第一部 第一章 異世界転生?(一)
結月の家は、悠斗にとって勝手知ったる場所だった。
玄関先に立つと、インターホンを押す前に扉が開く。
「おはよ、ゆーくん。早いね」
結月は気楽な口調でそう言って、何事もなかったかのように中へ招き入れた。
「で、用件は?」
「まあまあ、あとでね」
このやり取りも、いつものことだ。
七瀬結月。すらりとした手足に、紺のセーラー服と赤いリボンがよく映える。艶のあるブラウンの髪はサイドポニーテール。揺れる赤いリボンが、彼女の明るさをそのまま形にしている。大きな茶色の瞳は人懐っこく、口元には自信たっぷりの笑み。活発で、どこかいたずらっぽい。ぱっと場を照らすような、そんな雰囲気の少女だった。
靴を脱いで上がると、キッチンの方から声がした。
「ゆーくん、来てくれたのね〜」
顔を出したのは、結月の母――七瀬未来だった。ふわりと笑う、その一瞬で空気が柔らぐ。肩にかかる柔らかなブラウンの髪。どこか少女の面影を残した優しい顔立ちに、いたずらを隠しているような明るい瞳。エプロン姿の専業主婦という穏やかな装いとは裏腹に、立ち姿には不思議な余裕が漂っている。
家庭的で親しみやすい。悠斗にとっても母親みたいな存在だった。
「ゴメンね〜、おつかい頼んじゃって」
「もうっ、結月に頼んだら、すぐゆーくんを呼んじゃうんだから」
そう言いながらも、どこか申し訳なさより親しみの方が勝っている。
「いえ、大丈夫です」
そう答えた瞬間、結月が満足そうにうなずいた。
「じゃ、決まりね。近所のスーパー行こ」
結局、理由はそれだけだった。
買い出しの内容は、思ったより普通だ。野菜に肉、調味料。特別なものは何もない。
「重いのは持つから」
「ありがと。じゃあ、はいこれ、はいこれも、どうぞどうぞ」
結月は遠慮する様子もなく、軽い袋だけを持つ。
並んで歩く帰り道も、会話は他愛ない。学校の話、近所の噂、どうでもいい話題ばかりだ。
それが終わると、七瀬家に戻り、未来が手際よく昼食の準備を始めた。
「ゆーくんも一緒に食べていきなさい」
断る間もなく、皿が並べられていく。
出来上がった昼ご飯は、家庭的で、温かい。
「いただきます」
三人で囲む食卓は、幼い頃から変わらない光景だった。
二人の姿を見ながら昔の事を思い出す。
いつからだったか、周囲の距離が妙に広がった。
何気ない一言が大げさに受け取られ、説明すればするほど話が拗れていく。
気づけば「変なことを言うやつ」「話を盛るやつ」という扱いになっていた。
それでも――結月だけは、変わらなかった。
「ゆーくんってさ、たまに意味わかんないよね」
そう言って笑いながら、当たり前のように隣にいる。
距離を取るでもなく、気を遣うでもなく、今まで通りの軽口だ。
未来も同じだった。
「ゆーくんは、相変わらず優しいわね〜」
理由を聞くことも、詮索することもない。
ただ、いつも通りに接してくれる。
その「いつも通り」が、どれほど助けになっていたか。
(……感謝してます)
口に出すことはない。普通で接すること、それが二人に対して感謝を示していた。
結月に軽口を叩きながら、悠斗は心の中でだけそう思っていた。
昼食を終え、七瀬家を後にしたあとも、二人はそのまま街へ出た。
特別な予定はない。気づけば、自然と並んで歩いていた。商店街を抜け、駅前の通りへ向かう。
人通りは多く、休日らしいざわめきが続いている。
「それ、前も言ってた」
「そうだっけ」
「そう」
結月は短く返し、歩調を合わせる。昼から夕方へ。空が少しずつ色を変え始めた頃、声をかけられた。
「悠斗」
クラスメイトの男子がスマホを手に立っていた。
「動画撮ってるんだけどさ、ちょっと頼める?」
「いいよ」
悠斗は即答した。
スマホを受け取り、言われた通りに構図を決める。
