長期の海外出張中だ。
「……誰もいない、か」
玄関で靴を履きながら、いつものように声を出す。
「いってきます」
返事はない。
それでも、それが悠斗の日常だった。家を出て向かうのは、結月の家。
昨日の流れで、今朝は一緒に登校することになっている。
インターホンを押す。
「お〜い、来たぞ〜」
中から間延びした声が聞こえ、少しして扉が開いた。
「は〜い」
現れたのは、結月ではなく――。
「ゆーくん、いらっしゃい」
柔らかく微笑んだ結月の母、未来だった。
「ちょっと待っててね。結月、もうすぐ来るから」
「はい。あ、これ、お返しします」
悠斗は、昨日のお裾分けが入っていた容器と袋を差し出す。
「美味しかったです」
「あら、ありがとう。また作ったら持っていってね〜」
受け取った拍子に、袋の中で小さく音が鳴った。
チャリン。
未来が一瞬、目を瞬かせる。
「あ、このコイン、入ってたので、そのままにしてます」
「あら……懐かしい物が出てきたわね」
未来は少しだけ目を細めて、微笑んだ。
「ありがとう、ゆーくん」
その時、奥から慌ただしい足音がする。
「お待たせ〜。何してたの?」
「お前を待ってたんだよ!! ほら、行くぞ」
「ま、待ってよ! いってきまーす!」
そんなやり取りを背に、二人は並んで家を出た。通学路を歩きながら、結月がふと思い出したように言う。
「昨日ね、あの後悠宇ちゃんに会ったんだ」
「え?」
「“兄をよろしく”だってさ。いい妹じゃん」
「……まぁな」
少し照れたように答えたあと、悠斗は視線を前に向けたまま言葉を探した。
「あのさ。悠宇には言えない話なんだけど……」
一瞬、躊躇する。だが、結月には嘘をつきたくなかった。
――結月だけは、信じてくれる。
そう確信できたから。
「昨日さ。家に帰ったあと……異世界に、行った」
「え? 異世界って……あの異世界?」
「ば、声デケーよ」
「ごめん。でもファンタジーの世界だよね?」
「……魔法とか、言ってた」
「すごっ。で、何したの?」
「えっと……城の庭にある宝物殿から、結界石っていう……漬物石くらいの石を取りに行った」
「……へ?」
「……」
「それから?」
「それだけ……」
結月は一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
「ゆーくん、異世界に行っても雑用なの?」
「うるせーよ」
「どこに行っても、ゆーくんはゆーくんだね」
そんな他愛もない会話をしながら、二人は校門をくぐる。
異世界の記憶を胸の奥にしまい込み、
悠斗はいつもの日常へと足を踏み入れていった。
――この日常が、まだ続くと信じて。
教室に入ると、いつもの朝がそこにあった。
数人のクラスメイトと軽く挨拶を交わし、自分の席に腰を下ろす。
直後、廊下側から足音が近づいてきた。
「悠斗、おはよう」
声をかけてきたのは、神谷陸だった。短く整えた茶髪に、日に焼けた肌。引き締まった体つきはサッカー部のエースらしく、同じ制服を着崩しもせず着こなしている。屈託のない笑みを浮かべる、ごく普通の高校二年生――悠斗の中学時代からの親友だ。
朝練を終えたばかりなのだろう、額にうっすら汗を浮かべている。朝も放課後も部活に縛られているせいで、最近はこうして教室で顔を合わせるくらいしか話す時間がない。
「陸、おはよう。相変わらず朝練、頑張ってんな」
「おう。悠斗もサッカーやればいいのに。運動神経、悪くないだろ?」
「はいはい。また勧誘かよ。もう二年だぞ? 諦めろ」
「ちぇー」
そんな他愛ない会話を交わしているうちに、始業のチャイムが鳴った。授業が始まっても、悠斗の意識はどこか上の空だった。
昨日の出来事――城、王女、結界石。思い返せば思い返すほど、疑問が増えていく。
(俺、何のために呼ばれたんだ……?)
結月の言葉が頭をよぎる。
――異世界に行っても雑用なの?
その考えに苦笑した、その時だった。
「佐藤」
教師の声に、悠斗は顔を上げる。
「このプリント、職員室まで運ぶの、手伝ってくれ」
「分かりました」
椅子を引き、立ち上がる。
――今日も正常運転だ。
次の移動教室が終わった直後、今度はクラスメイトに呼び止められた。
「なあ悠斗。俺、購買ダッシュしたいからさ。教科書とノート、教室まで持ってってくれない?」
一瞬、間が空く。
「……いいよ」
――今日も正常運転だ。
放課後。
掃除当番の時間になると、また声がかかる。
「悪い、悠斗。部活のミーティング始まっちゃってさ。掃除、代わってくれない?」
「…………分かった」
――いや、今日ちょっと多くないか?
一人で教室を掃除し終えたところで、ポケットのスマホが震えた。画面に表示されたのは、短い一文。
『正門前に来て』
結月からだった。
「……相変わらずだな」
悠斗は鞄を肩にかけ、教室を出る。途中、何人かに声をかけられたが、今日はすべて断った。
結月の呼び出しは最優先。
それは、悠斗が雑用を断れる唯一の理由でもある。
正門前に着くと、腕を組んで待っている結月がいた。
「呼んだか?」
「うん。一緒に帰るよ」
「それだけかよ?」
「それだけ」
そっけない言葉。でも、悠斗はその意味を知っている。
――自分が断れないこと。
――周りが、それに甘えていること。
――そして、それを結月が良く思っていないこと。
二人は並んで歩き出す。夕暮れの校門を背に、いつもの帰り道。
これもまた、変わらない日常――正常運転だった。