数回撮って、確認して、終わり。
「助かった。ありがとな」
男子は軽く手を振って去っていった。
結月は少し離れた場所で待っていた。
特に何か言うでもなく、ただ静かに。でも少しだけ不満そうに。
「終わったよ」
「うん」
それだけで、また並んで歩き出す。
夕方の風が吹き、街の音が少し遠くなる。
会話は途切れがちだったが、気まずさはない。
それが当たり前のように続いていた。
何も起こらない一日。
いつも通りの時間。
悠斗にとっても、結月にとっても、それは変わらなかった。
人間関係が上手くいかなくなったのは、ある日突然だった。
当時の悠斗には理由が分からなかった。言葉の選び方か、タイミングか、もしくは全部。子供なりに考えた。
どうすれば、もう失敗しないか。
どうすれば、距離を作られないか。
そして行き着いたのが、これだった。
――頼られたら、断らない。
難しいことは考えない。
お願いされたら引き受ける。
手伝えるなら手伝う。
それだけだ。
中学に上がる頃には、少なくとも表面上は、うまくいっている気がしていた。
大きな衝突もなく、居場所がなくなることもない。
それで十分だった。
結月は、そのことを知っている。だから時々、あんな顔をする。何か言いたげで、でも何も言わない顔。
それでもいい。
自分がそうして選んだことだ。それでこの距離が保てるなら、悪くない。
悠斗はそう思って、歩き続けていた。
結月を家の前まで送り届けると、玄関から未来が顔を出した。
「あら、もうこんな時間?」
「送ってきました」
「ありがとうね。ちょっと待って」
未来は奥へ引っ込み、すぐに戻ってくる。
手には小さな袋。
「夕飯のおかず。よかったら持ってって」
「ありがとうございます」
「またね、ゆーくん」
軽い調子で手を振られ、悠斗はその場を後にした。
家に戻ると、室内は静かだった。母も妹も、まだ帰ってきていないらしい。
靴を脱ぎ、袋をキッチンに置く。中身を確認しようと、口を開いた。
――そのとき。
おかずの容器の下に、小さな金属製のコインがあった。
(……未来さんのかな?)
手に取った瞬間、違和感が走る。
次の瞬間、全身が淡く光り始めた。
「え――」
床も壁も、視界のすべてが白に染まっていく。
音が遠ざかり、感覚が薄れていく。
――どこかで、同じ感覚を知っている。
今朝、見た夢。
理由もなく、ただ光に包まれていた、あの夢。
「……また、か」
そう呟いたかどうかも分からないまま、
悠斗の視界は完全に真っ白になった。
目を開くと、天井がやけに高かった。
(……は?)
最初に浮かんだのは、それだった。
石造りの天井。
装飾された壁。
どこかで見たことのある――いや、現実では見たことはない景色。あるのは――テレビやゲーム、アニメの中で。
身体を起こそうとして、足元を見る。
床には円形の模様が描かれていた。
線と記号が複雑に絡み合った、魔法陣みたいなやつ。
(いやいやいや)
視線を上げる。
正面に立っていたのは、王女っぽい女の子だった。
長い髪に、いかにも高そうな衣装。
姿勢も表情も、妙に様になっている。
その少し後ろには、鎧姿の女の子。
剣を持っているあたり、たぶん騎士。
……見た目はちょっと頼りなさそうだけど。
さらに周囲には、数名の従者らしき人影。
そして――
ふわふわと宙に浮かび、淡く光っている「何か」。
(精霊……?)
誰かが息を呑む音がした。
その場にいる全員の視線が、こちらに向いている。
状況はまったく分からない。
でも一つだけ、はっきりしている。
(これ、完全に――)
悠斗はゆっくりと周囲を見回した。
(異世界、だよな……)
王女らしき少女が、こちらを見つめている。
「あ、あなたは……だれ、ですか?」
「それは……こっちのセリフだー!!」




